「盤上の、人生①」 「盤上の、人生②」より
「盤上の、人生①」「盤上の、人生②」は、まだ完結していなかったし、嬉しいニュースがあった’’3月8日’’という日について、別の角度から記しておきたいこともあったのだが、体調が悪い日が続き数日ブログからも離れていた。
そうこうしているうちに’’3月8日’’からは日が経ってしまったこともあり、書くことを止めようかと思っていた内容があるのだが、昨夜あるニュースを見て、やはり書いておこうと・・・痛むお腹を抱えながら、書いている。
3月8日 国際女性デー
国際女性デーは、1904年3月8日にニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こした事に端を発し、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが、1910年にコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱したことから始まった。と、聞けば穏便な活動のようだが、あの帝政ロシアを崩壊の追い込んだのが、二月革命での女性労働者のデモだと知ると、その力と怒りの大きさは、侮ることはできないし、決して侮るべきではないことは容易に分かる。
そんな容易に分かることが、21世紀の我が国では、まだ理解できていない。
<即位の礼の儀式「前例踏襲を基本」女性皇族参列しない方向で検討>産経新聞 3/16(金) 12:55配信より一部引用
官房長官は16日午前の記者会見で、平成31年年5月1日の新天皇即位に伴い実施される「剣璽等承継の儀」について、「平成のお代替わりの例を踏襲することを基本として、今後検討する」と述べ、女性皇族が参列しない形とする方向で検討していることを明らかにした。
「剣璽等承継の儀」は、新天皇が皇位継承の証しである天皇の印「御璽」、国の印章「国璽」などを引き継ぐ儀式。平成元年の儀式に女性皇族は参列されなかった。
歴史的に前例のある「摂政」を用いず、見たことも聞いたこともない「上皇后」「立皇嗣の礼」などというものを設ける前例破りをしながら、即位される天皇の一人娘を(女性天皇の前例がありながら)皇位継承者として認めないどころか、父の即位の礼への参列すら許さないという、この徹底した女性排除の前例主義に、いいかげん辟易としている。
伝統と云うのは、因習と紙一重のところで成り立っている部分もあるので、女性に皇位継承権を認めないのが伝統だというのなら、私はそれを理解できないが、それも伝統として受け入れなくはない。
だが、この十数年、いと高き処から見せつけられた官民挙げての大バッシングは、伝統を重んじるのではなく、単なる女性蔑視でしかなかった。
女児しか産んでいない女性への大バッシング、女児である一人児への大バッシング。
これまでも、ありとあらゆるバッシングを見せつけられてきたが、昨年末の心温まる場面に、クレームがついたことに、もはや救いがたいものを感じている。
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上の写真は、左から1996年シラク大統領来日歓迎式典、2014持続可能な開発のための教育世界会議、2017年12月5日のものである。
つまり雅子妃殿下は、上から下まで21年前の装いで公務に臨まれていたのだ。
これを正確に伝えるマスコミは、日本にはない。
だが、海外の王室関係サイトは、雅子妃殿下の帽子に注目し、昨年2017年のリピート賞一位(何度も同じものをお召しで賞)に称賛の言葉とともに選んでいるのだ。
21年 同じ服を着て公務に臨み、優しい少女の作文に涙し、叱責される雅子妃殿下。
もう何年も、理不尽と不公平を見せつけられ、もはや言葉もないが、葉隠の精神のもと「武士道とは語らざること」を貫いておられるのに乗じたネット上の事実誤認だけは正されるべきだと思っている。それは公人である雅子妃殿下だけでなく、私人であるご家族や先祖代々の方々をも疵付けるものだからだ。
そんな最低限の常識すらも持ち合わせていない者が、ネット上ではモノを書くことができる、そんな恐ろしさを感じながら、今これを書いている。
つづく
「盤上の、人生①」「盤上の、人生②」は、まだ完結していなかったし、嬉しいニュースがあった’’3月8日’’という日について、別の角度から記しておきたいこともあったのだが、体調が悪い日が続き数日ブログからも離れていた。
そうこうしているうちに’’3月8日’’からは日が経ってしまったこともあり、書くことを止めようかと思っていた内容があるのだが、昨夜あるニュースを見て、やはり書いておこうと・・・痛むお腹を抱えながら、書いている。
3月8日 国際女性デー
国際女性デーは、1904年3月8日にニューヨークで女性労働者が婦人参政権を要求してデモを起こした事に端を発し、ドイツの社会主義者クララ・ツェトキンが、1910年にコペンハーゲンで行なわれた国際社会主義者会議で「女性の政治的自由と平等のためにたたかう」記念の日とするよう提唱したことから始まった。と、聞けば穏便な活動のようだが、あの帝政ロシアを崩壊の追い込んだのが、二月革命での女性労働者のデモだと知ると、その力と怒りの大きさは、侮ることはできないし、決して侮るべきではないことは容易に分かる。
そんな容易に分かることが、21世紀の我が国では、まだ理解できていない。
<即位の礼の儀式「前例踏襲を基本」女性皇族参列しない方向で検討>産経新聞 3/16(金) 12:55配信より一部引用
官房長官は16日午前の記者会見で、平成31年年5月1日の新天皇即位に伴い実施される「剣璽等承継の儀」について、「平成のお代替わりの例を踏襲することを基本として、今後検討する」と述べ、女性皇族が参列しない形とする方向で検討していることを明らかにした。
「剣璽等承継の儀」は、新天皇が皇位継承の証しである天皇の印「御璽」、国の印章「国璽」などを引き継ぐ儀式。平成元年の儀式に女性皇族は参列されなかった。
歴史的に前例のある「摂政」を用いず、見たことも聞いたこともない「上皇后」「立皇嗣の礼」などというものを設ける前例破りをしながら、即位される天皇の一人娘を(女性天皇の前例がありながら)皇位継承者として認めないどころか、父の即位の礼への参列すら許さないという、この徹底した女性排除の前例主義に、いいかげん辟易としている。
伝統と云うのは、因習と紙一重のところで成り立っている部分もあるので、女性に皇位継承権を認めないのが伝統だというのなら、私はそれを理解できないが、それも伝統として受け入れなくはない。
だが、この十数年、いと高き処から見せつけられた官民挙げての大バッシングは、伝統を重んじるのではなく、単なる女性蔑視でしかなかった。
女児しか産んでいない女性への大バッシング、女児である一人児への大バッシング。
これまでも、ありとあらゆるバッシングを見せつけられてきたが、昨年末の心温まる場面に、クレームがついたことに、もはや救いがたいものを感じている。
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このお写真は、2017年12月5日、皇太子ご夫妻が「障害者週間」関係表彰式に御臨席になられた際の一幕だ。
障害をもつ弟について小2の姉が読んだ作文に、雅子妃殿下が目深にかぶった帽子の奥で大粒の涙をためられていたことを、(皇太子ご夫妻のニュースとしては珍しく)好意的に何度も伝えたものだった。
だが、この涙にいと高き処からクレームがついた。
曰く、公務は公平であるべきにもかかわらず、その一つに思い入れがあるかのような振る舞いは’’不公平’’で好ましくない、と
この公務には後日談とエピソードというべきものが二つある。
その一つは、作文を読んだ少女とその御家族が雅子妃殿下の涙を知り、東宮御所に年賀状を出し、また皇太子御夫妻もそれにお応えになったという事だ。
このような公務を通じた心温まる交流も、’’不公平’’という理由で許されないのだろうか。
女性皇族だから許されないのか、女児しか産んでいない女性だから許されないのか。
男子を産みさえすれば、ただ奇麗な洋服を着て、いつもいつも曖昧な笑顔を張り付けて、式典に並んでいるだけの女性でいいのか。
私には到底理解できない話だ。
もう一つは、この式典での雅子妃殿下の装いだ。
障害をもつ弟について小2の姉が読んだ作文に、雅子妃殿下が目深にかぶった帽子の奥で大粒の涙をためられていたことを、(皇太子ご夫妻のニュースとしては珍しく)好意的に何度も伝えたものだった。
だが、この涙にいと高き処からクレームがついた。
曰く、公務は公平であるべきにもかかわらず、その一つに思い入れがあるかのような振る舞いは’’不公平’’で好ましくない、と
この公務には後日談とエピソードというべきものが二つある。
その一つは、作文を読んだ少女とその御家族が雅子妃殿下の涙を知り、東宮御所に年賀状を出し、また皇太子御夫妻もそれにお応えになったという事だ。
このような公務を通じた心温まる交流も、’’不公平’’という理由で許されないのだろうか。
女性皇族だから許されないのか、女児しか産んでいない女性だから許されないのか。
男子を産みさえすれば、ただ奇麗な洋服を着て、いつもいつも曖昧な笑顔を張り付けて、式典に並んでいるだけの女性でいいのか。
私には到底理解できない話だ。
もう一つは、この式典での雅子妃殿下の装いだ。
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上の写真は、左から1996年シラク大統領来日歓迎式典、2014持続可能な開発のための教育世界会議、2017年12月5日のものである。
つまり雅子妃殿下は、上から下まで21年前の装いで公務に臨まれていたのだ。
これを正確に伝えるマスコミは、日本にはない。
だが、海外の王室関係サイトは、雅子妃殿下の帽子に注目し、昨年2017年のリピート賞一位(何度も同じものをお召しで賞)に称賛の言葉とともに選んでいるのだ。
21年 同じ服を着て公務に臨み、優しい少女の作文に涙し、叱責される雅子妃殿下。
もう何年も、理不尽と不公平を見せつけられ、もはや言葉もないが、葉隠の精神のもと「武士道とは語らざること」を貫いておられるのに乗じたネット上の事実誤認だけは正されるべきだと思っている。それは公人である雅子妃殿下だけでなく、私人であるご家族や先祖代々の方々をも疵付けるものだからだ。
そんな最低限の常識すらも持ち合わせていない者が、ネット上ではモノを書くことができる、そんな恐ろしさを感じながら、今これを書いている。
つづく