何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ワンコとニャンコでいい気分

2016-09-29 23:15:00 | 
「ニャンともワンダフルな人生を」より
「人生はもっとニャンとかなる!」(水野敬也 + 長沼直樹)でニャンコ様の教えを有難く頂戴したのに引き続き、にゃんこ人間からもスピリチャルなメッセージが届けられた。

「名は体を表す」と云うが、我家のワンコは穂高からその名を頂いたせいか、家族皆が傅き「男前で美男子で気品があって凛々しくて、天才で賢くて、か~わいい、か~わいい」と日に何度も声をかけていたせいか、誇り高きこと3190メートル級のワンコだったが、一般に犬の名前が「ポチ」ならば、猫の名前は「たま」だと云われる。
その、たまちゃんを主人公とするのが、「たまちゃんのお使い便」(森沢明夫)だ。

一言でいうと、母を亡くした少女が、お使い便(仕事)を通して高齢化社会や家族形態を考え、人間として成長する物語。

こう書くと、現代の問題を鋭くとらえた社会派のようだが、そうではない。
場所も時も架空の設定でファンタジーの色が極めて濃く、その曖昧なところに自己啓発系の文言が織り込まれているという本書の作風は、他の森沢作品にも共通するものであり、ファンタジーや自己啓発系の本を苦手とする私にとって、自分から手にするジャンルではないのだが、森沢氏の本を好きな本仲間が新刊が出る度に貸してくれるため、結局もれなく読んでいる。
そして、読めば読書備忘録に記しておきたい言葉が見つかるのだから、やはり森沢作品には不思議な力があるのだと思う。
例えば、本書には二度記される有難いお言葉がある。(『 』「たまちゃんのお使い便」より引用)
『人生には、みんなが通った後にできる轍はあっても、レールはない。
 だから、あなたには自分の心を羅針盤にして、あなただけの道を歩いていけばいい。
 そして、それこそが唯一、後悔しないで死ぬための方法なのだ』

これなどは、作者がわざわざ重ねて書くくらいだから、よほど強調したいことなのだろうが、どれほど良い言葉でも、それが押し付けがましいと感じられれば、天の邪鬼な私は、嫌になってしまう。
しかし、森沢氏は核となる言葉の周辺に、ほっこりと笑いを散りばめているので、読みやすい。

私の森沢作品の心証はともかく、本書の主人公たまちゃんの周辺事情を記しておく。

七年前に母が亡くなって以来仏壇にあった母の遺影が、四年前父がフィリピン人のシャーリーンと再婚すると同時に、押し入れの隅に追いやられてしまった。
そして、その二年後、娘たまちゃんは進学のため家を出た。
座右の銘が「棚からぼたもち」「生きてるだけで丸儲け」の父は底抜けに明るく、義理の母となる39歳のフィリピン人の女性も日本料理や裁縫なども熱心に勉強し家にも町にも溶け込んでいて、大きな問題はないのだけれど、たまちゃんの胸にはいつも違和感がある。
唯一素直になれる存在の母方の祖母・静子ばあちゃんが、高齢化が深刻な田舎で買い物に不自由していると知り、大学を中退して移動販売の「おつかい便」を始めることにするのだが・・・というところから物語は始まる。

実家に戻り、「お使い便」の開店準備を始めようとした矢先に父が入院することになったため、たまちゃんは地元の同級生の助けを借りるのだが、その同級生を通して、過疎地に残る若者の葛藤や、都会と田舎の感覚の差に苦悩する若者の姿も描いている。
そして、たまちゃん自身も義母に違和感を抱き周囲の反応に戸惑いを感じているのだが、それを愚痴るたまちゃんに、静子ばあちゃんは、夫(たまちゃんの祖父)が娘・絵美(たまちゃんの母)に語っていた言葉を言う。
『人に期待する前に、まずは自分に期待すること。で、その期待に応えられるよう、自分なりに頑張ってみること。
 人にするのは期待じゃなくて、感謝だけでいいんだよーって』

このような言葉を聞かされて育った娘が母になれば、また含蓄のある言葉を家族に残している。
『人生に「失敗」はない。あるのは「成功」か「学び」だけー』
『「人生の小さな冒険」に踏み出せない人って、「勇気が足りないんじゃなくて、本当はきっと「遊び心」がちょっぴり足りないだけなんだよ』

移動便の保冷車の算段や資金繰りに奔走しながらも、祖父と母の有難い言葉と、父の「棚からぼた餅」「人生、何があっても、いい気分」という信条に支えられ、「たまちゃんのお使い便」は過疎地の老人に感謝されながらスタートする。
その活動が地元新聞にも取り上げられたりと傍目には滑り出しは上々だが、たまちゃん自身は 『有名と順調は違う』 と淡々としているのは、過疎地の老人の実態に直接触れることで自分の限界を悟ったり、客足の多さが利益に結びつかない経営の難しさにも直面しているからだ。
だが、さすがに含蓄ある言葉に囲まれて育っただけあって、たまちゃんも弱冠20歳にして宣う。
『裕福と幸福は違う』

作者は、たまニャンコ家族の言葉で『人生には、みんなが通った後にできる轍はあっても、レールはない。だから、あなたには自分の心を羅針盤にして、あなただけの道を歩いていけばいい。そして、それこそが唯一、後悔しないで死ぬための方法なのだ』の理解を促しているのかもしれないと感じつつ、私の心に響き、ツボに嵌ったのは、そこだけでは、ない。

ワンコを想う日が続く私にとって、ばあちゃんが天寿をまっとうする場面は、心に響いた。
ばあちゃんは、ごく自然に「お迎えがくるんだ」と気づくのだが、その瞬間、『何かに慶ばれ、祝われている気さえ』して、「寿命」の意味を悟るのだ。
『命を寿ぐ』
それは「逝く」のではなく、「帰ろう」という気持ち。
『わたし身体の質感が、さらに薄れていく。全身の細胞が、砂のようにさらさらと流れ出していくようだ。自分が、まるで自由な空気みたいに軽くなっていく。その感覚がとても心地よかった。
母の子宮のなかの羊水にふわふわと浮かんでいるような安心感。
わたしは、帰っていく。
おかえりー
心の核の部分に直接、慈悲深い声が届けられた気がした。
わたしは、自然と理解していた。
いま、この瞬間、わたしを包む無限の広がりが、わたしをまるごと受け入れてこれたことに。
無限と、ひとつになるのだ。』

この清らかで安らかな終焉が、眠るように笑うように眠ったワンコに重なったのだが、もう一つワンコ繋がりで私的ツボにはまったのが、たまちゃんを一番助ける地元の同級生の人柄の良さを表現するための言葉が、『従順な柴犬みたい』『柴犬みたいに人懐こい顔』 だったことだ ワン。

ニャンコたまちゃん達の有難い言葉と、それを実質的に助けるわんこが登場する話、なんだかんだと云いながら、結局気持ちよく読ませて頂いた、これも森沢氏の力量なのかもしれない。

ところで、この物語は、大切なところで、風鈴が「凛」となる。
それは時に、人の答えの代わりであったり、天のお告げのようでもある。
この風鈴はきっと、「エミリの包丁」のじいちゃんが造った風鈴だろうな、と思っているのだが、どうなのだろう?
(参照、「包丁を武器に頑張る猫 ワン」)