「人生のウイニングボール①」より
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9%AB%98%E5%B2%B3#/media/File:Pcs34560_IMG_0345.JPG
この写真は、wikipediaさんからお借りしたものだが、「ウィニングボール」(吉村達也)の舞台の一つである西穂山荘~独標~上高地登山口を歩いたことがありながら、自分で撮った写真がないことにも、借り物にもかかわらず その写真を掲載したいのにも、理由がある。
そして、それ故に、おそらく他の読者がまったく気にも留めないだろう箇所が心に残り、かってに深い意味を見出している。
(『 』「ウイニングボール」より引用)
『山の遭難事故で、最も大きな割合を占めているのは、転落や滑落ではなく道迷いなんです。とくに、沢に下りていけばなんとかなるという安易な判断が重大な結果を招くことが多い。沙織さんの亡くなられた場所は、夏でも決して入り込んではいけない沢の途中にあるんです』
沙織さんが亡くなった場所、まさにこの辺りで、途方に暮れたことがある。
本書のココは、おそらく西穂から上高地側へ下山する途中にある、迷い沢を指していると思われるが、この周辺は見渡す限り同じ景色が続いている。
槍や穂高への道は、西穂山荘から上高地への道に比べれば長く険しいが、刻一刻と変わる景色や すぐそばを流れる水音が、目的地までの行程を教えてくれたり心を和ませてくれ、疲れはしても、歩くごとに気分は爽快になっていく。
だが、西穂山荘から上高地側への下山途中の、四方八方ただただ「木だらけ」(山p弁)の同じ景色のなかを歩いていると、何ともいえない妙な気になってくる。
登っているのか下っているのか、歩を右に向けたのか左に向けたのか? そこそこ歩いているようで同じ場所をぐるぐる回っているだけのような・・・山を歩いていて、ちょっと叫びたいような気になったのは、あの時が初めてのことだった。
方向感覚がそう悪くない私ですら気分が滅入ったのだから、方向感覚が微妙なだけでなく そもそも同じことを延々続けることが苦手な山pには、キツかった。
間遠にしかついていない赤い布を頼りに、這う這うの体で辿り着いたのが、上の写真の登山口なのだ。
そして、この頃、山の写真はもっぱら山pに頼っていた。
元写真部の山pは、カメラにも現像にもこだわりがあったので、そこは全面的に山pに譲り、自分は非常食や お菓子や 甘いものや美味しい物の準備と荷物持ちを分担していた。
その山pが、吐くほどにヘバッテしまえば、もちろん写真どころではない。
ゆえに、西穂から上高地への写真は今、手元に一枚もない。
一枚も生写真は持っていないが、どうしても掲載したい絵ではあったので、wikipediaさんからお借りしたという訳だ。
あの時のあの場所が、本書が云う場所と(完全に)一致しているわけではないだろうが、山での道迷いの怖さを十分に経験したからこそ、次の箇所にも目が留まったのだと思う。
『沢の罠』?
『ええ、「行きはよいよい、帰りは怖い」というやつです。一般の登山道と違って沢は水の流れが山肌を削ってつくる自然のルートです。つまり、水が下る都合だけで出来上がったコースなんですな。そこにあるのは重力の法則だけで、人間の都合など少しも考えられていません。
わかりますか、沢口さん。一般登山道は、文字どおり山に登るための道ですから、下から作り上げられていったルートです。したがって、途中に絶壁が控えていたらそこでおしまい。道をつけることは諦める。しかし、沢は上から作られるルートです。おまけに途中に崖があっても、沢の利用者は人間でも獣でもなく、水ですから、崖にぶち当たっても、滝になって落ちればいい。道迷いから何とか助かろうとして、沢を下りていった人間が死の罠に陥るのは、そこなんです。沢は水の都合だけで作られたルートであることに気づいていない。
下っていけば、いずれは人里に出られるだろうなんていう甘い考えが通用するのは、京都の北山ぐらいですね。一般の山岳地で沢伝いに下りていったら、かなりの確率で滝に遭遇します。しかも、最初から下りることを諦めてしまうような滝ではなく、枝につかまりながらであれば、なんとか下りていけるような小さな滝に遭遇するほうが多いから始末に悪い。
言ってる意味がわかりますよね。なんとかなりそうな滝を必死で下りていくうちに、なんともならない場所に出てしまったらどうなるか。今度は引き返せないんです。滝だけとは限りません。下るときは、ケガをしながらでもどうにか滑り下りられた斜面も、上り返すときには絶望的な壁となって立ちはだかる。それが沢の罠です』
・・・・・
これは完全な独り言。
昨年秋「右でも左でもなく、前へ」とかいうキャッチフレーズが流行ったが、そこにもう一つ加えなければならないのは、良識ある強い’’上’’と、賢い’’下’’からの強い力だと思う。
私は、「下からの民主主義」というものに、100%は与しない。
’’上’’から俯瞰する者がいなければ、どうしようもないことは多い。
だが、ただ強いだけで良識も常識も持ち合わせていない’’上’’であれば、『沢の罠』が増えるばかりだという事も、歴史は証明している。
そこで、’’下’’からの力が重要になるが、’’下’’もただ力を持てば良いというのではない。
’’下’’こそ賢くなければ、正しい道は拓けない。
そんな感想をもたらしてくれた本書は、推理小説としての評価は兎も角も、個人的に興味深い本であった。
と云いつつ、野球編は又つづく
大切な追記
本書の大きな魅力は、民間山岳救助隊やヘリレスキューが活躍する場面の迫力だが、そこに実在の人物が記されている。
『かつて長野・岐阜両県警には「困ったときの東邦頼み」とも言うべき、篠原秋彦が統括する東邦航空のヘリレスキューチームという奥の手があった。東邦航空なら、長野だろうが岐阜だろうが関係ない。だが現在、東邦航空はレスキュー業務から撤退している。』(『 』「ウイニングボール」より)
東邦航空がレスキュー業務から撤退した理由は幾つもあるのかもしれないが、その一つに、厳寒の鹿島槍で遭難者を救助中の篠原氏がヘリから落下 死亡されたこともあるのではないだろうか。
それほど大きな存在だった篠原氏を偲び、一冊の本を記しておきたい。
「空飛ぶ山岳救助隊―ヘリ・レスキューに命を懸ける男、篠原秋彦」(羽田治)
「山岳救助に携わる方々へ 心からの祈りと感謝を!」
上高地側からの西穂高岳登山道入口
写真出展 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E7%A9%82%E9%AB%98%E5%B2%B3#/media/File:Pcs34560_IMG_0345.JPG
この写真は、wikipediaさんからお借りしたものだが、「ウィニングボール」(吉村達也)の舞台の一つである西穂山荘~独標~上高地登山口を歩いたことがありながら、自分で撮った写真がないことにも、借り物にもかかわらず その写真を掲載したいのにも、理由がある。
そして、それ故に、おそらく他の読者がまったく気にも留めないだろう箇所が心に残り、かってに深い意味を見出している。
(『 』「ウイニングボール」より引用)
『山の遭難事故で、最も大きな割合を占めているのは、転落や滑落ではなく道迷いなんです。とくに、沢に下りていけばなんとかなるという安易な判断が重大な結果を招くことが多い。沙織さんの亡くなられた場所は、夏でも決して入り込んではいけない沢の途中にあるんです』
沙織さんが亡くなった場所、まさにこの辺りで、途方に暮れたことがある。
本書のココは、おそらく西穂から上高地側へ下山する途中にある、迷い沢を指していると思われるが、この周辺は見渡す限り同じ景色が続いている。
槍や穂高への道は、西穂山荘から上高地への道に比べれば長く険しいが、刻一刻と変わる景色や すぐそばを流れる水音が、目的地までの行程を教えてくれたり心を和ませてくれ、疲れはしても、歩くごとに気分は爽快になっていく。
だが、西穂山荘から上高地側への下山途中の、四方八方ただただ「木だらけ」(山p弁)の同じ景色のなかを歩いていると、何ともいえない妙な気になってくる。
登っているのか下っているのか、歩を右に向けたのか左に向けたのか? そこそこ歩いているようで同じ場所をぐるぐる回っているだけのような・・・山を歩いていて、ちょっと叫びたいような気になったのは、あの時が初めてのことだった。
方向感覚がそう悪くない私ですら気分が滅入ったのだから、方向感覚が微妙なだけでなく そもそも同じことを延々続けることが苦手な山pには、キツかった。
間遠にしかついていない赤い布を頼りに、這う這うの体で辿り着いたのが、上の写真の登山口なのだ。
そして、この頃、山の写真はもっぱら山pに頼っていた。
元写真部の山pは、カメラにも現像にもこだわりがあったので、そこは全面的に山pに譲り、自分は非常食や お菓子や 甘いものや美味しい物の準備と荷物持ちを分担していた。
その山pが、吐くほどにヘバッテしまえば、もちろん写真どころではない。
ゆえに、西穂から上高地への写真は今、手元に一枚もない。
一枚も生写真は持っていないが、どうしても掲載したい絵ではあったので、wikipediaさんからお借りしたという訳だ。
あの時のあの場所が、本書が云う場所と(完全に)一致しているわけではないだろうが、山での道迷いの怖さを十分に経験したからこそ、次の箇所にも目が留まったのだと思う。
『沢の罠』?
『ええ、「行きはよいよい、帰りは怖い」というやつです。一般の登山道と違って沢は水の流れが山肌を削ってつくる自然のルートです。つまり、水が下る都合だけで出来上がったコースなんですな。そこにあるのは重力の法則だけで、人間の都合など少しも考えられていません。
わかりますか、沢口さん。一般登山道は、文字どおり山に登るための道ですから、下から作り上げられていったルートです。したがって、途中に絶壁が控えていたらそこでおしまい。道をつけることは諦める。しかし、沢は上から作られるルートです。おまけに途中に崖があっても、沢の利用者は人間でも獣でもなく、水ですから、崖にぶち当たっても、滝になって落ちればいい。道迷いから何とか助かろうとして、沢を下りていった人間が死の罠に陥るのは、そこなんです。沢は水の都合だけで作られたルートであることに気づいていない。
下っていけば、いずれは人里に出られるだろうなんていう甘い考えが通用するのは、京都の北山ぐらいですね。一般の山岳地で沢伝いに下りていったら、かなりの確率で滝に遭遇します。しかも、最初から下りることを諦めてしまうような滝ではなく、枝につかまりながらであれば、なんとか下りていけるような小さな滝に遭遇するほうが多いから始末に悪い。
言ってる意味がわかりますよね。なんとかなりそうな滝を必死で下りていくうちに、なんともならない場所に出てしまったらどうなるか。今度は引き返せないんです。滝だけとは限りません。下るときは、ケガをしながらでもどうにか滑り下りられた斜面も、上り返すときには絶望的な壁となって立ちはだかる。それが沢の罠です』
・・・・・
これは完全な独り言。
昨年秋「右でも左でもなく、前へ」とかいうキャッチフレーズが流行ったが、そこにもう一つ加えなければならないのは、良識ある強い’’上’’と、賢い’’下’’からの強い力だと思う。
私は、「下からの民主主義」というものに、100%は与しない。
’’上’’から俯瞰する者がいなければ、どうしようもないことは多い。
だが、ただ強いだけで良識も常識も持ち合わせていない’’上’’であれば、『沢の罠』が増えるばかりだという事も、歴史は証明している。
そこで、’’下’’からの力が重要になるが、’’下’’もただ力を持てば良いというのではない。
’’下’’こそ賢くなければ、正しい道は拓けない。
そんな感想をもたらしてくれた本書は、推理小説としての評価は兎も角も、個人的に興味深い本であった。
と云いつつ、野球編は又つづく
大切な追記
本書の大きな魅力は、民間山岳救助隊やヘリレスキューが活躍する場面の迫力だが、そこに実在の人物が記されている。
『かつて長野・岐阜両県警には「困ったときの東邦頼み」とも言うべき、篠原秋彦が統括する東邦航空のヘリレスキューチームという奥の手があった。東邦航空なら、長野だろうが岐阜だろうが関係ない。だが現在、東邦航空はレスキュー業務から撤退している。』(『 』「ウイニングボール」より)
東邦航空がレスキュー業務から撤退した理由は幾つもあるのかもしれないが、その一つに、厳寒の鹿島槍で遭難者を救助中の篠原氏がヘリから落下 死亡されたこともあるのではないだろうか。
それほど大きな存在だった篠原氏を偲び、一冊の本を記しておきたい。
「空飛ぶ山岳救助隊―ヘリ・レスキューに命を懸ける男、篠原秋彦」(羽田治)
「山岳救助に携わる方々へ 心からの祈りと感謝を!」