藤井聡太六段の活躍を見ながら、どう書いたものかと迷っていた本がある。
「盤上の向日葵」(柚月裕子)
本の帯より
『平成6年8月、埼玉県大宮市の天木山中で人間の白骨死体が発見された。白骨は、死後3年を経過しており、その胸には時価600万の価値がある初代菊水月の錦旗島黄楊根杢盛り上げ駒が抱かれるように置かれていた。遺体の身元割り出しのために、七組作られたという初代菊水月の駒の持ち主を探す任務を割り振られた石破・佐野の両刑事は、京都を皮切りに富山、東京、大阪への旅に出発する。彼らの捜査の先に現れたのは、奨励会を経験せずに特例でプロ棋士となり、「炎の騎士」の異名をとる時代の寵児上条桂介6段(33)であった。』
将棋をあまり知らない者も大いに楽しめるこの将棋ミステリーを読んだ時から、藤井六段の活躍と併せて、本書の感想を記しておきたいと思っていたのだが、殺人事件の動機に迫るというミステリーの要素が強いため、飄々と駒を操る弱冠15歳の天才君の快進撃と結びつけて本書を記録することが出来ないでいた。
だが、8日 藤井六段が師弟対決を制し「恩返し」(将棋界では、師匠に勝つことを恩返しと云う)を果たしたという嬉しいニュースから、「盤上の向日葵」の主人公・上条と’’先生’’を思い出したので、ミステリーとは別の角度で本書を記しておきたい。
主人公・上条には、人生に大きな影響を与えた人が、二人いた。
特異な生まれ育ちをし、両親に放置された子供時代を過ごした上条には、人生と将棋に於いて二人の’’先生’’がいた。
奨励会に合格しプロ棋士を目指したかった主人公・上条だが、貧しい家庭で理解のない親のもと、夢を諦め、東大に進む。
奨励会を諦めて以降は将棋からは遠ざかり、東大、外資系企業勤務 その評価と経験を引っさげ会社をおこし成功を収め、マスコミにも取り上げられるようになっていく。
だが、傍目には順風満帆に見える人生も、主人公・上条の心にある隙間を埋めることはできなかった。
それを見破り、上条を将棋の世界に引き戻す男・東明の生き様は、反面教師となり得たという点において、’’先生’’であったと私は思っている。
出版から一年を経ていないミステリー故に詳細を書くことを控えるが、将棋に人生すべてを賭け、しかし真っ当な将棋界に生きることができず、真剣を指しては敵を作り、一所に留まることの出来ない男・東明は、同じ匂いをエリート企業家の上条に嗅ぎ取り、上条に言う。(『 』「盤上の向日葵」より)
『お前の目はいつだって笑ってねえ。顔で笑っても、目は冷めてえままだ』
『子供のころ親から邪険にされて育つとよ、目が笑わなくなるんだ。目ん玉のなかによう、世間さまへの妬み、嫉み、恨みが、詰まっちまってる。笑おうにも、笑えねえんだよ。愛情ってやつを知らねえから、他人を信用することもできねえ。』
『俺はお前にはじめて会ったときからわかってたんだ。お前は将棋を指してねえと死んじまうやつだ、ってな。これは嘘じゃねえ。将棋に憑りつかれた人間は、見りゃァわかる。俺がそうだからな』
『お前、今の自分が窒息寸前前の面ァしてるって、わかってるか。今のお前は、目が死んじまってる。金も名誉も手に入れたようだが、将棋を指してた文無しの学生だったときの方が、生き生きしてたぜ。』
そうして、東明の言に従うように、いや本能に従うように、将棋界に戻った上条は、反面教師の生き様を生かし切れず、同じ’’二歩’’で、人生を、終えてしまう。
’’二歩’’
物語の最後、上条と東明のまさに生死をかけた勝負が、禁じ手の’’二歩’’で決着した時に、東明が口にする言葉が私の心に突き刺さるのは、高校の卒業式の校長先生の訓示に、将棋が用いられていたからかもしれない。
『歩をうてりゃなァ。人生と将棋は、ほんと、ままならねえ』(東明)
校長先生は、「人の人生は、将棋の駒のようなものかもしれない。自分で考え動いているようで、その実 上から動かしているものがいて、抗うことができないこともある」と仰った。
もちろん堅忍・力行を旨とする学校の訓示ゆえに、「抗えないものには頭を垂れて従え」とは続かない。続けて、力強い言葉で巣立つ生徒を喝破されたのだが、入試で思うような結果を得られそうになかった私には「自分ではどうしようもない困難に出会うこともある」というメッセージだけが心に残ったものだった。
そして、それが今『歩をうてりゃなァ。人生と将棋は、ほんと、ままならねえ』という言葉に重なってくる。
これで終われば、せっかくの藤井六段の晴れのニュースに水を差すことになってしまうが、勿論そのようなつもりは、ない。
本書の棋士・上条にはもう一人、人生を導いてくれた’’先生’’がいた。
その’’先生’’唐沢については ''つづく'' として、もう一つ記しておきたいニュースがある。
それについても、続く
「盤上の向日葵」(柚月裕子)
本の帯より
『平成6年8月、埼玉県大宮市の天木山中で人間の白骨死体が発見された。白骨は、死後3年を経過しており、その胸には時価600万の価値がある初代菊水月の錦旗島黄楊根杢盛り上げ駒が抱かれるように置かれていた。遺体の身元割り出しのために、七組作られたという初代菊水月の駒の持ち主を探す任務を割り振られた石破・佐野の両刑事は、京都を皮切りに富山、東京、大阪への旅に出発する。彼らの捜査の先に現れたのは、奨励会を経験せずに特例でプロ棋士となり、「炎の騎士」の異名をとる時代の寵児上条桂介6段(33)であった。』
将棋をあまり知らない者も大いに楽しめるこの将棋ミステリーを読んだ時から、藤井六段の活躍と併せて、本書の感想を記しておきたいと思っていたのだが、殺人事件の動機に迫るというミステリーの要素が強いため、飄々と駒を操る弱冠15歳の天才君の快進撃と結びつけて本書を記録することが出来ないでいた。
だが、8日 藤井六段が師弟対決を制し「恩返し」(将棋界では、師匠に勝つことを恩返しと云う)を果たしたという嬉しいニュースから、「盤上の向日葵」の主人公・上条と’’先生’’を思い出したので、ミステリーとは別の角度で本書を記しておきたい。
主人公・上条には、人生に大きな影響を与えた人が、二人いた。
特異な生まれ育ちをし、両親に放置された子供時代を過ごした上条には、人生と将棋に於いて二人の’’先生’’がいた。
奨励会に合格しプロ棋士を目指したかった主人公・上条だが、貧しい家庭で理解のない親のもと、夢を諦め、東大に進む。
奨励会を諦めて以降は将棋からは遠ざかり、東大、外資系企業勤務 その評価と経験を引っさげ会社をおこし成功を収め、マスコミにも取り上げられるようになっていく。
だが、傍目には順風満帆に見える人生も、主人公・上条の心にある隙間を埋めることはできなかった。
それを見破り、上条を将棋の世界に引き戻す男・東明の生き様は、反面教師となり得たという点において、’’先生’’であったと私は思っている。
出版から一年を経ていないミステリー故に詳細を書くことを控えるが、将棋に人生すべてを賭け、しかし真っ当な将棋界に生きることができず、真剣を指しては敵を作り、一所に留まることの出来ない男・東明は、同じ匂いをエリート企業家の上条に嗅ぎ取り、上条に言う。(『 』「盤上の向日葵」より)
『お前の目はいつだって笑ってねえ。顔で笑っても、目は冷めてえままだ』
『子供のころ親から邪険にされて育つとよ、目が笑わなくなるんだ。目ん玉のなかによう、世間さまへの妬み、嫉み、恨みが、詰まっちまってる。笑おうにも、笑えねえんだよ。愛情ってやつを知らねえから、他人を信用することもできねえ。』
『俺はお前にはじめて会ったときからわかってたんだ。お前は将棋を指してねえと死んじまうやつだ、ってな。これは嘘じゃねえ。将棋に憑りつかれた人間は、見りゃァわかる。俺がそうだからな』
『お前、今の自分が窒息寸前前の面ァしてるって、わかってるか。今のお前は、目が死んじまってる。金も名誉も手に入れたようだが、将棋を指してた文無しの学生だったときの方が、生き生きしてたぜ。』
そうして、東明の言に従うように、いや本能に従うように、将棋界に戻った上条は、反面教師の生き様を生かし切れず、同じ’’二歩’’で、人生を、終えてしまう。
’’二歩’’
物語の最後、上条と東明のまさに生死をかけた勝負が、禁じ手の’’二歩’’で決着した時に、東明が口にする言葉が私の心に突き刺さるのは、高校の卒業式の校長先生の訓示に、将棋が用いられていたからかもしれない。
『歩をうてりゃなァ。人生と将棋は、ほんと、ままならねえ』(東明)
校長先生は、「人の人生は、将棋の駒のようなものかもしれない。自分で考え動いているようで、その実 上から動かしているものがいて、抗うことができないこともある」と仰った。
もちろん堅忍・力行を旨とする学校の訓示ゆえに、「抗えないものには頭を垂れて従え」とは続かない。続けて、力強い言葉で巣立つ生徒を喝破されたのだが、入試で思うような結果を得られそうになかった私には「自分ではどうしようもない困難に出会うこともある」というメッセージだけが心に残ったものだった。
そして、それが今『歩をうてりゃなァ。人生と将棋は、ほんと、ままならねえ』という言葉に重なってくる。
これで終われば、せっかくの藤井六段の晴れのニュースに水を差すことになってしまうが、勿論そのようなつもりは、ない。
本書の棋士・上条にはもう一人、人生を導いてくれた’’先生’’がいた。
その’’先生’’唐沢については ''つづく'' として、もう一つ記しておきたいニュースがある。
それについても、続く