何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

くよくよ悩み優しくなる

2017-07-13 20:58:27 | ニュース
以下の文は7月10日に掲載されているはずだったのだが、どういうわけか掲載されておらす、しかもそれに気づくのが遅れているうちに、次の水害まで起っている。
12日夜 東海地方を局所的に襲った大雨は各地に土砂崩れを起こしただけでなく、落雷のため国宝・犬山城のシャチホコ一基が破損しているという。
このような状況であるので、医療系の本にあった災害に関する箇所を記録しておきたい。

~・~・~・~・~・~・~・~

医療系の小説は洩れなく読むようにしているのだが、最近 癌だけでなく様々な手術に立ち向かっている人を身近にしているので、本書は題名からして強い興味を覚えさせてくれた。

「がん消滅の罠 完全寛解の謎」(岩木一麻)
本年度の「このミステリーが面白い!」の大賞を受賞した本書は、出版から間もない作品でもあり、どのように感想を書くかは迷うところなので、ミステリーとは無関係だが、この度の災害などに関わり印象に残った点を先ずは記録しておきたい。 (『 』「がん消滅の罠 完全寛解の謎」より)

それは、若き医師たちから、尊敬と親愛の情をこめて’’先生’’と呼び慕われる医師の言葉だ。
この’’先生’’は、医療の現場で貧困ゆえに理不尽な苦労をする弱者を見続けたことや まだ若い娘を亡くしたことから、『医師にはできず、医師でなければできず、そしてどんな医師にも成し遂げられなかったこと』で以て、困難な状況にある人を救済したいと願うようになる。
先生の願いを如何に実現しようとするかが、本書のミステリーとしての肝となるのだが、その過程で不安にかられた若き医師に掛けた’’先生’’の言葉は、多分にマイナス思考の傾向が強い私には、印象的だった。

『憂鬱な気持ちは人々の独創性を増加させるのです。
アリストテレスはすでに紀元前四世紀にソクラテスやプラトンを含む偉人に憂鬱質的な気質があることを指摘しています。またゴッホや太宰治のように自ら命を絶った天才の例はいくらでもあげることができます。ミケランジェロ、ダーウィン、バルザック、トルストイ、ヘミングウェイ、宮沢賢治。チャイコフスキーやシューマンもそうです。彼らは皆、鬱病的な傾向をもっていました。政治家ではリンカーンやチャーチルといった歴史に名を残す政治家が憂鬱質的であったことが記録されています。
苦悩し、不安を感じていた人々が偉業を成し遂げられたのがどうしてなのか、分かりますか?』

『情緒と認知には深い関係があるのです。
 悲しみや不安は我々をより注意深くし、細かなことに関心を持たせやすくします。』

「くよくよして細かいことを考えるな」という言葉が巷を席巻しているが、’’先生’’は「くよくよ細かいことを考えず、楽しく明るくを人生の至上命題としている社会では、人は繊細な思考を放棄し、愚かになってしまう」と嘆く。
『幸福だけを至上とする社会では苦悩や不安は一種の病として扱われます。今の社会では大病を患った人は不幸にして社会のレールから外れてしまうと見做されています。昔は違いました。苦悩や不安、死と滅びは日本文化に宿命として取り込まれていたのです。我々の国土は度重なる地震とそれに伴う津波、火山の噴火、洪水などの様々な災害に襲われてきました。滅びは私達の国土に内包され、日本人はそれを一種の美意識とともに受け入れてきた。その中で日本人独特の情緒が形成されていったのです。』

『阪神淡路大震災でも多くの人々が大変な危機に直面しました。その時の被災者たちの多くが東日本大震災の折には被災地に入り、被災者の気持ちを理解して痛みを分かち合う最良の助っ人として人々を支えたのです。熊本の地震でも、東日本大震災の被災者たちが被災地支援に力を尽くしました。』

この場面を読んでいる時、この度の大洪水の募金活動のニュースを知った。
<茨城 常総市が九州豪雨の募金活動へ> NHK7月7日 16時06分配信より一部引用
記録的な豪雨となっている九州北部を支援しようと、おととし9月の関東・東北豪雨で大きな被害を受けた茨城県常総市は、9日東京で開催する復興に向けた物産展で、九州の被災地を支援する募金活動を行うことを決めました。

<茨城)秋葉原で九州豪雨の募金呼びかけ 常総市長ら> 朝日新聞2017年7月10日03時配信より一部引用
常総市の神達岳志市長らは9日、東京・秋葉原駅前で九州北部豪雨の被災地に向けた義援金の募金を呼びかけた。同市は2年前に「関東・東北豪雨」で大きな被害を受け当初、この日は常総水害への募金を呼びかける予定だったが、九州での被害を受けて急きょ切り替えた。日曜日とあって多くの人が募金に応じた。
「一昨年の水害でお世話になった茨城県常総市です。同じような水害で苦しんでいる九州の人たちへの義援金に協力をお願いします」。神達市長が呼びかけると、若者から年配者までが次々と応じていた。
市によると、2年前は九州からも多くの義援金を受けた。福岡、大分両県とは、職員の派遣などですでに相談を始めているという。


この度の九州豪雨災害では既に一般の方々に夜ボランティアの方々の活動も始まっているというが、同じく水害を受けた地方自治体がいち早く職員の派遣や募金活動を始めているというニュースが、先生の言葉に重なった。
日本人特有の’’滅びの美学’’が、果たして繰り返される災害により培われたのか否かは、私には分からないが、それにより判官贔屓や同病相憐れむという気質が育まれたのだら、悲しく辛い経験にも意味を見出すことができると思う。
何より、繰り返される災害に敢然と立ち向かい、その度ごとに打ち勝ってきたことは、長い歴史が証明してくれている。

自分にできることを考えながら、九州へ向け心をこめて祈っている。

7月10日は、ちっち記念日

2017-07-10 23:51:25 | ひとりごと
このスタイルがいいね とワンコが言ったから、7月10日はちっち記念日

毎年この日を意識するわけではないけれど、でもワンコ記念日としては忘れられない日でもあるんだよ ワンコ

二度目の予防接種がすみ、ようやっと外へ散歩に出るようになったのは、
ワンコが生まれて4か月半を過ぎた頃だったけれど、
いつまで経っても、男の子らしく片足をあげてチッチしようとしないワンコを、皆不思議に思っていたんだよ 
それが、誕生から7か月半がすぎ、初めての夏を迎えた7月10日の朝、
ワンコは突然、かっと片足をあげチッチしたんだね ワンコ
それまで何の予兆もなかったから、驚きと嬉しさで歓声をあげてしまったことが、
昨日のことのように思い出されるよ ワンコ

誰が教えたわけでもないのに、きちんと本能にしたがって片足チッチをしたワンコ
それは、寄る年波に逆らえず女の子ちっちスタイルに変わるまで、15年半は続いたね ワンコ

今思い返してみると、
ワンコは私達の家族の真ん中で家長として君臨していたけれど、
犬としての矜持はきちんと保っていたね ワンコ

犬だって、もちろん時代とともに生活スタイルは変わるだろうけれど、
それは人間様の勝手な都合によるもので、犬にとっては傍迷惑なこともあるんだろうなと思わせる本を読んだんだよ ワンコ
それは、「いぬきち」という題名だけど、
気が狂(ふ)れた犬の話ではなく、犬好きの吉さんが主人公という話なんだよ 
でも、この吉さん、亡くなった愛犬の姿が見え会話ができることを人から気味悪がられているから、
やっぱり私と同じで、犬キチかな ワンコ

「犬吉」(諸田玲子)
貞享二年(1685)、第五代将軍・徳川綱吉が発した「生類憐れみの令」により作られた「御囲」(野良犬を収容するための施設)をめぐる本書は、犬を家族として暮らす幸せを知っている人間にとっては、複雑な感情を起こさせるものである。
元禄文化として有名な元禄8年、10万両の資金に延べ人数100万人とも云われる人員を投じて建設された中野村の御囲は、最終的には総面積27万坪にもなり、敷地内には100か所以上の井戸が掘られたという。このように広大な御囲に、お犬駕籠に乗って御出でなさった お犬さまのご飯は、白米三合に味噌と干鰯、犬小屋には綿のつまった布団が敷きつめてあったという。
その一方で、当時 江戸は二度の大火に見舞われ餓死者もでるほどで、人々は食うや食わずの生活であっったが、それは御囲でお犬さまのお世話をしている者たちも同じで、雑穀交じりの雑炊を日に二度すすりながら、夜具は筵一枚といったものだった。

これを作者・諸田氏がどうみているかは、本文に『お犬さま狂騒劇』という文字があるだけでなく、エピグラムにマクベスを引用していることからも窺える。
『明日、また明日、また明日と、時は
 小きざみな足どりで一日一日を歩み、
 ついには歴史の最後の一瞬にたどりつく、
 昨日という日はすべて愚かな人間が塵と化す
 死への道を照らしてきた。消えろ、消えろ、
 つかの間の燈火!人生は歩きまわる影法師、
 憐れな役者だ。舞台の上で大げさにみえをきっても
 出場が終われば消えてしまう』 (「マクベス」(シェークスピア 訳・小田島雄志) 第五幕五場より)

第五幕は、前王を殺し王位に就いたマクベスが疑心暗鬼に陥り自滅していく場面で『人生は歩きまわる影法師、
憐れな役者だ』と歌い人生の虚しさを描いて秀逸だが、これに『お犬さま狂騒劇」という言葉が当てはめられているからと云え、片足あげてチッチしながら散歩するお犬さまが影法師なのでは決してない。

かってに お犬さまを祀り上げ、御囲をつくり駕籠で運び込み、贅沢な御飯と寝床でお暮らし頂くとの決まりを作ったのも人間なら、それが憎らしいとコッソリ犬を嬲り殺すのも人間だし、お犬さまの御飯(白米)を横流し しつつ、お犬様には腐った古米を与えて弱らせ死なしていくのも人間だ。

本書には人間の身勝手さが嫌というほど書かれているが、それを救ってくれるのは、御囲でお犬さま以下の扱いを受けながら お犬様の世話をする犬吉が、心底 犬好きだと読者に伝わるからだろう。そして、そんな犬吉を理解してくれる人が現れるからだろう。
何より、犬吉の亡くなった愛犬・雷光が、どんな時も犬吉を見守っていることが伝わるからだと思っている。

ワンコ
犬吉は辛いとき、はっきりと雷光を見ることができるだけでなく、抱きしめ頬ずりさえ出来るんだよ
どんな辛いときでも、雷光を想いながら『大切なもんがあるってのは嬉しいね』と、頑張れるんだよ 
だけどね、犬吉が新しい人生を自分の足で歩いていこうと決意した時、
雷光は祝福するかのように掛けては来たけれど、それ以上は犬吉に近づかないんだよ ワンコ
雷光は、「犬吉は、もう大丈夫だ」と思い姿を消していこうとするんだよ ワンコ

ワンコ ワンコも「下界の家族は大丈夫」と思ったら、完全に天上界の住犬になってしまうのかい?
それは寂しすぎるよ ワンコ
ワンコには、お空lifeも満喫してほしいけれど、下界にも足しげく通って欲しいよ ワンコ
辛い時には勿論 ワンコの助けが必要だけど、
どちらかと云うと、楽しい時こそ、ここにワンコがいて一緒に喜んでくれたらと思うんだよ ワンコ
だから、いつだって我が家で寛いでいておくれよ ワンコ

人生、どちらを持って指したいか②

2017-07-09 11:27:35 | ひとりごと
「どちらを持って指したいか」より

もともと下記の文は、「どちらを持って指したいか」の末尾に追記として記すつもりの文章であった。
そもそも掲載することを躊躇う気持ちの強い文章でもあった。
だが、どうしても残しておきたいというのも正直な気持ちであった。
それ故に、別立てて仕立てたうえで、後に「どちらを持って指したいか」本文に収録しようと思いつつ、こうして掲載している文章である。


「どちらを持って指したいか?」という問いかけを人生に置き替えたのには理由がある。

何年も病に臥せり公務が果たせない方を責める論調が散見されるようになった頃、ある記事が目にとまった。
それは、共感し好きなのは あの方だが、もし自分が立場が変われるとしたら その隣の人の方(ほう)になりたい、という世論調査をまとめたものだった。
たとえ恵まれた環境にあったとしても五か国もの言語を修得するには本人の並々ならぬ努力が必要だったことは想像に難くない。それを生かすための道を歩み始めていたその方が未知の世界に飛び込んだ時、その才が彼女のためにも国のためにも生かされることを多くの国民は望んだことだと思う。だが、男子を産むことができなかった、その一点で責め立てられ病に倒れ、病んで尚(ある種の目的を持つ人により)罵倒されるという異常事態が起こるようになっていく。その一方で、あちこち動き回る健康と ここぞという時を狙いすまし男子を産み分ける器用さを持ち合わせた人が隣にいた。

どちらの人生を、楽・有利・勝利と見るかは、見る側の人生観にもよるが、「共感し大好きだと思う人」と「なれるならコッチの人」が明確に分かれているデーターに、驚きとともに人の優しさと弱さを感じたのだ。

人生において「どちらを持って指したいか」は、そう単純なものではない。
だからこそ、「共感し好きだと思う人」達を、心をこめて応援していきたいと思っている。

七夕の空に願いをこめて

2017-07-07 23:55:55 | ニュース
また一つ、被災地と呼ばれる場所ができてしまった。
このブログを始めて、まだ二年と少しだが、この間だけでも地震と水害に何か所も見舞われている。
その度に何が出来るのかと考えるが、義捐金を送ることしかできない自分がもどかしい。

災害が起こると、大きな問題にばかり目がゆくが、意外に日常的な細々とした不自由が、個々人の気持ちと健康を脅かすのだということを最近(と今日)改めて、思い知った。

一月ほど前 眼科で、使い捨てコンタクトを買うついでに、眼鏡の処方箋もお願いした。
すると検眼士の方が、「最近は、どこが被災地になるか分からないので、コンタクトだけでなく眼鏡をもっておく必要がありますからね」と仰った。
思いもしなかった言葉だが考えさせられるものがあり、強く印象に残っていた。

そして一昨日からの歯痛。
二日前の夜 突如歯が痛み出したのだが、掛かりつけの歯科は木曜日が休診なので、今日(金曜日)の朝一番に連絡を取り、飛び込みで診て頂いた。
結果は、酷い肩こりと 歯を噛みしめて寝る癖による諸々からくる歯茎の腫れが主なる理由だと判明し、当分の間通院しなければならなくなったのだが、押しては引きという緩急織り交ぜながら襲ってくる痛みを取り除いて頂いたことは本当に有難かった。
そうしてホッと一息ついた時、歯科医の先生が、「災害が起こると、ありふれた日常的な歯科治療が滞り、それが原因で大きく体調を崩す方は多いのですよ。東日本大震災の時には当院も被災地に医療ボランティアとして駆けつけました」と仰った。

そうなのだ。
大きな災害が起こると、まず真っ先に大きな問題が取り上げられる。
勿論、大きな問題を優先順位の上位にすることは間違いない。
だから、
コンタクトの洗浄が出来ない or 使い捨てコンタクトの替えがないため物が見えにくい とか、歯が痛い等は、
家を失った被災者、家族や友人知人を喪った被災者、命にかかわる病と闘っている被災者がいらっしゃるなか、とてもではないが言い出しにくい事だと思う。

だが、眼精疲労や口内の衛生状態の悪化は、他の病を引き起こす原因にもなりうるし、何より少しずつの不自由の積み重ねは、それでなくとも萎えている気力と体力を奪っていく原因にもなるのだと思う。
そう考えると、被災地の方々は、言うに言えない不自由を山ほど抱えておられるに違いない。

今夜は七夕
厚い雲のうえで輝いている星に、心をこめて祈っている。
これ以上の被害の拡大がないようにと、
大きな問題への対処につづき、小さな声にも耳が傾けられるようにと・・・・・
心をこめて祈っている

九州 頑張れ!

<日本赤十字が義援金募集> 産経新聞 2017.7.7 23:16より引用
日本赤十字社は7日、九州北部地方の豪雨で被害が出ていることを受け、義援金の募集を始めた。受付期間は8月31日まで。義援金は被災県に設置された配分委員会を通じて被災者に配られる。
振込先は、ゆうちょ銀行・郵便局の口座記号番号「00190-2-696842」(口座加入者名「日赤平成29年7月大雨災害義援金」)。
三井住友銀行すずらん支店の普通預金「2787539」、三菱東京UFJ銀行やまびこ支店の普通預金「2105532」、みずほ銀行クヌギ支店の普通預金「0620340」(いずれも口座名義「日本赤十字社」)。

どちらを持って指したいか

2017-07-05 19:00:00 | 
「勝負飯 テキカツはいかが?」より

本書「サラの柔らかな香車」の著者・橋本長道氏は、自身がプロ棋士を目指し奨励会で励んだ時期をもつだけに、随所に駒への愛情が感じられるが、四段になれぬまま退会となったためだろう、将棋に対して愛憎半ばするアンビバレントなものを抱え持っている。

奨励会には全国から神童と云われる者達が入会してくるが、冷然と立ちはだかる年齢制限制度(満21歳の誕生日までに初段、満26歳の誕生日を迎える三段リーグ終了までに四段に昇段できなかった者は退会)を前に多くの神童・天才は退会を余儀なくされるという。
青春の全てをかけて将棋に取り組んできた若者が、それ以上の向上や段位が見込めぬと悟り、天を仰ぎ地に伏し嘆く時、ぶち当たる言葉があるという。(『 』「サラの柔らかな香車」より)

「才能」
自分には到底超えられぬ何かを持っている者に出くわす度に頭をもたげてくる、「才能」という言葉。
『その差を才能だと納得してしまった人間は、そこで伸びが止まるのだ』という。
だが、そこで納得せず更なる努力を重ねたとしても、やはり壁を越えることができない方が多いのも確かだ。
そんな時、云われる言葉とは。
『考えつくして出てくるのはあの魔の言葉、「才能」だ。彼は結局それだけの才能がなかったのだ━。
 迷いに迷った末、その一言で片付けるのが、先人からの知恵だった。』

「才能」という言葉は、更なる努力を引き出す力にもなれば、ある種の死刑宣告にもなるが、努力や生き方までも否定しないための慰めにもなるのかもしれない。
だが、いずれにせよ天賦の「才能」を持ち合わせる者は非常に限られているため、大方の者は「才能とは何か」と自問自答しながら、’’違う人生’’を考えねばならない。

そして’’違う人生’’を考えるという点で、本書では象徴的ともいえる三人の女性が描かれていると同時に、私の胸を揺さぶる言葉があった。

将棋に関して天賦の才はあるが、言葉やコミュニケーション能力に困難を抱える日系ブラジル人の少女・サラ。
持ち前の才に努力を重ね、女流棋士として盤石の地位を築き上げたが、その道を選ばねばならなかった理由と継続に悩みを抱える塔子。
天才と持て囃されるに十分な実力を持ちながら、より輝く天賦の才に出会ってしまったばかりに幼くして挫折を味わってしまう少女・七海。

本書の帯には、『勝負の世界を生きる三人の少女を巡り、「才能とは何か?」を厳しく問う青春長編!』とあるが、まだ始まったばかりにも思える若さの三人の人生を読み進めると、才能を生かすも殺すも本人次第である事や、「才能」さえあれば 人生がすべて上手くいくわけではない事に改めて気付かされる。

そのような気付きを感じながら読み終えた時、本書のある言葉が甦ってきた。
『どちらを持って指したいですか?』
これは、微妙な差の局面で、どちらが有利かを婉曲に問う常套句だという。

勝つことだけを目的にすれば どちらを持って指せば有利かは明白なことが多いかもしれない。
だが、人はそう単純なものではない。
本書でも、結局はそれが勝ちの決め手となる一手について、自分なら決して打たない、あるいは棋士なら本能的に嫌う’’手’’と表現されている場面がある。
もちろん誰もが思いつきもしない妙手を打てるのが真の「才能」なのだろうが、自分なら打たないような’’手’’や 本能的に嫌われるような’’手’’を打てる事もある種の「才能」と云うのだろう、そして、勝負の世界では徹頭徹尾それを追求できる者が勝ち残るのだと思う。

だが、一度それを人生に置き替えると、事はそう簡単にはいかない。
どちらを持って指せば有利になるかは分かりきっていても、人にはそれぞれ守るべき規や、越えられない一線があるため、自分が有利になることだけをメルクマールには出来ないのが、’’普通’’なのだ。
だからこそ、判官贔屓という言葉があり、「記録よりも記憶を」という言葉もあるのだろう。

人は、勝者を讃えるとともに、敗者に共感し愛することも多いのだと思う。

本書は本の帯によると、三人の若い女性を巡り「才能」とは何かを問う作品という事になっているが、実は天賦の才をもつ少女を育てようとする瀬尾と、それらを見守り記録しようとする橋元という青年が大きな役割を果たしている。
だが、この二人は二人とも、自身の「才能」の無さゆえに表舞台を去らねばならなかった者たちであるため、本書は謂わば敗者の弁とも云えるのだが、それでも爽やかであるのは、敗者がもがき苦しみながらも才能ある者を認め、正しい方法で育てていこうとする姿が描かれているからだと思う。

本書の題名「サラの柔らかな香車」の’’香車’’には、『槍とも称される、一直線に突き進む』イメージがあるという。それゆえ共感覚の持ち主であるサラも、’’香車’’に『鉱物、針、柵、動物の角など硬く尖ったイメージ』を持っていたのだが、瀬尾はサラに’’香車’’を示しながら、氷の塊と それが溶け水なる様を体感させることで、既存のイメージとは異なる「柔らかな」ものを’’香車’’に与えた。
結果的にこれが、サラの天賦の才を更に花開かせる切っ掛けとなったのだ。

「才能」などというものは、誰もが持てるものではないし、人生において「どちらを持って指したいか」を即答できることも少ないが、本書を読めば、自分自身では報われなかった努力も生かす道があると思われ、希望が感じられたのだ。

才なのか運なのか努力なのか、重要なところで何かが欠け続けてきたため、なかなか思うようには進んでいない私の人生。それを軌道修正するには遅すぎるという年を生きてしまってはいるが、自分には無い何かを持つ者を、心をこめて応援することは出来ると思っている。
その方向性が間違ってはいないと思わせてくれたという点においても、本書は私にとって大切な一冊になったと思っている。