白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

遍在する廃墟/空虚の遍在6

2020年04月28日 | 日記・エッセイ・コラム
マスコミ報道を見ていると「感染=パンデミック」について「経済か社会保障か」という問いを立てている。あからさまな見当違いを堂々と報道して見せるところはさすがにマスコミであってマスコミでなくてはあそこまで堂々たる見当違いを大々的に演じることはできないだろうとおもわれる。なぜなら「経済」という言葉が資本主義という意味で用いられているとすれば、「経済」はあらかじめ「社会保障」を含んでいるからである。「社会保障」を制度として内部に含み込むことで始めて資本主義は生成期のむき出しの資本主義から脱してよりいっそうモダンで洗練された資本主義として、なおかつ「ロシア革命を消化した」資本主義として東西冷戦を制し世界を制覇することができたからである。にもかかわらず、なぜ今になって「経済か社会保障か」という問いが出てくるのだろう。驚かないではいられないと言いたいところだが、「経済か社会保障か」という問いが事実として問題になっているとすれば、今の世界を覆い尽くしているのは資本主義ではなく新自由主義という制度のことであって、資本主義とは似て非なる別物だと言わねばならない。資本主義が快適な動作環境を維持していれば、多かれ少なかれ周期的な恐慌は当然のように起こってくる。けれども、「経済か社会保障か」という問いは二十世紀いっぱいを要してすでに克服され制圧された問いなのであって、まかり間違っても起こってくることは不可能だからだ。

「資本主義は、古い公理に対して、新しい公理⦅労働階級のための公理、労働組合のための公理、等々⦆をたえず付け加えることによってのみ、ロシア革命を消化することができたのだ。ところが、資本主義は、またさらに別の種々の事情のために(本当に極めて小さい、全くとるにたらない種々の事情のために)、常に種々の公理を付け加える用意があり、またじっさいに付け加えている。これは資本主義の固有の受難であるが、この受難は資本主義の本質を何ら変えるものではない」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.303~304」河出書房新社)

世界中が「感染=パンデミック」に恐れおののいていてもなお銀行と病院とは原則的に休業できない。一人の銀行員が故障したとする。ただちに病院が修理回復させる。そして銀行員はすみやかに職場復帰する。このサイクルがいつもすでに快適な動作環境を維持継続できているか、その準備がいつも整理整頓されていていつでもただちに稼働できる状態に入っている限りで、始めて市民社会はその中へ溶け込むことができると同時に生産、流通、金融機関ならびに社会保障機構の担い手として生きることができ、さらにその再生産過程へどんどん参入していくことができる。というより、つい最近まではできていた。モダンな資本主義はそのような長期間に渡る苦闘の末にようやくグローバル資本主義としてのネット社会をも実現するに至った。ところがどういうわけでか、自分で自分自身の身体の中から新自由主義という前代未聞の怪物を生み出した。アメリカでいう「無政府主義的キャピタリズム」あるいは「急進的リバタリアン」という怪物を。すると自動的に時代は退行する。過去に叩き潰し念入りに葬り去ったはずの亡霊がゾンビのごとく蘇ってくる。だから「経済か社会保障か」という問いは、はなはだしい見当違いであるにもかかわらず、亡霊ではない事実として反復されるような事態が出現してきた。

一九三二年七月三十日。アインシュタインはフロイトに向けてこう問うている。

「国民の多くが学校やマスコミの手で煽(あお)り立てられ、自分の身を犠牲にしていくーーーこのようなことがどうして起こり得るのだろうか?答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜(ひそ)んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が」(アインシュタイン「フロイトへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.15』講談社学術文庫)

戦争阻止のために何ができるか。それがテーマ。国連(当時の国際連盟)がアインシュタインに宛てて考えてほしいと要請した。要請を受け取ったアインシュタインは議論の相手にフロイトを指名した。そこでずばりと提出された問いは、フロイトがかねてから発表していた人間の「破壊欲動」についての問いだった。フロイトは始めのうち簡潔に自説を述べるに留めている。

「『死の欲動』が《外》の対象に向けられると、『破壊欲動』になるのです。生命体は異質なものを外へ排除し、破壊することで自分を守っていきますが、破壊欲動の一部は生命体へ《内面化》されます」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.43』講談社学術文庫)

この内容はフロイト以前にニーチェが発表していた内容と一致する。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

フロイトはニーチェから多くのヒントを得たことを自分で述べてもいる。

「ニーチェは夢の中には『一片の原始の人間性がはたらきつづけており、われわれはそこへ直接にはほとんど到達しがたいのだ』といっているが、この言葉がいかに適切なものであるかがよくわかるような気がする」(フロイト「夢判断・下・P.309」新潮文庫)

さらに。

「グロデックの用語にしたがってエスと名づけるよう提案する。グロデック自身、たしかにニーチェの例にしたがっている。ニーチェでは、われわれの本質の中の非人間的なもの、いわば自然必然的なものについて、この文法上の非人称の表現エスEsがいつもつかわれている」(フロイト「自我とエス」『フロイト著作集6・P.273』人文書院)

それに留まらずフロイトはもちろん自分でも論理展開している。たとえば次のように。

「内的知覚の外界への投射は原始的メカニズムであり、たとえばわれわれの感覚的知覚もこれにしたがっている。したがってこのメカニズムは普通われわれの外界形成にあずかってもっとも力のあるものである。まだ充分に確かめられてはいないが、ある条件のもとでは、感情や思考の動きといった内的知覚までが感覚的知覚と同様に外部に投射され、内的世界にとどまるべきはずのものが、外部世界の形成に利用されるのである。このことは発生的にはおそらく、注意力のはたらきが本来内部世界にではなく、外界から押しよせる刺激に向けられていて、内的心理過程については快・不快の発展についての情報しか受けつけないということと関連があるのであろう。抽象的思考言語ができあがってはじめて、言語表象の感覚的残滓は内的事象と結びつくようになり、かくして内的事象そのものがしだいに知覚されうるようになった」(フロイト「トーテムとタブー」『フロイト著作集3・P.202~203』人文書院)

要するに、人間にとって、人間の「内面の起源」とはどのようになっているか、といった部分へ迫っている。

原始的社会に起こったであろう事情について、こう述べる。ここらへんはヘーゲルを参照したのだろう。

「敵を葬ろうとしたとき、新たな考えが浮かび、敵を殺すのをやめるかもしれません。恐怖心を徹底的に植えつけたうえで、敵を生かしておき、何かの労働に使おう!暴力で敵を殺すのではなく、屈服させるだけで満足するようになるのです。これこそ、敵に情けをかけることのはじまりにほかなりません」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.26』講談社学術文庫)

そして国連の重要さへ議論を進める。

「個人の粗暴な暴力が克服されるには、権力が多数の人間の集団へ移譲される必要があります」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.28』講談社学術文庫)

見解は悲観的におもえる。けれどもなお希望を持ち続けていくためには何が必要か。

「独自の権力、自分の意思を押し通す力を国際連盟は持っていないのです。否、国際連盟がそうした力を持てるのは一つの場合に限られるのです。個々の国々が自分たちの持つ権力を国際連盟に譲り渡すとき、そのときだけなのです」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.34~35』講談社学術文庫)

文化的発展は何をやるのか、そしてまた、何をやらないのか。悲観的でもなく楽観的でもない箇所で次のような見解を披露する。

「文化の発展の幾つかの特徴は、すぐに見て取れます。例えば、文化が発展していくと、人類が消滅する危険性があります。なぜなら、文化の発展のために、人間の性的な機能がさまざまな形で損なわれてきているからです。今日ですら、文化の洗礼を受けていない人種、文化の発展に取り残された社会階層の人たちが急激に人口を増加させているのに対し、文化を発展させた人々は子どもを産まなくなってきています。こうした文化の発展はある種の動物の家畜化に喩えられるかもしれません」(フロイト「アインシュタインへの手紙」・アインシュタイン/フロイト『ひとはなぜ戦争をするのか・P.52~53』講談社学術文庫)

日本では田中康夫のデビュー作「なんとなく、クリスタル」の巻末で引用された人口統計に基づく資料が話題になった。妊娠出産の是非を問うものではなく、一般的に、世間あるいはマスコミを通して「文化的発展」と呼ばれて無批判に称賛されている「文化」とはなんなのか。それへの問いとして、小説という方法を利用して、提出された資料から資料価値を引き出すことに成功した。さらにアメリカの場合、文化的発展に伴ってすでに個々人が家屋を新築する際、新しく建設される家と家との間隔がだんだん隔たっていくという事態が起こってきていた。文化的発展は個々人を繋ぐのではなく逆に隔絶させていくという傾向がある。しかし当時、アメリカはただ単に広大な土地を持っているからということで、議論は途絶えてしまうことが多々あった。ところが一九九〇年代後半に入ってインターネットの全面的接続という動作環境が整うやいなや個々人は爆発的に隔絶して生きるのが当たり前の生活様式を選択するという傾向が人間の性質として焦点化されるに至る。職場はニューヨークだが家はニューヨークとアパラチア山脈のあいだにあると。そういう生活様式が同時多発するようになってきた。良い悪いの問題ではなく人間とその文化的発展との関係の中には、そもそもそういう傾向を生じさせる性質があったのだということが、職場と住居との隔絶、隣人Aの住居と隣人Bの住居との隔絶ならびに棲み分けという結果を見るに至り、ようやく後になって認識されるとともに問題視されるようになった。今やアパラチア山脈の麓周辺はニューヨークで失敗した人々、とりわけ貧乏白人密集地としてほとんどマフィアの巣窟と化してしまった箇所が幾つも見られる。しかしなぜ貧乏黒人でないのか。貧乏黒人あるいは貧乏な非白人は奴隷制度があった時代に低賃金労働者としてもともとニューヨーク近郊に移住することを余儀なくされ、たとえばブルックリンの黒人居住地区などがそうだが、同じ場所に長く住みついており、数百年にわたり大きな生活圏を築き上げていた。その動きに並走するかのようにイタリア系、中南米系、中国系、ロシア系、コリアン、日系、など多くの移民によってニューヨークという街区はよりいっそう巨大化しつつ中央集権的経済活動の中心地として形成されるに至った。もっとも、アメリカ人がアメリカ人になる前に先住民族がいた。インディアンといっても一つではなく様々な共同体がそれぞれの生活様式のもとで暮らしていた。新大陸へ渡ったヨーロッパ人はこれらの先住民族と出会い、出会うやいなや自分で自分自身をたちまち「自分たち」と「他者」という対立する両極という関係に置き、先住民族をほぼ全面的に制圧してしまうことで始めてアメリカ人というまったく新しい人々が出現したのである。しかしさらにここ十年ばかりの間にうようよ発生してきた問題の一つにアメリカ社会のメンタルヘルス大国化を上げておかねばならない。スマートフォンの全米化に伴って、まではよかったとしても、スマートフォンにイヤホンが付いたその瞬間、特に若年層を中心とした大量のアメリカ市民がスマートフォンのイヤホンの中へ自分で自分自身を閉鎖し、屋外から自分で自分自身を自己疎外してしまった。アメリカの中で、とりわけ多くの若年層が、ニューヨークの真ん中で隣人と隔絶するという閉鎖環境へ立てこもってしまった。だからといってアメリカ社会はもはや端末機器なしに生きていくことはできない。スマートフォンを取り上げることもできない。家畜化からの解放は端末機器との絶え間なく新しい「婚姻」という形で劇的に出現した。

資本主義は競争社会である。前提として不変資本と可変資本とに分かれている。一方に生産手段の所有者が、他方に労働力商品としての労働者が、分離された状態で存在していることが第一の前提。契約によって生産手段と労働力商品とを合体させることが第二の前提。この合体と同時に資本回転はすでに開始されている。さらに資本主義は資本主義自身の特徴として、資本主義に関わるすべての人間を均質化するという傾向がある。第一に言語の流通によって。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)

第二に商品交換を介した諸関係を押し進めることによって。

「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫)

第三に、近代社会になってやおら顕著になった特徴として「人間」としては誰もが同じであるという論理学を前提として、人間は「算定される」ものになったという点で。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)

しかしこれらの過程にはどれも言語によってもたらされるコミュニケーションの論理学的一貫性が、とりわけ数学の絶対的一貫性が、貫かれていなければならない。

「《自称学問としての言語》。ーーー文化の発展に対する言語の意義は、言語において人間が他の世界に並ぶ一つの自分の世界をうちたてた、ほかの世界を土台から変えて自分がそれに君臨できるほど、それほど堅固であると考えたような一つの立脚点をうちたてた、という点にある。人間は、事物の概念や名称を《永遠の真理》であると長い期間を通じて信じてきたことによって、動物を眼下に見下ろしたあの誇りをも身につけてきたのである。じっさい彼は言語をもつことが世界の認識をもつことだと思いこんだ。言語の形成者は、自分が事物にほんの記号を与えているにすぎない、と信じるほどには謙虚でなく、むしろ彼は、事物に関する最高の知を言葉で表現したのだ、と妄想した。事実、言語は学問のための努力の第一段階なのである。ここでもまた、もっとも強い力の泉が湧きでてきた源は、《真理をみつけたという信仰》である。ずっと後になってーーー今やはじめてーーー言語を自分たちが信仰してきたためにとんでもない誤謬を流布してしまったということが、人々の意識にのぼってくる。さいわいにもあの信仰にもとづく理性の発展をふたたび逆行せしめるには、もう手遅れである。ーーー《論理学》もまた現実世界には決して相応じるもののない前提、たとえば諸事物の一致とか異なった時点における同じ事物の同一性とかいう前提にもとづいている、だがその学問は現実とは相反する信仰(そのようなものが現実世界にたしかにあるということ)によって成立したのである。《数学》に関しても事情は同様である。もしはじめから自然には決して精密な直線とかほんとうの円とか大きさの絶対的な尺度などはない、と知られていたら、数学はきっと成立していなかったであろう」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・第一章・十一・P.34~35」ちくま学芸文庫)

さらに。

「数は、世界を私たちの扱いやすいものとするための、私たちの大きな恒常手段である。私たちは、私たちが数えうるかぎりにおいて、言いかえれば、なんらかの恒常性が知覚されうるかぎりにおいて、〔世界を〕把握する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一八八・P.114」ちくま学芸文庫)

これら諸条件が資本主義的生産様式の前提として確実かつ実際に絶え間なく運用されている限りでのみ人間の《畜群化》は可能になったと言わねばならない。しかしこの動作が自動機械化するのはなぜなのか。第一に目に見える監視社会の成立があり、その終わりの始まりとして、第二に、目に見えない管理社会の成立があったからである。そしてこの第二の、目に見えない管理社会こそが、昨今の社会問題として取り扱われざるを得ない事態に立ち至ってきたという経過がある。問題を可視化するためには、目に見える監視社会の成立から目に見えない管理社会への移行期を焦点化しなくてはならない。

とはいえ、今回は問題の性質上、カントの一節に触れないわけにはいかない。

「たがいに関係しあう諸国家にとって、ただ戦争しかない無法な状態から脱出するには、理性によるかぎり次の方策しかない。すなわち、国家も個々の人間と同じように、その未開な(無法な)自由を捨てて公的な強制法に順応し、そうして一つの(もっともたえず増大しつつある)諸民族合一国家を形成して、この国家がついには地上のあらゆる民族を包括するようにさせる、という方策しかない。だがかれらは、かれらがもっている国際法の考えにしたがって、この方策をとることをまったく欲しないし、そこで一般命題として正しいことを、具体的な適用面では斥(しりぞ)けるから、《一つの世界共和国》という積極的理念の代わりに(もしすべてが失われてはならないとすれば)、戦争を防止し、持続しながらたえず拡大する《連合》という《消極的》な代替物のみが、法をきらう好戦的な傾向の流れを阻止できるのである」(カント「永遠平和のために・P.45」岩波文庫)

カントは「持続しながらたえず拡大する《連合》」という。この場合の「《連合》」は団結というより、遥かに“association”=「アソシエーション、繋がり」の意味に重点が置かれている。またこのような関係を重視する傾向はマルクスーーー「資本論」のマルクスーーーにも受け継がれている。

「資本主義的生産様式から生まれる資本主義的取得様式は、したがってまた資本主義的私有も、自分の労働にもとづく個人的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一つの自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を生みだす。それは否定の否定である。この否定は、私有を再建しはしないが、しかし、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有をつくりだす」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.437」国民文庫)

というふうに。

しかしなお最も大事なことは、それぞれ専門分野の異なる二人が、同時に亡命者として、《対話し合った》ということにあるだろうとおもう。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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