何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

人生のウイニングボール①

2018-01-16 20:00:00 | 
表紙のデザインにも著作権があるのは承知しているが、この本を手にとった大きな理由が、心踊るような表紙にあるので、素晴らしい表紙をデザインされた方々の御名前を記すことで、掲載することをお許しいただきたいと願っている。

   
写真 KAZUHIRO FUJII / SEBUN PHOTO  装幀 今西真紀


昨年の秋 多忙を極めているなか本書を見つけた時には、「もったいない」と思い、正月休みまで読むのを取っておいた「ウイニングボール」(吉村達也)
満を持して読んだ本書の感想は・・・本の裏表紙のあらすじが全てを物語っているというものだったし、私が大いに期待したタイトルも、野球であることに絶対的な必然性を感じるものではなかったが、物語の舞台の一つが、自分も歩いたことがある新穂高ロープウェイから西穂山荘~独標~迷い沢~上高地であったため、十分に楽しむことができたし、民間山岳救助隊やヘリレスキューの場面の迫力は読み応えがあった。

という訳で、推理小説としての評価は他の読者に譲るとして、私としては限りなく個人的な理由で面白い本であった。
そんな本の裏表紙で紹介されている あらすじを記しておきたい。

(上巻)
長野県の少年野球大会決勝戦、旧戸隠村チームのエース健太は完全試合達成寸前だった。だが、捕手駿介のミスで大記録を逃し、激しく仲間をなじった。健太の態度に怒ったコーチの寺尾は、投手に渡されるべきウイニングボールを遠くへ投げ捨て、父の繁は観衆の前で息子を平手打ちにした。その出来事で、健太の心は激しく歪み、両親を憎んだ。十数年後―恋愛小説家として人気絶頂の健太に警察から連絡が入った。元恋人の沙織が冬の北アルプスで、あのウイニングボールを持って凍死したのだ。
(下巻)
自分の少年時代とまったく接点のない沙織が、なぜウイニングボールを持っていたのか?謎が健太を包む一方で、健太の母は自殺を図り、父とともに戸隠を去った…。家族崩壊の責任を一身に背負った健太は、恋人が凍死した雪の穂高へ、謎の解明と死の誘惑にかられて出かける。だが、おりからの猛吹雪で滑落。山岳救助隊員となった、かつての野球仲間たちは健太を救うため、悪天候の中、ヘリと地上から決死の救出に乗り出した。そして健太を待ち受けていたのは、想像を超えた驚愕の真相。


上下巻の表紙が、野球のボールと穂高連峰にわかれているので、感想も山と野球に分けて記すことにする。

今回はその’’山’’編。
あらすじについては上記の通りとして、多くの山岳本を読んだ(つもりの)私だが、耳慣れない言葉「山の、ま・み・む」が本書には記されていた。(『 』「ウイニングボール」より引用)

『山には、「ま・み・む」があるという』
『山には魔力があり。それが山の最大の魅力となる。しかし同時に、山は人間を無力にさせる。じつはその怖ろしい力こそ、山の魔力なのだ。そしてその魔力が魅力となる・・・・・。わかるかな、山にはまるということは、この「ま・み・む」の堂々巡りの渦に自分を置くことなのだ。いったん入ってしまったら、二度と生きては抜け出すことのできない渦にな。
だから、中途半端な気持ちで山をやるつもりなら、最初からやらない方がいい。心にスキのある人間は「ま・み・む」の循環が、必ず「む」で終わる』

山には、どんな人にも元気を与える力があると身をもって知っている私は、この件はなかなかに受け入れがたいものがあった。
勿論ここで云う’’山’’のレベルは、ハイキング程度の私の’’山’’とは違うのだが、心にスキが生じたとしても誰もが「む」に終わるのかというと、そうではないと思うのだ。
傍から見れば、あるいは「神々の山嶺」(夢枕獏)のモデルの屈折した心情なども、「む」に陥っているように見えるのかもしれない。また、長期にわたる海外遠征登山が、家族にまで「む」の連鎖を与えているように見えるかもしれない。
生活のすべてが「山」を中心に回るような生き方は、傍目には「無駄」なことに血道を上げているように見えるかもしれないし、山以外のことに関心を持たない生き方は「無力」にも見えるかもしれない。
しかし、仮にそのような一面があるとしても、それはごくごく一面に過ぎないと信じさせてくれる山岳本は多くあるので、それについては、おいおい書いていきたいと思っている。

つづく