有名な『源氏物語』を書いた紫式部ですが、
ハッキリとした、
生没年さえわかっていないのです。
上級貴族の子女や后になるような女性は、
生没年も、
どなたかの日記などに残されていて、
わかるのですが。
例えば、
一条天皇の后の藤原定子の生年は976年で、
没年は1000年。
道長の正妻の源倫子は、
生年は964年で没年は1053年。
ですが、
当時は紫式部だけでなく、
女流作家の清少納言も和泉式部他も生没年未詳。
もちろん庶民もですね。
でも仕方がなかったことでしょうね。
当時は、
戸籍がなかったでしょうし、
今のように、
出生届け出の義務もなかったわけですから。
で、
戸籍ができたのは、
明治からって思いますよね。
でも広辞苑によると、
6世紀ごろから朝廷管轄領の一部で造り、
大化の改新後の、
律令国家では6年ごとに造ることとしたが、
10世紀にはほぼ廃絶。
明治維新後に復活した。
とあります。
別の説明では、
律令国家は民衆を把握するための台帳として、
戸籍を作った。
天智天皇9(670)年の、
庚午年籍が最初の戸籍であり、
持統天皇4(690)年の飛鳥浄御原令にもとづく、
庚寅年籍が、
全国的規模で実施された、
最初の戸籍と考えられている。
とのことで、
案外早くに全国的に、
戸籍が作られていたことに驚きました。
追記
ブロ友さんのtibinekoさんよりのコメント。
(感謝です)
岐阜県加茂郡富加町に、
大宝2年(702)に作成された、
日本最古の「半布里戸籍(はにゅうりこせき)」が、
残されているそうです。
実物は正倉院で保管されてるようですが、
欠けもなく、
1300年も前の戸籍が残されているって、
すごいことですね~
私が生まれたころは、
戸籍はもちろんのこと「母子手帳」があり、
何年の何月何日○時○○分に生まれたと、
記されております。
母子手帳のお陰で、
「お前は二重橋の袂(たもと)で拾ってきた子」
なんて言われても笑い飛ばせます(笑)
°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°第34回「光る君へ」°˖✧◝(⁰▿⁰)◜✧˖°
興福寺のことは小右記にも載ってます。
対応には苦慮したことでしょうね。
まだ打ち解けないお二人。
そなたは朕の中宮である。
胸を張っておらねばならぬ。
といわれる、
一条天皇のお優しさと彰子への眼差し。
心に沁みますね~
藤式部(紫式部)は、
中宮さまのお心が帝にお開きにならねば、
前へすすみません
と、
娘を案じる道長に言うのですが、
彰子は藤式部に真っ先に心を開きましたね。
昨晩もまた、
御自ら(おんみずから)藤式部の坊が見たいと、
訪ねるのですものね。
そして、
また来てよいか。
ですものね。
藤式部が物語を執筆しているところに、
帝までいらっしゃるのです。
これにはびっくり。
そなたの物語は、
朕に真っすぐに語りかけてくる。
(中略)
また来る。
です。
天皇と中宮のキューピッド役としての、
藤式部が描かれてますね。
道長邸での、
曲水の宴(ごくすいのえん・きょくすいのえんとも)。
3月3日参会者が曲水に臨んで、
上流から流される杯(さかずき)が、
自分の前を通り過ぎないうちに詩歌を作り、
杯をあげ酒を飲み次へ流す。
終わって別堂で宴を設けて披講(ひこう)した。
(広辞苑)
斉信と行成
それぞれが、
「光源氏」は誰なのか想像しているようですが、
源俊賢(みなもとのとしかた)の父親の、
源高明(みなもとのたかあきら)も、
モデルと言われるお一人ですね。
ただ、
このドラマにおいては、
道長が藤式部の「光る君」なのでは?なんて、
私は思ったりもするのですが、
最後どう描かれるのでしょう???
彰子と藤式部(紫式部)が、
打ち解けて話をしている様子を見つめる、
道長の姿が印象に残っております。
彰子のお顔つきが少しずつ、
和らいでますね。
そして金峰山(きんぷせん)のこと。
金峯山寺のホームページよりの抜粋です。
写真もお借りいたしました。
吉野山から山上ヶ岳にかけての一帯は、
古くから金の御岳(かねのみたけ)、
金峯山(きんぷせん)と称され、
古代から世に広く知られた聖域とされました。
現在では金峯山修験本宗の総本山として、
全国の修験者・山伏が集う修験道の中心寺院となっています。
徒歩で行くのですから、
(素足にわらじでしたね)
途中において幾つもの寺や仏堂を訪れた、
巡礼の旅だったようです。
(御堂関白記より)
同行には源俊賢と、
道長の嫡男の藤原頼通(渡邊圭祐さん)ですが、
道長は史実では病弱でしたから、
命をかけての御岳詣で(みたけもうで)だったんでしょうね。
ではまた来週。
(写真はNHKよりお借りいたしました)