何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

水脈の果て、富士の高嶺に祈る平和

2018-03-08 21:51:25 | ひとりごと
ついにダウンしてしまった。

昨夜 帰宅し遅めの夕飯をとっている時、突如胸の痛みに襲われ、そのまま椅子から崩れ落ちてしまった。
「救心を常備しておくべきだった」「救急車を呼んだ方がいいのか」と慌てる家人を宥め、着替えもせぬまま床に伏し、明けて今日は・・・万障繰り合わせて、休養している。

息も絶え絶えなほどの痛みに危機感をもったから、というわけではないが、久しぶりに曽祖父の自叙伝を読んでみた。

いや、曽祖父の自叙伝の ある箇所を読み返そうと思ったのは、先日亡くなった歌人の経歴に、大伯父のそれに重なる部分があると気になっていたからだ。

現代俳句協会名誉会長 金子兜太

風流を解さないというより無知なせいか、俳人 金子兜太氏を、私は知らなかった。
だが、訃報を知らせる記事のなかに見つけた句に目が留まり、その経歴を読み、大伯父を思ったのだった。

水脈(みお)の果て炎天の墓碑を置きて去る

これは、海軍主計中尉として送られたトラック島(現在のチューク諸島)を去る時に詠んだ句だという。

1919年に埼玉県の医師のもとに生まれた金子氏は、旧制熊谷中学、旧制水戸高等学校文科乙類を経て、1943年に東京帝国大学経済学部を繰り上げし、日銀に入行するも、すぐに海軍経理学校に短期現役士官として入行することになる。
その後、大日本帝国海軍主計中尉に任官され、トラック島で200人の部下を率いることになるのだが、餓死者が続出するなか自身は二度にわたり奇跡的に命拾いし、1946年捕虜となり、11月復員船で帰国されたという。

その帰国の途につく際に詠まれたのが、「水脈の果て炎天の墓碑を置きて去る」なのだ。

大伯父は、帰ることができなかった。

日本の行く末に強い危機感を持ちながら、皇国史観の強い家風に背くこともできず、六高時代には体を壊すほど苦しんだそうだが、そんな大伯父を救ったのが、東京帝國大学法律学科(独逸部)での学問だったという。
高校時代からの体調不良もあり徴兵が猶予されていたのだが、戦況はそれを許さないものになっていった。
司法官試験及第、司法官試補の辞令が公布されるのと並行し、徴兵検査を受け、第一乙種での令書を受けるに至る。

曽祖父の自叙伝より
『入営は刻々と迫る。二年現役海軍士官予定者の制度があった。願書提出最終日、海軍省を訪ね、願書を提出。数日後、県特高課より、私(町長)はもとより、家庭の状況、兄弟に至る迄調査され、時節柄驚いた。本人も学校の成績、下宿の生活等詳細調査されたといっていた。志願者6千人中6百人採用、大学は繰り上げ卒業。翌年(昭和16年)東京築地にある海軍経理学校補修学生として入隊、即日主計中尉に任官、翌日宮中に参内記帳、約五ヶ月後、海軍省艦政本部、航空本部出仕、大阪駐在を命ぜられる。直に艦に乗り、早く戦死した同僚もあった。一年半余、主として藤永田造船所等を監督して、月に一回、海軍省に出頭していたようである。
戦況いよいよ熾烈となり大尉に任官、横須賀副官室に転任。
海軍基地航空部隊、有馬少将麾下、副官となり、サイパン島よりパラオのペルリュー島へ、フィリピンのセブ島へ。有馬少将はフィリピン、レイテ湾敵戦艦に飛行機もろとも突入され、特攻第一号といわれた。
次々に若い学徒が動員され、機と共に太平洋に消えた。悲壮極まる世紀の悲劇で終わるに至った。
隊長を失って以来、残った小部隊を率いて、転々とし、終戦直前、六月十一日、海陸両面より機関掃射を受け、兵の斃るるもの多く本人も大腿部貫通、出血夥しく、負うて逃れんとする兵を斥け、兵に逃避を命じ、自ら拳銃にて自決す。
恥ずかしくない終りである。主計少佐。』


戦後、大伯父を負うて逃れんとしてくださった部下の方が、わざわざ郷里を訪ね、大伯父の最期を教えて下さったというが、曽祖父はこの文を昭和41年4月21日に記している。


金子氏は大伯父より二年後だが、繰り上げ卒業から海軍経理学校そして海軍主計中尉に任官と、ほぼ同じ道を歩んでおられる。

なんと多くの若者が、あたら命を見知らぬ地に海に散らしたことか。

三月末、富士山を拝する地を旅する。
御大の体調を慮って始めた春の家族旅だが、今年は皆で富士山を拝そうと新年決めた。
私の頭に浮かんだのは、「富士山は遠くから見る山で登るものではない」という山仲間の言葉だったが、御大は意外な歌を口にした。

井上靖氏の「欅の木」に記されている、戦地からの帰還兵が詠んだ歌だ。
命ありて、帰還の途次に仰ぎたる、あわれ、夕暮れの富士を忘れず

御大が井上靖氏を読んでいることも知らなかったが、まさか昨年私が胸を打たれた「欅の木」の一節を諳んじるとは思いもしなかった。

この春は、多くの先人の命と祈りあっての平和なのだと心に刻みながら、富士山を拝そうと思っている。

参照
「穂高の木ワンコの木 その壱」 「法とペンでチェスト行け!」