何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ピアノの中の羊の大なるもの

2016-09-10 01:01:15 | 
本好きにも色々いる。
出版から10年だか30年だかを経てなお評価が高いものしか読まないという本仲間もいれば、読書好きの自分のアンテナにかかってこなかった本に良いものがあるはずがないと新刊ばかりを漁る本仲間もいる。
私は?と云えば、読書は趣味というよりは癖のようなものなのだが、本を選ぶ時に、これといった定観をもっていない。

強いて云えば、ファンタジーは苦手だということと、何とか大賞を受賞したという理由で売れている本にはあまり興味がない、といったところか。
そういった理由から手に取るのが遅くなっていた本を、ようやく読んだ。
「羊と鋼の森」(宮下奈都)

一言でいうと、音楽ともピアノとも縁がなかった17歳の青年が、調律師という仕事を通じて人と音楽と触れ合い成長する物語であり、それが全て。
ピアノの調律という特殊な分野を題材に、’’音’’の風合いについて緻密な表現がされていることとは裏腹に、物語の設定には具体性が全くない。
主人公・外村が北海道出身だということ以外、彼が生きている時代も社会情勢も描かれていないどころか、そもそも音楽を題材にとっていながら、具体的な作曲家や曲目なども、ほとんど書かれていない。
それが本書の評価を二分させているようで、手厳しい意見も多いようだが、ファンタジーを苦手とする私にしては意外なことに、嫌いではなかった、しみじみ良かった。

いつもなら、それだけで本を置いてしまいそうなファンタジー感に満ちた冒頭も、すんなり胸に落ちてきた。(『 』引用)
『森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉の鳴る音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。
問題は、近くに森などないことだ。乾いた秋の匂いをかいだのに、薄闇が下りてくる気配まで感じたのに、僕は高校の体育館の隅に立っていた。放課後の、ひとけのない体育館に、ただの案内役の一生徒としてぽつんと立っていた。
目の前に大きな黒いピアノがあった。大きな、黒い、ピアノ、のはずだ。ピアノの蓋が開いていて、そばに男の人が立っていた。何も言えずにいる僕を、その人はちらりと見た。その人が鍵盤をいくつか叩くと、蓋の開いた森から、また木々の揺れる匂いがした。夜が少し進んだ。僕は十七歳だった。』

体育館での調律師との出会いをきっかけに、17歳の青年は調律師の道を歩み始めるのだが、そこに生々しい青春の葛藤が描かれているわけではない。
’’音’’を感じ取るにも’’音’’を紡ぐにも才能を要する世界に身を投じ、才能ある先輩に囲まれながら、委縮するわけでもなく、卑屈になるわけでもなく、だからといって楽観的でテキトウなわけでもなく、周囲の人の良いところを素直に吸収していこうとする主人公の善人ぶりは、それ自体がファンタジーじみているのだが、一方で夢を諦める苦しさも描かれている。

調律師の先輩の一人に、秋野という、ピアニストを諦め調律師の道を選んだ人がいる。
秋野は、ピアノを弾こうとすると指が動かなくなるという症状のために音楽を諦めるしかない少女の話を聞き、かつて同じ夢ばかりみて苦しんだ体験を外村に語る。
『夢を見るんだ。なぜかいつも高くて危険な場所に立っててね、落ちれば確実に助からないのに、さらに過酷な条件が重なるんだ。強い風が吹くとか、ビルが傾くとか。夢の中で、これから必ず落ちるってわかってる。落ちないように、踏ん張ったり、必死にしがみついたりするんだけど、やっぱり最後には落ちてしまう』
・・・・・「夢の中でも落ちたら死ぬのか」と問う外村に、秋野はいう。
『さあね。そこはあんまり重要じゃない。』
『同じ夢を何度も見るんだ。最初の頃は、がんばってがんばって、ぎりぎりまで粘ってさ。それでも結局落ちるわけだ』
『そのうち夢の中でもわかるようになってくるんだよ。ああ、これはどうしたって助からない、必ず落ちるって。足掻いても無駄だって。それで、だんだん見切りをつけるのが早くなる』
『少し頑張ってみて、一度風が吹いたらもうだめだってわかるから、最後にその夢を見たときはさ』 『今でもはっきり覚えている。最後は高い山の尾根にいた。これはいつもの夢だって気付いたから、風も雨も来る前に自分から飛び降りたんだ』 『眼が覚めたけど、寝汗もかいていなかった。あきらめるってそういうことなんだっ て思った 』
『わかりやすいだろ。自分で飛び降りた夢を見た日に、俺は調律師になることに決めたんだ』
・・・・・「飛び降りるまでに、どれくらいかかりましたか」と問う外村に、秋野は答えた。
『「四年」即答だった。』

この部分に、少し泣けた。
ふわりふわりと捉えどころない文章からなる本作が、夢を諦める瞬間という超現実を、’’夢’’をつかって描いている。その手法を心憎く感じながらも少し泣けたのだが、これは作中’’音’’を紡ぐ心得として紹介されている言葉に由来していると思っている。
外村が信頼する先輩は、高校の国語教科書で紹介されている原民喜の文のような’’音’’を目指すべきだという。
『明るく静かに澄んで懐かしい文体、
 少しは甘えているようでありながら、厳しく深いものを湛えている文体、
 夢のように美しいが現実のようにたしかな文体』

これは作者が本書に求めた文体でもあると思うのは、本書が最初から最後まで「美」というもので貫かれているからだ。

本書の題名「羊と鋼の森」の「羊」がピアノの弦を叩くハンマーについている羊毛のフェルトを、「鋼」がピアノの弦を、「森」がピアノの木材を意味することは作中に示されているが、本書の最後で再度「美しい」「羊」について言及している。

「善」という字も、「美」という字も、「羊」からきているという。

『「古代の中国では、羊が物事の基準だったそうなのよ。神への生け贄だったんだって。善いとか美しいとか、いつも事務所のみんなが執念深く追求してるものじゃない。羊だったんだなあと思ったら、そっか、最初からピアノの中にいたんだなって。」
ああ、そうか、はじめからあの黒くて艶々した大きな楽器の中に。
目をやると、ちょうど和音が新しい曲を弾き始めるところだった。美しく、善い、祝福の歌を。 』  

この明るく静かに澄んだ文の余韻にひたっておれば良いものを、子供の頃読んだ「織田信長」(山岡荘八)の一節が浮かび、勝手に生々しい現実も感じている。
信長が多くの側女を抱えながら濃姫との家庭が安泰であったことについて書いた件にその一節 『羊の大なるものを美という』 はあったと思う。
「織田信長」が手元にないため正確なところは分からないのだが、「美」という字に「羊」が含まれているのは、「多くの雌を上手い具合に従える牡羊を偉大だとし、多くの雌を従えてなお統率がとれている様を美しいと見たからだ」と説明されていたように記憶している。
雌を上手い具合に侍らせることが「美」の語源だとしたら、ピアノの中にいる「羊」はいつもいつも美しい音を奏でるだろうか?などと、作者が思いもしないであろうことを考えながら、本書を閉じたのだった。

このように、私には本を読みながら本文とは無関係なところに思いが飛ぶという悪い癖がある。
今回も、人物すべてが善人である美しい「羊と鋼の森」を読みながら、私欲のための権謀術数の果てに最後には登場人物のほとんどが殺し合い死んでしまうという「リア王」(シェークスピア)を思い出してしまった。
そのあたりについては又つづく