何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

太平洋と時間を超える折り鶴

2017-08-04 23:58:53 | ニュース
この春 広島を訪問した直後に、敬宮様の「世界の平和を祈る(卒業文集)」を拝読し、8月6日・9日に向け真面目に考えようと思っていたのだが、春以降 仕事関係でも家でも大きな変化と負担があり関連書籍を読めないままに、8月になってしまった。
そんな時に、オバマ氏の妹マヤ・ストロ氏広島訪問のニュースを知った。

<「原爆のない世界を」オバマ氏の妹、広島のイベント参加> 2017.7.31 07:02産経ニュースより引用
昨年5月に現職の米大統領として初めて広島を訪問したオバマ氏の妹、マヤ・ストロさん(46)が来日し、30日、広島市中区の広島国際会議場で開かれた県教委のイベントに参加。平和な世界の実現に向けて「原爆のない世界の構築」を訴えた。
広島入りしたマヤさんは29日、原爆資料館(中区)などを視察していた。
30日のイベントに登壇したマヤさんは「広島とつながりたかった。広島は打たれ強く、美しく復興した」と、被爆地・広島の現在の姿を目の当たりにした感想を述べた。
オバマ政権後、トランプ政権に交代し、核戦略強化に転換した米国や核兵器開発に暴走する北朝鮮などの世界情勢を念頭に、「緊張感が今も続いている」とマヤさん。「若い人が被爆者の思いを発信し、人類愛を共有することで不可能なことも可能になる」と強調、「日本や米国、友人関係にある国が友情を深め、活性化することができる」と話した。
さらに「お互いの理解を深める」重要性も指摘し、「平和とは何か、何が定義かを追求することで、一人一人が(平和に)貢献できる」と呼びかけた。

<オバマ氏の妹、広島訪問 「兄は鶴を折れて喜んでいた」>朝日新聞2017年7月30日20時45分配信より一部引用
オバマ前米大統領の妹で、米ハワイ大学で平和やグローバル学習について教えているマヤ・ストロさんが、高校生の国際教育イベントに参加するため広島を訪れている。原爆ドームなどを見学したストロさんは30日、広島市内で会見し、「原爆から復興した広島は、人々に希望を与える」と印象を語った。
イベントを主催する広島県教委が招待した。オバマ氏の昨年の広島訪問について「兄はハワイで育ち、被爆者や、被爆後に白血病で亡くなった佐々木禎子さんの話を学び、折り鶴が平和の象徴と知っていた。(広島訪問時に)鶴を折れて喜んでいたと思う」と述べた。また「歴史に向き合い、自らが学んだ被爆者の話などを共有することが、リーダーシップの一部と兄は考えていた」と語った。
一方、広島再訪の可能性を問われると「再訪して欲しいが、聞いていない」と答えるにとどまった。
オバマ前大統領が、なぜ折り鶴を手に広島を訪問されたのか。

8月6日の追悼式典のニュースで「原爆の子の像」が取り上げられることが多いため、この折鶴を掲げ持つ少女の像が、被爆による白血病の克服を祈りながら千羽鶴を折り続けて亡くなった佐々木禎子さんという12歳の少女だということを知る人は多いと思う。
私自身も子供の頃、「ガラスのうさぎ」(高木敏子)と折鶴の少女・佐々木禎子さんについての本は何冊か読んだ記憶があるのだが、これを機に再度 手に取ってみた。

「折り鶴の子どもたち 原爆症と戦った佐々木貞子と級友たち」(那須正幹・作 高田三郎・絵)
本書は、小6の禎子が秋の運動会でリレーの選手として大活躍をする場面から始まる。
2歳で被爆した禎子は、定期的にABCC(Atomic Bomb Casualty Commission)で検査を受けており、運動会で大活躍する前の検査でも異常はなかったのだが、運動会からたった数か月後の冬休みに首筋のリンパ節が腫れていることに気付いて以来 悪化の一途をたどり、亡くなるまで10か月だったいうのは、禎子自身にとっても家族にとっても、悔しさと哀しみが入り混じった怒涛のような日々だっただろう。
白血球が10万を超せば命が危ないと知っていた禎子は、家族に隠れて自分の白血球の数値を記録し続けていたため、自身の余命を悟りながらも、入院中も明るさと希望を失わず、全身全霊祈りを込めて千羽鶴を折り続けた、その意思を、級友たちが引き継ぎ’’形’’となったのが、「原爆の子の像」なのだ。

本書には、人気者だった禎子さんを想い「団結の会」を設立し活動する級友たちの純粋さと、その想いを支える教師や大人と、そういった活動に群がる活動家の諸々の問題もある程度書かれているが、全く揺るぐことがないのは、禎子と共に過ごした級友たちが、活動が自分達の手を離れた後も(寧ろ その後ほど)禎子を偲び平和を祈りながら交流を続けていることだと思う。
そして、そこに真実があるからこそ、8月6日の追悼式典では今でも毎年、子供による「平和の誓い」が述べられるのだろう。

とは云え、一方的に子供の無垢な心に期待してばかりでは、おれない。
何かで、「戦争を知りながら、このような世を作ってしまった大人よりも、戦争を知らない子供にこそ期待したい」という文を読んだ記憶があるが、子供に期待するならば、正しい歴史と事実が伝えられなければならない。
そう考えさせられる文が、本書にはあった。
2歳で被爆した禎子に原爆症が現れたのは、被爆(終戦)から9年がたった1954年のことだったが、この年
日本には防衛庁が発足した。
(『 』「折り鶴の子どもたち 原爆症と戦った佐々木貞子と級友たち」より引用)
『朝鮮戦争後、沈滞していた経済もようやく上向きに転じ、後に、’’神武景気’’と呼ばれる好景気を迎えようとしていた。
その一方では、憲法により戦力を持たないはずの日本に、防衛庁が発足し、朝鮮戦争の時、連合軍総司令部の指令で作られた警察予備隊は保安隊、そして自衛隊と名をかえた。
自治体警察が国家警察に一元化され、教員の政治活動を禁止した教育二法は成立、平和と民主主義の国、日本は、日米安全保障条約という軍事協定の下に、ちゃくちゃくと体制を変えつつあった』

この経緯を批判の意を込めて記しているのでは、決して、ない。
北の方から頻々とやってくる飛来物が、いつ日本に落下しないとも限らない状況で、そうそう甘いことを云っておれないことも勿論 承知している。
だが、だからこそ国民の健康や安全に最終的に責任を持たねばならないのは、その国自身なのだということを肝に銘じるべきだと強烈に思わせる文章も、本書にはある。

『戦後、広島に住む人間にとって、ABCCという名称は、木目の鮮やかな外装を施したワゴンタイプの専用自動車とともに、忘れられぬものの一つだった。~中略~
市民のなかに、ABCC(昭和21に年(1946年)十一月、アメリカ合衆国大統領命令により被爆地、広島と長崎に設立された、原爆の後影響を調査する機関)不信をおこさせた理由は、数多くある。
一つは、敗戦から昭和27年までの占領時代、アメリカが日本人の行った被爆研究の調査資料を、公的機関であれ民間の医師のものであれ、ことごとく没収し、その後、被爆に関する一切の発表を禁止した事実にある。アメリカ軍の統制は、一市民の被爆体験記や歌集の発表にまで及び、被爆者は戦後の数年間、原爆について、まったく口を封じられていた。
これらの情報管制は、原爆災害の科学的研究に多大な損失となったばかりでなく、医療体制の立ち遅れとなって、今日まで被爆者の命を脅かしている。
占領軍の’’原爆がくし’’政策は、必然的にABCCを原爆研究の唯一の機関として権威づけた。原爆について発言できるのは、ABCCだけでり、この機関の発表が、正確であるかのように全世界が思いこまさてしまった。
ABCCが直接、軍部と繋がっていたかどうか、またこの機関の調査の目的が、来るべき核戦争のための戦略研究にあったかは、分からない。しかし、少なくともこの機関が被爆者のために設立されたものではないことは、確かだった。
ABCCは、広島の被爆者の90%に対して検査したといわれているが、一切の治療を拒否していた。つまり、被爆者の血を採取し、細胞組織を切り取り、人体の諸機能を検査はしたけれど、投薬や手術、あるいは入院加療といった医療活動は、まったくしなかった。』

人道的見地から、この対応を批判するのは当然であり容易だが、これが戦争だというのも、確かなことだろう。

国や国民が、領土や名誉をかけて戦わねばならない時があることは、決して否定しないが、(蒟蒻問答ともなっているが)所謂 ’’武力衝突’’or’’戦闘行為’’で生じうる以外の惨禍が長く続くような事態は、それが例え誇りをかけた戦いであったとしても許されるものではないと思う。

そのような憤りを今なお呼び起こす その地に、アメリカ合衆国大統領が戦後初めて降り立った。
原爆症で亡くなった少女の無念と祈りに心を寄せ、折り鶴を手に降り立った。

広島、そこを訪れる意味を考えることは、つづく

追記、
写真は今年三月、広島の原爆資料館や平和記念公園を訪問した際に撮ったものである。
その直後に拝読した敬宮様の卒業文集「世界の平和を祈る」に感動し、8月に向け考えを深め、8月6日から9日にかけ、写真とともにここに記すつもりだったが・・・・・。
参照、「祝号外 敬宮様ご卒業」 「敬宮様の青い空 15の心」