何を見ても何かを思い出す

He who laughs last laughs best

ぜんぶ、山 ①

2018-08-19 12:00:00 | 自然
「命からがら、間一髪」より

8月11日(山の日)、am6:30 早朝降り立ったバスターミナルで装備の確認し出発!

いざ行かむ 行きてまだ見ぬ山を見む 眼に甘き山は青空にあり
「夏草冬濤」(井上靖)、木部の歌より)


そもそも山岳部ではなかった私が山を歩き始めた理由の一つに、井上靖氏の「氷壁」があるのだが、今年の山歩きでは、私は本当に井上靖氏の影響を受けているのだと感じていた。
井上靖氏が「穂高の月」で御自分にとっての山は「穂高だけ」と書いておられるのと同様に、私もまた山といえば、ワンコのお名前を頂いた「穂高だけ」との思いなのだが、登るとなるともう少し幅を広げ、穂高か穂高を拝めるお山ということにしている。
穂高もしくは穂高を拝する山への道

そんな私なので、今年もワンコのお名前のお山に登りたかったのだが、今年はどうにもその自信がなかった。
ともに登山部でもなかった山パートナー(以後は山P)と私が、若さ?と体力と気力と根性で登ってきた穂高の山々や槍ヶ岳や蝶が岳。
ほったんの散歩で日々の体力を維持していたが、それがなくなり二年と7か月。特に今年は年初から、山Pも私も仕事上の変化が激しく、とてもじゃないが運動に割ける時間などなかった。
それでも、穂高もしくは穂高が拝める山を歩き、魂の洗濯をすることが諦めきれなかった私達が計画したのが、槍ケ岳へ登ることだった。

奥穂(3190m)、北穂(3016m)、槍ケ岳(3180m)

これはまったく個人的な感覚でしかないのだが、「山高きが故に貴からず」は真実で、日本第三位の奥穂と第四位の槍ケ岳と比ぶれば、北穂の方が難易度でいえば難しい。又あの切り立ったフォルムで難しそうに見える槍の岩場よりも、ザレ場が多く落石のおそれがある奥穂のほうが怖いという印象を持っている。
そのうえ、初日の行程として、穂高への基地となる涸沢(2350m)への道程は、なまった体に相当にキツイ。それに比べれば、上高地から15キロと距離こそあるが、1820mの槍沢ロッヂ(しかもお風呂がある!!!)への道程は、体を起こすのに もってこい という判断で、今年の山は、槍ケ岳に決まった。

長い道のりを楽しませてくれる可憐な花たち
 


ほったん 
忙しくて写真も文もまとめる時間がなく小分けにするしかないので、お山の話はこれからまだまだ続くよ

命からがら、間一髪

2018-08-17 05:05:05 | ひとりごと
よくぞ生きて帰って来ることができたものぞ


今年の猛暑は、上高地も同じで少し歩けば汗ばむような気温だった。
それは上高地から14キロ奥まった槍沢ロッヂにも及び、これまでならユニクロダウンが必要な槍沢でも半袖で快適なほどだったが、槍沢を早朝たち、いざ槍ケ岳へ向かわんとすると、むくむくと濃霧が湧き視界はゼロへ。
頂上直下の槍ヶ岳山荘へ着く頃には、吹き飛ばされそうな強風と、冷たい雨で、寒い。
だが、槍ケ岳頂上直下が真夏でも寒いのは当然のことで、問題はそれだけではない。

槍ケ岳山荘のテラスより


命からがら、という体験は別のところにあった。
だが、それを救ってくれたのは、やはり ほったんだったね ほったん

ウエストポーチで私達を守りながら、楽々登山と楽旅をする ほったんブラザーズ


そんな旅の話が、はじまるよ

真骨頂に光さす

2018-08-11 05:55:55 | ひとりごと
「真っ向勝負に栄冠を!」 「科学か愛の力か、コツコツか」 「マスコミ有害論」より

古傷の肘を完全に痛めてしまい、もう野球は無理だと分かってからも練習を続けた君が、
分かってはいても、背番号すらもらえない現実に、荒れていたとき、
何も気の利いたことが言えなくて、ごめんね
地方大会が佳境に入るにつれ不機嫌になっていくのを、
どうしようもない思いで見守っていたけれど、
どうやら自分で乗り切ったね
ここで唐突に朝日と富士山の写真だけど、君には通じているだろう

一時は、リトルリーグの後輩の世話をやくのもウットウシイという感じだった君が、
思い入れのあるボールや、練習用のボールを後輩に手渡しながら、
「思いを繋いでくれよな」と語っているのを見た時には、
目頭があつくなったよ

たくさんの野球(青春)小説で、
願い虚しく敗れた者たちが、後輩に思いを託す場面があるのだけれど、
本当にそうなんだね

ねぇJ君 野球っていいね
君の成長を見ていると、本当にそう思えるよ

それでも今はまだ、「球道恋々」(木内昇)を手渡すには早いかもしれないけれど、
いつか、野球小説の感想なんかも一緒に話そうね 『「球道恋々」に、恋々④ 人生の真骨頂』

でもさ、君 今は勉強するんだよ
甲子園観戦に熱をあげてる 君よ
これからは、文武両道の、’’文’’ の季節だよ 
でもって今は、天王山の夏だよ

これから登るお山のてっぺんからエールを送るから
頑張れ! J君


ほったん
今年のお山は、ほったんのお山ではないんだよ
ほったんを拝めるお山に登る予定なんだよ
見守っていてね ほったん
でね、これは春の旅のとき、ホテルの窓越しに拝んだ朝日と富士山なんだよ

ほったんに真っ直ぐ伸びてくる朝日が神々しかったね
お山のてっぺんでも一緒に朝日を拝もうね
じゃあ 登ろう ほったん

マスコミ有害論

2018-08-10 12:00:00 | ひとりごと
「真っ向勝負に栄冠を!」 「科学か愛の力か、コツコツか」より

せっかくの甲子園100回記念大会の開会式についての文章で、以下のような嫌味を書いたのには、理由がある。

『連日40℃に迫る酷暑のなかでの記念大会であり、選手たちの体調も心配だが、開会式は日頃 体を鍛えているわけではない普通の高校生も多く運営に関わっているので、邪まな思惑で全国中等学校野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)を始めた主催社の挨拶を簡素にするのは勿論のこと、式次第もサクサクと進められることを望んでいたのだが、なかなかそうもいかない。』「真っ向勝負に栄冠を!」

今でこそ夏の甲子園(野球)は、青少年の健全な育成に寄与する国民的行事(スポーツ)のように受け留められているが ー いや、この表現は正しくはない ー 野球に打ち込む若者は、100年以上前から変わらず健全であったのだが、野球を如何に受け留めるかには変遷がある。
しかも、その変遷を意図的に歪めてリードしてきたのが、現在の夏の甲子園の主催社だ。
この主催社、過去には「野球有害論」なるもので世間を惑わし、球児を苦しめたにもかかわらず、「野球有害論」では発行部数が激減すると見るや、手のひらを返し夏の甲子園の前身である「全国中等学校野球大会」を挙行したのだ。

「100年、100回」と喧伝しながら、この経緯に頰被りを決め込み一言も触れず、「健全な精神」だの何だのと宣っている、これだけでも嫌味の一つも言いたいところだが、まだまだ不満のネタはある。

この100回記念大会の開会式には皇太子ご夫妻がご臨席されたが、これまでの皇室報道を思い返せば、よくも恥ずかしくも無く猛暑のなかでの御臨席をお願いできたものだという気がしてならない。
雅子妃殿下の流産と敬宮様の通学問題に、この主催社は許しがたい大きな大きな咎がある。
それを、御心の広い皇太子御一家がお許しになろうとも、一連の皇太子御一家バッシングが、この国から権威を重んじる空気と慎みを奪い、病者や女児を集団リンチのように虐げても構わないという空気を作りだしたと、私は考えているので、マスコミに向ける視線はどこまでも厳しくなる。

そんなマスコミのインチキな報道ぶりを身近に知る機会が、まさに野球関連であった。

我が野球小僧が、地方大会の始球式で投げた!

選手としては伸び悩み、毎回試合に出られるわけではないのだが、キャプテンとしてはなかなかに活躍している彼に、始球式で投げるという大役が回ってきた。
練習を積み、当日は甲子園の常連校のベンチから「ナイスボール!」の声があがるピッチングで大満足だったのだが、それを伝える記事を読み、こんなことまで歪めるのかと、呆れ果てたのだ。

野球小僧、文房具を憧れの選手のロゴ入りのもので揃えるほど、好きなプロ野球選手がいる。
始球式と前後して、地方テレビ局や主催社支局から、「好きな野球選手は?」というインタビューを受けていた野球小僧は当然、テレビ局にも新聞社にも、憧れの選手の名を言ったのだが、新聞社は違う名前を書いたのだ。

新聞を読み不審に思った私が理由を訊ねると、野球小僧は、「どちらにも本当に好きな選手の名を告げたのだが、新聞社はその選手では納得しない様子をアリアリと示し、違う選手の名を言わせようとする雰囲気がプンプンした」という。日頃の野球小僧なら、好きな選手の名は譲らないのだが、「始球式の日は猛烈に暑く、めんどうになり(大人の対応で、笑) 記者が望んでいる選手の名 言ってやった」、そうなのだ。

そして記事なったのは、記者が言わせたかった選手の名前のみ。

新聞記者がどうしても言わせたかった選手と新聞社(もしくは記者本人)にどのような関係があるのかは知らないが、野球小僧の憧れを曲げてまで伝えて良いものではないだろう。

一事が万事、この調子なのだと思っている。

とは云え、やはり夏の甲子園と野球はいいな、と思わせてくれることもあったので、今年も贔屓のチームをつくり手に汗握り応援している。

そんな気持ちについては、もう少しつづく

科学か愛の力か、コツコツか

2018-08-07 23:28:34 | 
「真っ向勝負に栄冠を!」より

「真っ向勝負に栄冠を!」の末尾で「甲子園や野球について、つづく」と書いたが、これから書くものは、野球周辺のもろもろ雑感。

以前、脳の外科手術によって物理現象の予測能力を体得した若者を描いた「ラプラスの魔女」(東野圭吾)について記しているが、今回 記す本は、その前日譚というべきものだ。
「魔力の胎動」(東野圭吾)

「ラプラスの魔女」とは、数学者にして物理学者にして天文学者でもあるフランス人ピエール・シモン・ラプラスが立てた仮説で、その内容は『もし、この世に存在するすべての原子の現在位置と運動量を把握する知性が存在するならば、その存在は、物理学を用いることでこれたの原子の時間的変化を計算できるだろうから、未来の状態がどうなるかを完全予知できる―』(『 』「ラプラスの魔女」より)というものだ。

この「ラプラスの魔女」と云われる予知能力を得た若者が、特殊な能力を活かして殺人事件を解決するのが小説「ラプラスの魔女」だが、物理現象を解き明かすことで解決できるのは、一般に殺人事件であることは少ないはずで、本書「魔力の胎動」では、その能力がスランプに陥ったスポーツ選手を救うために活かされている。

例えば「魔力の胎動」の第一話「あの風に向かって翔べ」は、風を読むという特殊能力によって、年齢と故障で引退を目前にした往年の名スキージャンパーの最後の試合に勝利をもたらすという話だし、第二話「この手で魔球を」は、並の捕手では捕ることができないナックルボールを、乱流を読む事に関連させて捕球指南をする話で、これらの方が、物理現象の利用という点では建設的でもあるし、ありそうな筋立てだ。

とは云え、電気工学を学んだ理系の東野圭吾氏が、ラプラスの魔女シリーズで「物理現象で予測のつかないことはない」と言いながら、最後にいつも人情に頼るのは、なかなかに興味深い。が、実際のところはどうなのだろうか。

往年の名スキージャンパーに勝利させるために、『あたしが風を読んでやる、風に支配されるんじゃなくて、風を支配するんだ』と物理学の特殊能力者が叫ぶのまでは理解できるが、最後の最後で、勝利をもたらしたのは『愛の力だ』などと宣ってしまうのは、如何なものか・・・などという無粋なことを、言いはしない。
東野氏はどうも投手に※ 魔球を投げさせるのがお好きなようなので、それを捕手が捕るのに物理学を利用しようとするのは良いが、その過程で催眠術まがいのものを利用するのは、如何なものか・・・などという無粋なことも、言いはしない。

どちらも物語としては、大いにアリだと思うのは、それこそが東野氏の物語に体温を与えているからだ。

だが、実際のところはどうだろうか?
オリンピックなどに向け、国家があらゆるものを総動員して育てている選手がスランプに陥った時、それを救うのは果たして、科学なのだろうか、愛の力なのだろうか?

以前 仕事関係の研修で、耳にした話がある。
たしか「スランプに陥った時に」という講演だったと思うが、数々の名アスリートにインタビューしたことがあるという講師は、こう言っていた。
「流れがこない時に、どうするか?と、名アスリートと云われる人たちに質問すると、
 ほぼ全ての人が同じ答えを言う。
 一つ、ミスをしないこと
 一つ、出来ることを、ひたすらコツコツすること」

このアドバイスは心に響き、それ以後、煮詰まりそうになった時に自分を立て直す寄す処にしているのだが、しょっちゅう煮詰まる私はもう少し科学と愛の力に頼った方がよいのだろうか(笑)とほんの少しばかり思ったりもしている。

「真っ向勝負に栄冠を!」で嫌味を書いた理由は、又つづく

※ 「魔球」(東野圭吾)「一歩一歩が世界に届く」