温暖化のせいか昔ながらの桜の開花時期が分からなくなってしまっている。
満開の桜の木の下で入学式、という光景はもはやなく、近年では卒業式の頃に咲くこともあるので、今朝 公園の固い桜の蕾を見て「今年の開花は遅い」と思いながら検索すると、どうも今年の開花は平年より一週間以上早いのだそうだ。
おかしい
桜がおかしいのか、私の感覚がおかしいのか?
もっとも、何時からか桜を祈るような気持ちで見上げるようになったことも、この時期を苦手にした理由の一つかもしれない。
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他の季節ではあまり感じなかったが、桜は、「来年の桜もワンコと見ることができるだろうか」「来年の桜もワンコと楽しみたい」と痛切に感じさせた。
それは、あっという間に満開を迎え、あっという間に散ってしまう自然現象の儚さゆえのものなのか、それとも「見事散りましょ」「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という表現が染みついてしまっているからだろうか。
そんな心寂しい桜の句を、また一つ知った。
世の中は桜の下の相撲かな 木戸孝允
「折々のことば 2018・3・22」(鷲田清一)で紹介されていたのを契機に、この句を検索する気になったのは、ある本を読んでいるせいで ’’木戸’’ という名にある種の感情を持ってしまったからかもしれない。
『近衛文麿「黙」して死す──すりかえられた戦争責任』(鳥居民)
草思社文庫より引用
昭和20年11月、元首相近衛文麿は巣鴨への収監を予知して自死した。しかし、その背後には元内大臣木戸幸一と進駐軍の調査官E・H・ノーマンによる驚くべき陰謀があった。近衛に開戦責任を負わせ自死させることにより歴史の何が隠蔽されたか。
http://www.bunsobunko.net/soshisha/detail/978-4-7942-2095-0.jsp
一方の言い分だけを取り上げた推測に基づく歴史モノを鵜呑みにすることはできないし、まして本書『近衛文麿「黙」して死す』は今手元にないので、正確なところを書くこともできないが、近衛文麿が木戸幸一に嵌められたと感じたのは、おそらく一度ではない。
最終的に近衛が黙って逝ったのは、それにより守られるものの大きさを考えたからだろうが、そのような状況に近衛を追いこんだ側の人間は、果たして近衛が守ろうとしたものを守るため’’だけ’’に、近衛を嵌めたのか。
そうではないのではないか。
そう考える時、「世の中は桜の下の相撲かな」(木戸孝允)に、世間で知られる解釈とは違った匂いを、私は嗅ぎ取ってしまう。
木戸がこの句を幕末の志士・田中光顕に贈る時、「いいか 桜の下で相撲をとってみたまえ。 勝った者には花が見えなくて、仰向けに倒れた者が上を向いて花を見るであろう。国事に奔走したものも そんなものだろう わかったか」と言ったという。
そうかもしれない。
そうかもしれないが、仰向けに倒れた者は、仰向けに倒れ最期に桜を見たかっただろうか。
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勝った者が、生き残った者が、言ってはならない言葉があると、私は思う。
満開の桜の木の下で入学式、という光景はもはやなく、近年では卒業式の頃に咲くこともあるので、今朝 公園の固い桜の蕾を見て「今年の開花は遅い」と思いながら検索すると、どうも今年の開花は平年より一週間以上早いのだそうだ。
おかしい
桜がおかしいのか、私の感覚がおかしいのか?
もっとも、何時からか桜を祈るような気持ちで見上げるようになったことも、この時期を苦手にした理由の一つかもしれない。

他の季節ではあまり感じなかったが、桜は、「来年の桜もワンコと見ることができるだろうか」「来年の桜もワンコと楽しみたい」と痛切に感じさせた。
それは、あっという間に満開を迎え、あっという間に散ってしまう自然現象の儚さゆえのものなのか、それとも「見事散りましょ」「桜の樹の下には屍体が埋まっている」という表現が染みついてしまっているからだろうか。
そんな心寂しい桜の句を、また一つ知った。
世の中は桜の下の相撲かな 木戸孝允
「折々のことば 2018・3・22」(鷲田清一)で紹介されていたのを契機に、この句を検索する気になったのは、ある本を読んでいるせいで ’’木戸’’ という名にある種の感情を持ってしまったからかもしれない。
『近衛文麿「黙」して死す──すりかえられた戦争責任』(鳥居民)
草思社文庫より引用
昭和20年11月、元首相近衛文麿は巣鴨への収監を予知して自死した。しかし、その背後には元内大臣木戸幸一と進駐軍の調査官E・H・ノーマンによる驚くべき陰謀があった。近衛に開戦責任を負わせ自死させることにより歴史の何が隠蔽されたか。
http://www.bunsobunko.net/soshisha/detail/978-4-7942-2095-0.jsp
一方の言い分だけを取り上げた推測に基づく歴史モノを鵜呑みにすることはできないし、まして本書『近衛文麿「黙」して死す』は今手元にないので、正確なところを書くこともできないが、近衛文麿が木戸幸一に嵌められたと感じたのは、おそらく一度ではない。
最終的に近衛が黙って逝ったのは、それにより守られるものの大きさを考えたからだろうが、そのような状況に近衛を追いこんだ側の人間は、果たして近衛が守ろうとしたものを守るため’’だけ’’に、近衛を嵌めたのか。
そうではないのではないか。
そう考える時、「世の中は桜の下の相撲かな」(木戸孝允)に、世間で知られる解釈とは違った匂いを、私は嗅ぎ取ってしまう。
木戸がこの句を幕末の志士・田中光顕に贈る時、「いいか 桜の下で相撲をとってみたまえ。 勝った者には花が見えなくて、仰向けに倒れた者が上を向いて花を見るであろう。国事に奔走したものも そんなものだろう わかったか」と言ったという。
そうかもしれない。
そうかもしれないが、仰向けに倒れた者は、仰向けに倒れ最期に桜を見たかっただろうか。
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勝った者が、生き残った者が、言ってはならない言葉があると、私は思う。