アルトーのいう「燭台の光」。ジュネが見ればなんというだろうか。とりあえずアルトーはゴッホの愛の深さについて語っているかのようだ。そしてまたジュネは用いる言葉は違っていても、さらに愛についてではなく愛そのものとして、ニーチェのいう「閃光」の瞬発として、その「燭台の光」を語るだろう。
「こうして燭台の光は鳴り響く、緑色の藁でできた肘掛け椅子の上の火のついた燭台の光は、眠りこけたひとりの病人のからだを前にした優しい身体の息づかいのように鳴り響く」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.128』河出文庫)
アルトーは「鳴り響く」という。音楽に喩えている。ジュネに急接近しているかのように思える。しかし両者が交わることはないだろう。ところが両者ともに知っていたコクトーならどのように言うだろうか。あるいは何に注目するだろうか。作品「肘掛け椅子」は「ゴーギャンの肘掛け椅子」のことなのだが。
「それはひとつの奇妙な批評のように、深く驚くべきひとつの裁きのように鳴り響くのだが、後で、ずっと後になって、藁の肘掛け椅子の菫色の光がタブローを沈めおおせてしまうであろう日に、たしかにヴァン・ゴッホはその判決を推しはかるのをわれわれに許すことができるように思われる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.128』河出文庫)
アルトーが着目している「肘掛け椅子の菫色の光がタブローを沈めおおせてしまうであろう日」。それは解毒治療としての管弦楽がその役割を終える日に一致するに違いない。
ーーーーー
なお、「感染=パンデミック」についてさらに。「医学の国家化」と「国家による社会管理装置モデル《としての》医学」の誕生について。
以前述べたが、「ウイルス-病原体」はただ「それ単体」では何もしないということ。「感染=パンデミック」という状況は社会的規模での多層的諸条件が一致しなくては発生しようにも発生できないという事情がある。フーコーはいう。
「流行病の根底はペストとかカタルではない。それは一七二一年におけるマルセーユであり、一七八〇年におけるビセートルである。それはまた一七六九年におけるルアンであって、そこでは『夏の間、子どもたちの間にカタル性の胆汁熱や、栗粒疹熱を合併する化膿性の胆汁熱や、秋には高い発熱を伴う胆汁熱の性質をおびた流行がおこった。この<体質>はこの季節の終りと、一七六九年から一七七〇年にかけての冬の間に化膿性の黄疸に変質した』。人口に膾炙された病理形態があげられているが、それらは複雑に交錯して、構造論的には、ちょうど疾患に対する症状と全く同一な役割を演じている」(フーコー「臨床医学の誕生・P.58」みすず書房)
ここで「構造論的」とあるけれども日本で一九八〇年代の一時期に流行した「構造主義」のこととして考える必要性はない。重要なのは、たとえば結核の場合、結核の蔓延(パンデミック)は結核菌の責任ではないということだ。パンデミックは「一七二一年におけるマルセーユ」、「一七八〇年におけるビセートル」、「一七六九年におけるルアン」等々、社会的諸状況の重層的諸関係のうちから発生してくる。そしてそれらの経験を契機として一七七六年フランスで王立医学協会が設立された。その動きは医科大学における個々独立的な現場と対立する。この対立の背景に医学の国家化/中央集権化という協会側の帝国主義的意図があったことは明白である。
「協会の役割は、とくに、たえず大きくなって行く。はじめのうちは、流行病を管理する機関であったのが、やがて知識の中央化の拠点となり、医学的活動全体を記録し、評価する要請を意味する制度となる。ーーー協会は、もはや集団的病理現象の研究に献身する医師を集めるだけでなく、病理現象に対する《集団的意識》の公的機関となった。この意識は経験の地平においても、知識の地平においても発揮され、国家的空間においても、世界的形態においても発揮される」(フーコー「臨床医学の誕生・P.65」みすず書房)
一七八九年のフランス革命のとき、或る「神話」が創設される。医学者と聖職者との社会的位置の再編である。
「その一つは国家化された医業に関する神話であって、この医業は聖職者の場合と同じ様式で組織され、聖職者が人々の霊魂に及ぼすのと同じような権力を、健康と肉体のレベルでさずけられている、とされる。ーーー社会の厳密な、戦闘的な、独断的な医学化ーーー。その方法は、ほとんど宗教的ともいうべき方向転換と、医療の聖職者ともいうべき者の配置による」(フーコー「臨床医学の誕生・P.70~71」みすず書房)
そういう経緯を経て、有名な、というか、後々フーコーの名がヨーロッパ哲学思想界の中で無視できない存在になったとき、次の言葉が改めて脚光を浴びる。
「医師の最初のつとめは、したがって、政治的なものである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.73」みすず書房)
とともに、医学をモデルとした国家は国家の側から医学の名において管理主義を貫徹させることを思いつく。次のように。
「それは人間たちの生活の中に、健康、美徳、幸福というポジティヴな形象を建設する任務である。医学の責任は、今や次のような事柄となった。たとえば労働の合間に祝祭を入れること、静かな情熱を称揚すること。読みものや興行物の健全さに注意すること。また結婚がただ利得のためや一時的な熱狂によって行われることなく、幸福のただ一つの恒久的条件、すなわち国家の利益の上に基礎をおくように監督することなど」(フーコー「臨床医学の誕生・P.74」みすず書房)
医学は《健康な人間》と《不健康な人間》とに対立する二元論という枠組みを国家から委託され代理する諸機関へと変わる。
「医学はもはや単なる治療技術と、それが必要とする知識の合成物であってはならない。それは《健康な人間》についての認識をも包含することになる。ということは、《病気でない人間》の経験と同時に《模範的人間》の定義をふくむということである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.74~75」みすず書房)
この方向は加速する。そして「《健全者》/《障害者》」、「《理性》/《狂気》」、といった枠組みを国家機関として規定していく装置と化す。
「人間存在の管理の上で、医学は規範的な姿勢をとることになる」(フーコー「臨床医学の誕生・P.75」みすず書房)
すると医学をモデルとして国家体制が整えられるという転倒が生じてくる。生物学と医学とは違うということだけでなく、医学における「健康的なものと病的なものとの対立」関係が国家再編のための純然たるモデルとして採用されていくのである。
「十九世紀における諸生命科学の威信、それらがとくに諸人間科学において演じたモデルとしての役割は、生物学的諸概念の包括的かつ転移可能な性格に原初的にむすびついているわけではなく、むしろ、これらの概念が、健康的なものと病的なものとの対立に対応する、深い構造をもった空間に配置されている、という事実にむすびついている」(フーコー「臨床医学の誕生・P.75~76」みすず書房)
そのときすでに市民社会の全体的意志は知らず知らずのうちに社会的文法を医学から授けられているということを忘れ去ってしまっている。
「集団や社会の生活、民族の生活、あるいは『心理的生活』について語るときにさえ、ひとがまず思い浮かべるのは《組織化された存在》の内部的構造のことではなく、《正常性と異常性との医学的両極》のことなのである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.76」みすず書房)
人間科学が「医学的基盤」を持っているということ。それはどのように人間の思考を決定づけることになるのか。
「その考察は統一の作業よりは区分の問題にむけられており、ポジティヴなものとネガティヴなものの対立ということに、完全に対応している」(フーコー「臨床医学の誕生・P.76」みすず書房)
さてそこで、日本での動向を見てみる。
一八八二年(明治十五年)、日本政府統計局(今の総務省統計局)「統計年鑑」発行開始。翌一八八三年(明治十六年)から一九一〇年(明治四十三年)にかけて「肺病(結核)死亡者数」は加速的に上昇している。当時はまだ明治時代であり製糸業を中心とする第一次産業革命を模倣し始めたばかりの大都市を中心として女性労働者の間で感染が広がった。しかし本格的な「肺病(結核)死亡者数」と「感染率」の増大が目立つようになるのは大正時代に入ってからである。
「大正五年(一九一九)の九月一日には、わが国最初の社会政策立法である工場法がようやく実施された。ーーー工場法が公布されたころ農商務省の技官であった医師の石原修(いしわらおさむ)は、繊維工場の女子労働者の結核について綿密な調査をすすめていた。そして大正二年には『衛生学上より見たる女工の現状』という報告を発表し、女工結核に警告を放った。ーーー大正初期の工場労働者の数は、官営工場をあわせて百万人くらいであったが、その五割五分が女子労働者であり、しかも二十歳未満の女子がそのうちの六割を占めてした。繊維工業の女子労働者のほとんどが生糸・織物・紡績で占められ、それぞれ十九万・十三万・八万であった。そしてこれら三者の平均七割くらいがいわゆる寄宿女工であった」(「日本の歴史23・大正デモクラシー・P.96」中公文庫)
感染率増加の社会的構造について。
「毎年工場に出かせぎをする女工は全国で二〇万人とみられるが、そのうち十二万人は帰ってこない。渡り者になったすえ酌婦(しゃくふ)になるといった例がはなはだ多い。国に帰る八万人のうち一万三千人が重い病気で、そのうち三千人が結核にかかっていることになる。結核にかかった娘が抵抗力のない農村に帰ると、結核を一家にうつし、隣り近所にうつして多くの死亡者を出すという悲惨な例も少なくない。工場での死亡者と帰郷後の死亡者とをあわせて推定した年間死亡率は、低めに見積もっても千人につき十八人はくだらない。ほぼ同年齢の者の平均死亡率は七.六人であるからその分を差し引いても、女工五〇万人について年々五千人ぐらいがよけいに死ぬことになる。重病者の増加分は二万三千人ぐらいになる」(「日本の歴史23・大正デモクラシー・P.97〜98」中公文庫)
当時の社会状況に直接立ち会った荒畑寒村はこう述べている。
「外にはロシア革命につづいて起ったドイツやハンガリーの革命、内には戦争にともなう産業の急激な発展と労働組合運動の勃興とが、労働者に大きな精神的影響を与えていたけれども、しかし組織はまだ幼弱で闘争は小規模であった。組合は承認されず、争議はつねに官憲の弾圧をまぬがれないので、労働者は意識すると否(いな)とを問わず、直接行動に訴える外に途(みち)がなく、活動的な分子ほど革命的な理論でないまでも、革命的な気分に感染しやすかった」(荒畑寒村「寒村自伝・下・P.29」岩波文庫)
また大正九年九月十八日大阪中之島中央公会堂で開催された講演会の様子について。
「九月十八日の午後七時、難波橋、淀屋橋、栴檀の木橋の三方面から、大波のような群衆が中之島中央公会堂に向って押寄せる光景は、実にすさまじい限りであった。ーーー賀川氏の『改造の原理』は十数分、加藤氏の『貧民児童の生活状態』は三分、麻生氏の『プロレタリア外交とブルジョアの外交』は二分でいずれも中止となり、臨監警視は次いで解散を命じた」(荒畑寒村「寒村自伝・上・P.422〜423」岩波文庫)
当時は治安当局による徹底的弾圧が常態だった。ところが今ではほとんどまったく逆になっていることに留意しておく必要がある。グローバル化とともに出現したネット社会は種々の言論を弾圧して覆い隠してしまうのではなく、逆にしゃべらせるだけしゃべらせておく。そしてそのすべてをデジタル変換しデータバンク化しマーケティングし、資本-国家による社会管理のための道具として商品化し流通させ貨幣交換と同時に剰余価値を実現している。
「私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)
というふうに。これほど大規模な思想的断層がありながら、しかしなぜ人間はいつもそれについて「盲目」なのか。
「今日では言語学者としてのニーチェが証明するように、この批判の可能性と必要性は、言語活動が存在するということに結びついている。また人間たちによって語られた無数のことばは、それが合理的なものであろうと無分別なものであろうと、説明的なものであろうと、詩的なものであろうと、その中で一つの意味が形成され、それがわれわれの上に覆いかぶさり、われわれを盲目にする」(フーコー「臨床医学の誕生・P.18」みすず書房)
ここでフーコーが援用しているニーチェの言葉。
「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)
前回、ニーチェのいう永遠回帰について述べた。もう一度整理してみる。差し当たり三つ上げることができる。第一に「神の死」=「絶対的なものの死」あるいは「中心の消滅」。第二に「中心的なものの絶え間ない移動」=「変動相場制」。あってないに等しい「《基準》の消滅」。第三に「世界共同体」としての《身体における》「多様性」あるいはその流動性である。
だから二〇二〇年の世界では「感染=パンデミック」は発生するが、他方、その起源も限界もわからなくなるのである。マルクスの言葉を借りれば「想像も及ばないものになる」。
「剰余価値と剰余労働との同一性によって、資本の蓄積には一つの質的な限界がおかれている。すなわち、《総労働日》がそれであり、生産諸力と人口とのそのときどきの発展がそれであって、この人口は同じときに搾取することのできる労働日の数の限界となるのである。これに反して、剰余価値が利子という無概念的な形態でとらえられるならば、限界はただ量的なものであって、どんな想像も及ばないものになるのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十四章・P.148」国民文庫)
というふうに、グローバル社会では「感染=パンデミック」にもかかわらず、その起源も限界も覆い隠されてしまう。さらに成立してしまっているグローバル社会の中で「ウイルス-病原体」という考え方は世論をミスリードしてしまう可能性を常に孕んでいる。「ウイルス-病原体」はその都度「新発見」されるのであり、その増殖としての「感染=パンデミック」は実在する病人の増殖よりも遥かに世論の恐慌を再生産させてしまうだろう。
「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで社会的総資本の運動を形成する」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第十八章・P.159」国民文庫)
その都度「新発見」される「ウイルス-病原体」は「個別的なもの」である。しかしそれがグローバルな総運動の循環の坩堝(るつぼ)へ叩き込まれるとき、その「からみ合いのなかで」次のように変換可能になる。
「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで《感染=パンデミック》を形成する」と。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「こうして燭台の光は鳴り響く、緑色の藁でできた肘掛け椅子の上の火のついた燭台の光は、眠りこけたひとりの病人のからだを前にした優しい身体の息づかいのように鳴り響く」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.128』河出文庫)
アルトーは「鳴り響く」という。音楽に喩えている。ジュネに急接近しているかのように思える。しかし両者が交わることはないだろう。ところが両者ともに知っていたコクトーならどのように言うだろうか。あるいは何に注目するだろうか。作品「肘掛け椅子」は「ゴーギャンの肘掛け椅子」のことなのだが。
「それはひとつの奇妙な批評のように、深く驚くべきひとつの裁きのように鳴り響くのだが、後で、ずっと後になって、藁の肘掛け椅子の菫色の光がタブローを沈めおおせてしまうであろう日に、たしかにヴァン・ゴッホはその判決を推しはかるのをわれわれに許すことができるように思われる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.128』河出文庫)
アルトーが着目している「肘掛け椅子の菫色の光がタブローを沈めおおせてしまうであろう日」。それは解毒治療としての管弦楽がその役割を終える日に一致するに違いない。
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なお、「感染=パンデミック」についてさらに。「医学の国家化」と「国家による社会管理装置モデル《としての》医学」の誕生について。
以前述べたが、「ウイルス-病原体」はただ「それ単体」では何もしないということ。「感染=パンデミック」という状況は社会的規模での多層的諸条件が一致しなくては発生しようにも発生できないという事情がある。フーコーはいう。
「流行病の根底はペストとかカタルではない。それは一七二一年におけるマルセーユであり、一七八〇年におけるビセートルである。それはまた一七六九年におけるルアンであって、そこでは『夏の間、子どもたちの間にカタル性の胆汁熱や、栗粒疹熱を合併する化膿性の胆汁熱や、秋には高い発熱を伴う胆汁熱の性質をおびた流行がおこった。この<体質>はこの季節の終りと、一七六九年から一七七〇年にかけての冬の間に化膿性の黄疸に変質した』。人口に膾炙された病理形態があげられているが、それらは複雑に交錯して、構造論的には、ちょうど疾患に対する症状と全く同一な役割を演じている」(フーコー「臨床医学の誕生・P.58」みすず書房)
ここで「構造論的」とあるけれども日本で一九八〇年代の一時期に流行した「構造主義」のこととして考える必要性はない。重要なのは、たとえば結核の場合、結核の蔓延(パンデミック)は結核菌の責任ではないということだ。パンデミックは「一七二一年におけるマルセーユ」、「一七八〇年におけるビセートル」、「一七六九年におけるルアン」等々、社会的諸状況の重層的諸関係のうちから発生してくる。そしてそれらの経験を契機として一七七六年フランスで王立医学協会が設立された。その動きは医科大学における個々独立的な現場と対立する。この対立の背景に医学の国家化/中央集権化という協会側の帝国主義的意図があったことは明白である。
「協会の役割は、とくに、たえず大きくなって行く。はじめのうちは、流行病を管理する機関であったのが、やがて知識の中央化の拠点となり、医学的活動全体を記録し、評価する要請を意味する制度となる。ーーー協会は、もはや集団的病理現象の研究に献身する医師を集めるだけでなく、病理現象に対する《集団的意識》の公的機関となった。この意識は経験の地平においても、知識の地平においても発揮され、国家的空間においても、世界的形態においても発揮される」(フーコー「臨床医学の誕生・P.65」みすず書房)
一七八九年のフランス革命のとき、或る「神話」が創設される。医学者と聖職者との社会的位置の再編である。
「その一つは国家化された医業に関する神話であって、この医業は聖職者の場合と同じ様式で組織され、聖職者が人々の霊魂に及ぼすのと同じような権力を、健康と肉体のレベルでさずけられている、とされる。ーーー社会の厳密な、戦闘的な、独断的な医学化ーーー。その方法は、ほとんど宗教的ともいうべき方向転換と、医療の聖職者ともいうべき者の配置による」(フーコー「臨床医学の誕生・P.70~71」みすず書房)
そういう経緯を経て、有名な、というか、後々フーコーの名がヨーロッパ哲学思想界の中で無視できない存在になったとき、次の言葉が改めて脚光を浴びる。
「医師の最初のつとめは、したがって、政治的なものである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.73」みすず書房)
とともに、医学をモデルとした国家は国家の側から医学の名において管理主義を貫徹させることを思いつく。次のように。
「それは人間たちの生活の中に、健康、美徳、幸福というポジティヴな形象を建設する任務である。医学の責任は、今や次のような事柄となった。たとえば労働の合間に祝祭を入れること、静かな情熱を称揚すること。読みものや興行物の健全さに注意すること。また結婚がただ利得のためや一時的な熱狂によって行われることなく、幸福のただ一つの恒久的条件、すなわち国家の利益の上に基礎をおくように監督することなど」(フーコー「臨床医学の誕生・P.74」みすず書房)
医学は《健康な人間》と《不健康な人間》とに対立する二元論という枠組みを国家から委託され代理する諸機関へと変わる。
「医学はもはや単なる治療技術と、それが必要とする知識の合成物であってはならない。それは《健康な人間》についての認識をも包含することになる。ということは、《病気でない人間》の経験と同時に《模範的人間》の定義をふくむということである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.74~75」みすず書房)
この方向は加速する。そして「《健全者》/《障害者》」、「《理性》/《狂気》」、といった枠組みを国家機関として規定していく装置と化す。
「人間存在の管理の上で、医学は規範的な姿勢をとることになる」(フーコー「臨床医学の誕生・P.75」みすず書房)
すると医学をモデルとして国家体制が整えられるという転倒が生じてくる。生物学と医学とは違うということだけでなく、医学における「健康的なものと病的なものとの対立」関係が国家再編のための純然たるモデルとして採用されていくのである。
「十九世紀における諸生命科学の威信、それらがとくに諸人間科学において演じたモデルとしての役割は、生物学的諸概念の包括的かつ転移可能な性格に原初的にむすびついているわけではなく、むしろ、これらの概念が、健康的なものと病的なものとの対立に対応する、深い構造をもった空間に配置されている、という事実にむすびついている」(フーコー「臨床医学の誕生・P.75~76」みすず書房)
そのときすでに市民社会の全体的意志は知らず知らずのうちに社会的文法を医学から授けられているということを忘れ去ってしまっている。
「集団や社会の生活、民族の生活、あるいは『心理的生活』について語るときにさえ、ひとがまず思い浮かべるのは《組織化された存在》の内部的構造のことではなく、《正常性と異常性との医学的両極》のことなのである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.76」みすず書房)
人間科学が「医学的基盤」を持っているということ。それはどのように人間の思考を決定づけることになるのか。
「その考察は統一の作業よりは区分の問題にむけられており、ポジティヴなものとネガティヴなものの対立ということに、完全に対応している」(フーコー「臨床医学の誕生・P.76」みすず書房)
さてそこで、日本での動向を見てみる。
一八八二年(明治十五年)、日本政府統計局(今の総務省統計局)「統計年鑑」発行開始。翌一八八三年(明治十六年)から一九一〇年(明治四十三年)にかけて「肺病(結核)死亡者数」は加速的に上昇している。当時はまだ明治時代であり製糸業を中心とする第一次産業革命を模倣し始めたばかりの大都市を中心として女性労働者の間で感染が広がった。しかし本格的な「肺病(結核)死亡者数」と「感染率」の増大が目立つようになるのは大正時代に入ってからである。
「大正五年(一九一九)の九月一日には、わが国最初の社会政策立法である工場法がようやく実施された。ーーー工場法が公布されたころ農商務省の技官であった医師の石原修(いしわらおさむ)は、繊維工場の女子労働者の結核について綿密な調査をすすめていた。そして大正二年には『衛生学上より見たる女工の現状』という報告を発表し、女工結核に警告を放った。ーーー大正初期の工場労働者の数は、官営工場をあわせて百万人くらいであったが、その五割五分が女子労働者であり、しかも二十歳未満の女子がそのうちの六割を占めてした。繊維工業の女子労働者のほとんどが生糸・織物・紡績で占められ、それぞれ十九万・十三万・八万であった。そしてこれら三者の平均七割くらいがいわゆる寄宿女工であった」(「日本の歴史23・大正デモクラシー・P.96」中公文庫)
感染率増加の社会的構造について。
「毎年工場に出かせぎをする女工は全国で二〇万人とみられるが、そのうち十二万人は帰ってこない。渡り者になったすえ酌婦(しゃくふ)になるといった例がはなはだ多い。国に帰る八万人のうち一万三千人が重い病気で、そのうち三千人が結核にかかっていることになる。結核にかかった娘が抵抗力のない農村に帰ると、結核を一家にうつし、隣り近所にうつして多くの死亡者を出すという悲惨な例も少なくない。工場での死亡者と帰郷後の死亡者とをあわせて推定した年間死亡率は、低めに見積もっても千人につき十八人はくだらない。ほぼ同年齢の者の平均死亡率は七.六人であるからその分を差し引いても、女工五〇万人について年々五千人ぐらいがよけいに死ぬことになる。重病者の増加分は二万三千人ぐらいになる」(「日本の歴史23・大正デモクラシー・P.97〜98」中公文庫)
当時の社会状況に直接立ち会った荒畑寒村はこう述べている。
「外にはロシア革命につづいて起ったドイツやハンガリーの革命、内には戦争にともなう産業の急激な発展と労働組合運動の勃興とが、労働者に大きな精神的影響を与えていたけれども、しかし組織はまだ幼弱で闘争は小規模であった。組合は承認されず、争議はつねに官憲の弾圧をまぬがれないので、労働者は意識すると否(いな)とを問わず、直接行動に訴える外に途(みち)がなく、活動的な分子ほど革命的な理論でないまでも、革命的な気分に感染しやすかった」(荒畑寒村「寒村自伝・下・P.29」岩波文庫)
また大正九年九月十八日大阪中之島中央公会堂で開催された講演会の様子について。
「九月十八日の午後七時、難波橋、淀屋橋、栴檀の木橋の三方面から、大波のような群衆が中之島中央公会堂に向って押寄せる光景は、実にすさまじい限りであった。ーーー賀川氏の『改造の原理』は十数分、加藤氏の『貧民児童の生活状態』は三分、麻生氏の『プロレタリア外交とブルジョアの外交』は二分でいずれも中止となり、臨監警視は次いで解散を命じた」(荒畑寒村「寒村自伝・上・P.422〜423」岩波文庫)
当時は治安当局による徹底的弾圧が常態だった。ところが今ではほとんどまったく逆になっていることに留意しておく必要がある。グローバル化とともに出現したネット社会は種々の言論を弾圧して覆い隠してしまうのではなく、逆にしゃべらせるだけしゃべらせておく。そしてそのすべてをデジタル変換しデータバンク化しマーケティングし、資本-国家による社会管理のための道具として商品化し流通させ貨幣交換と同時に剰余価値を実現している。
「私たちは、企業には魂があると聞かされているが、これほど恐ろしいニュースはほかにない。いまやマーケティングが社会管理の道具となり、破廉恥な支配者層を産み出す」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)
というふうに。これほど大規模な思想的断層がありながら、しかしなぜ人間はいつもそれについて「盲目」なのか。
「今日では言語学者としてのニーチェが証明するように、この批判の可能性と必要性は、言語活動が存在するということに結びついている。また人間たちによって語られた無数のことばは、それが合理的なものであろうと無分別なものであろうと、説明的なものであろうと、詩的なものであろうと、その中で一つの意味が形成され、それがわれわれの上に覆いかぶさり、われわれを盲目にする」(フーコー「臨床医学の誕生・P.18」みすず書房)
ここでフーコーが援用しているニーチェの言葉。
「《言葉がわれわれの妨害になる!》ーーー大昔の人々がある言葉を提出する場合はいつでも、彼らはある発見をしたと信じていた。実際はどんなに違っていたことだろう!ーーー彼らはある問題に触れていた。しかしそれを《解決》してしまったと思い違いすることによって、解決の障碍物をつくり出した。ーーー現在われわれはどんな認識においても、石のように硬い不滅の言葉につまずかざるをえない。そしてその際言葉を破るよりもむしろ脚を折るであろう」(ニーチェ「曙光・四七・P.64」ちくま学芸文庫)
前回、ニーチェのいう永遠回帰について述べた。もう一度整理してみる。差し当たり三つ上げることができる。第一に「神の死」=「絶対的なものの死」あるいは「中心の消滅」。第二に「中心的なものの絶え間ない移動」=「変動相場制」。あってないに等しい「《基準》の消滅」。第三に「世界共同体」としての《身体における》「多様性」あるいはその流動性である。
だから二〇二〇年の世界では「感染=パンデミック」は発生するが、他方、その起源も限界もわからなくなるのである。マルクスの言葉を借りれば「想像も及ばないものになる」。
「剰余価値と剰余労働との同一性によって、資本の蓄積には一つの質的な限界がおかれている。すなわち、《総労働日》がそれであり、生産諸力と人口とのそのときどきの発展がそれであって、この人口は同じときに搾取することのできる労働日の数の限界となるのである。これに反して、剰余価値が利子という無概念的な形態でとらえられるならば、限界はただ量的なものであって、どんな想像も及ばないものになるのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十四章・P.148」国民文庫)
というふうに、グローバル社会では「感染=パンデミック」にもかかわらず、その起源も限界も覆い隠されてしまう。さらに成立してしまっているグローバル社会の中で「ウイルス-病原体」という考え方は世論をミスリードしてしまう可能性を常に孕んでいる。「ウイルス-病原体」はその都度「新発見」されるのであり、その増殖としての「感染=パンデミック」は実在する病人の増殖よりも遥かに世論の恐慌を再生産させてしまうだろう。
「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで社会的総資本の運動を形成する」(マルクス「資本論・第二部・第三篇・第十八章・P.159」国民文庫)
その都度「新発見」される「ウイルス-病原体」は「個別的なもの」である。しかしそれがグローバルな総運動の循環の坩堝(るつぼ)へ叩き込まれるとき、その「からみ合いのなかで」次のように変換可能になる。
「個別的諸資本の循環は、互いにからみ合い、互いに前提し合い、互いに条件をなし合っているのであって、まさにこのからみ合いのなかで《感染=パンデミック》を形成する」と。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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