白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義29

2020年04月16日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホの絵画を見た後、人々はいつまでもそこに留まっている必要はない、とアルトーはいう。むしろそこに描かれている「自然」を見た後はそこから離れるべきだ。すると残るものは絵のイメージではなく印象でもなくその他もろもろの思い出でもなく、まぎれもない或る《音楽》が出現するに違いないというのである。

「この自然を見た後であれば、人は描かれたどんなカンヴァスに対しても背を向けることができる、それはもはやそれ以上われわれに語るべきものをもってはいない。ヴァン・ゴッホの絵画の荒れ狂う嵐のような光は、人がそれを見るのをやめたまさにそのとき、その暗澹とした朗唱を開始する」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.151~152』河出文庫)

芸術というものについてそのようにいうのは何もアルトーだけに限ったことではない。たとえばジュネもまた「泥棒、裏切り、性倒錯」といった目的が上々の達成を遂げたその時、あかたも稲妻のごとく音楽が出現すると述べている。ちなみにニーチェは音楽についていろいろ言ってはいるのだがヴァーグナー批判ばかり注目されていてあまり面白いものはない。だから音楽一般というよりも作品「ツァラトゥストラ」の中でやや唐突に「歌」について述べられた部分はなかなか感心を引く。

「見よ、上もなく、下もない。おまえを投げよ、まわりへ、かなたへ、うしろへ。おまえ、軽快なものよ。歌え、もはや語るな」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第三部・七つの封印・P.376」中公文庫)

しかし歌というものは古代ギリシア悲劇において、コロス(合唱)というものは何を語っていたか。悲劇を語っていた。観客はとって悲劇は、その都度、ただ単に見るのではなく《生きられる》ものだった。ところが「ツァラトゥストラ」では「軽快なもの」の代表として「歌うこと」が奨励されている。近代の到来とともに出現した「重さの霊」から逃れるために。ニーチェの態度は歌について両義的な意味を認めているわけだが、歌の両義性は、近代社会の到来とともに何度も回帰することになる。古代世界にはまだ本当にあった悲劇的なものの終わりと、その末期的症状としての抒情的なもの(末人のセンチメンタリズム)の出現と。近代では悲劇が悲劇として成立しない。だからハムレットは狂人になるのではなく狂気を演じるほかない。一回限りの唯一性を剥奪され、模倣というコピー文化に浸透され、どの悲劇もつねにすでに演じられてきたものの反復=回帰でしかない。退屈の永遠回帰に耐えつづけていくことが要請されるようになる。

「ヴァン・ゴッホは絵画以外の何ものでもなく、そしてそれ以上ではない、哲学によっても、神秘思想によっても、儀式によっても、精神外科術によっても、または典礼によっても、歴史によっても、文学によっても、または詩によっても、彼の日に焼けた黄金の向日葵は描かれてはいない、それらは向日葵として描かれており、それ以上の何ものでもないのだが、しかし現物の向日葵を理解するには、いまやヴァン・ゴッホに立ち戻らなければならないのだ、同様に、現物の嵐を 荒れ模様の嵐の空を、現物の平原を理解するためには、もはやヴァン・ゴッホに立ち戻らないわけにはいかなくなるだろう」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.152』河出文庫)

ゴッホとニーチェについてフーコーはこう述べる。

「無媒介な確信と化した彼らの真実」(フーコー「狂気の歴史・P.375」新潮社)

彼らの芸術は直接的だというのである。何らの介在物も要しない。言語も貨幣も必要としないものだと。そんなことがあり得るだろうか。あるのだ。芸術の世界では。稀にではあっても。この中にさらにアルトーを加えると。

「この分離が西洋文化にとって哲学的で悲劇的な意義をもつようになるのは、単にニーチェの晩年の文章やアルトーにおいてでしかない」(フーコー「狂気の歴史・P.368」新潮社)

ここで言われている「この分離」とはどの分離なのか。分離するためには先に《結合》がなくてはならない。

「狂気と非理性とが結合している最後の人物たる《ラモーの甥》」(フーコー「狂気の歴史・P.368」新潮社)

そんなわけで、一七八九年フランス革命の少し前に書かれた「ラモーの甥」から関係箇所を参照する。まず、ヘーゲルによって「無思想」と定義づけられている「哲学者」の言葉。「哲学者」から見た「ラモーの甥」とはどのような人物なのか。

「わたしにしても、彼らに出会って、年に一度は心をひかれることがある。彼らの性格がほかの人々のそれとは対照的にちがっていて、彼らが、われわれの教育や社会の慣習や礼儀作法の導き入れたあの退屈な単調さをぶちこわしているからである。こんな連中の一人が会合の中に現れると、それは発酵させる一粒の酵母のようなもので、各人にその生まれつきの個性をいくらか取り戻させる。彼は人々をゆすぶり、揺りうごかす。また是認させたり非難させたりする。真実を掘り出したり、善人を識らせたり、悪党の仮面をひっぱがしたりする」(ディドロ「ラモーの甥・P.8」岩波文庫)

ラモーの甥は哲学者に向かって挑発するかのように言う。当時、「狂人」というものがどのような視線で取り扱われていたかが垣間見える。

「いかにもあんただ、あんたがたらしい言い分だね!わしらが何か気のきいたことでも言うとすれば、それは気ちがいか霊感でも受けた者みたいにひょっとしたはずみなんだ」(ディドロ「ラモーの甥・P.17」岩波文庫)

ラモーの甥は自分が狂人であるということを知っている。しかし彼の挑発的な言葉は社会的な理性による挑発を踏台にしている。

「あんたは、わしが無学で馬鹿で、気ちがいで、無作法で、怠けものだってことを知っておいでです」(ディドロ「ラモーの甥・P.25」岩波文庫)

自分が非理性であり狂人であり道化であることの自覚。それは決して深い絶望の淵に打ち沈んでいるわけではない。積極的に道化=狂気を買って出ている。だからといって彼は自分は「真実」であるなどと言うわけではない。非理性あるいは狂気こそ「真実」そのものだとはけっして言わない。むしろ彼が道化=狂気を演じることで嘲笑しようと欲しているのは「真理」という社会的妄想だからだ。しかしなぜそうなのか。フーコーはここでニーチェやアルトーの名を出して比較に応じている。

「非常に昔の人間像、なかんずく、中世紀を思い出させる道化の横顔を集中的に表わしている実在、そして他方、非理性のもっとも現代的な形態、ネルヴァルやニーチェやアントナン・アルトーと同時代の非理性形態をも告げる実在である」フーコー「狂気の歴史・P.368」新潮社)

理性が理性であるのはなぜか。非理性がその根拠として働いているからである。あるいは善悪の判断において善を支えているものはなんだろうか。悪が確実であるかぎりで善の観念の根拠として働くからである。「ラモーの甥」は理性《と》非理性とが「結合」していた最後の時代、中世末期から十八世紀末の《あいだ》に現われた。一七八九年フランス革命前後に大規模な形で実現されていく「判断すること=分離すること」という必要かつ殺人的作業の大いなる預言者として登場している。それはとても皮肉で逆説に満ちた、しかしそれ自体ではもっともでなおかつエスプリたっぷりな言葉の散乱として理性を不安に叩き込む。この逆説は理性が理性たらんとするには理性が理性のうちに非理性を所有していなければならないという不可避的構造を白昼のもとにあぶり出すものだった。

「長い間、道化という肩書で王様に仕えた道化はありました。が、どんな時代にも、賢者という肩書で王様に仕えた賢者はありませんでしたから」(ディドロ「ラモーの甥・P.89」岩波文庫)

さらに。

「賢明な人だったら、道化なんかもたないでしょうよ。だから、道化をもっている者は賢者じゃない。もしその男が賢者でないなら、道化です。たとえ王様だったとしても、その男は多分自分の道化の道化というわけでしょう」(ディドロ「ラモーの甥・P.89」岩波文庫)

次の一説をフーコーが取り上げているのは大変興味深い。ラモーの甥は道化として何にでも変身する。金銭を手に入れるためにそうしていると言っているのもまた予言的であり過ぎるわけだが。

「そして気の触れた人のように叫んだり歌ったり暴れたり、自分一人で男や女の踊り手にもなれば歌い手にもなり、オーケストラや歌劇の一座も全部一人でやってのけ、一つのからだを二十もの別々の役に使い分け、悪魔に憑かれた人のように、走ったかと思うと、立ち停り、きらきらと眼を輝かしたり、口から泡を吹いたりした。息もとまりそうなほどの暑さだった。そして、彼の額の皺や長い頬に沿って流れる汗は、髪粉とまじって、川のように、着物の上のほうにいくすじもの線をつけていた。彼が表わさないものが一つだってあっただろうか。彼は泣いた。笑った。溜息をついた。ある時は愛情をこめて、ある時は静かに、ある時は荒々しく、眺めた。悲しさに悶える一人の女になることもあれば、失望の淵に沈む一人の不幸な男にもなった。そそり立つ寺院であることも、落日に声なき鳥どもになることもあった。あるいはうら淋しくすがすがしいほとりにせせらぐ流れとも、また山々の頂から急湍となって走せ下る流れともなった。暴風雨でもあり、海荒れでもあり、風の唸り、雷の轟にまじる死にゆく人々のうめき声でもあった。それは暗々たる闇夜でもあったし、物影と沈黙でもあった。というのは、沈黙さえも音で描写されるのだから。彼の頭はまったく正気を失っていた。深い眠りからか、また長い放心状態から醒めた人のように、疲れきって、彼は茫然と、気がぬけたように、じっとしていた」(ディドロ「ラモーの甥・P.122」岩波文庫)

観察しているのは哲学者だがそこに映って見えている事態はどういうことなのか。社会全体はすでに脱中心化を起こし始めている。ラモーの甥はそう言っているのである。神の死。絶対的なものの消滅。中心的基準の消滅。移動する強度。変動相場制。中心点はもはやない。少なくともヨーロッパ全土を貫通する形で次のようなことが起こってきている。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ラモーの甥はフーコーによれば「明示された錯誤」である。

「ディドロの文章のこうした箇所では、理性と非理性との関係はまったく新しい相貌をおびている。そこでは現代世界における狂気の運命が、異様な仕方で予告されている。しかも、すでに一種の拘束をうけているといえるのである。そこを出発点として、一本の直線が、アントナン・アルトーへ一気にいたる不確かな道を描く」(フーコー「狂気の歴史・P.370」新潮社)

引用を続けよう。彼は大ラモーという偉大な叔父を持ったばかりに音楽には秀でることができた。けれども有名人ではない。むしろ食べていけない人々に属している。路上でヴァイオリンを弾いて小銭を得て暮らしている。当時の社会では最も軽蔑される物乞いの一人であった。彼は自分が路上で行うパフォーマンスについて述べる。

「そして、半ばあいた口のほうへ一本の指をもって行く動作で自分の極度の窮乏を表わした。ーーー『これからまた絃をかき鳴らし、ぽかんと開いた口へ指を持ってゆく身振りをして見せなくちゃなりますまい。この世の中にはなに一つ安定したものはありません』」(ディドロ「ラモーの甥・P.148」岩波文庫)

またこうも。

「一番いけないのは、不如意からわれわれが窮屈な姿勢をとらされることです。貧乏な人間は普通の人のような歩き方はしません。彼は飛び、這い、のたくり、足を引きずって歩きます。彼はいろんな姿勢(ポーズ)をとったり、してみせたりすることで一生をすごすんです」(ディドロ「ラモーの甥・P.150」岩波文庫)

不如意ではあるものの仕方がない。だからそうする。しかし大事なのは、姿勢(ポーズ)でありパントマイムであり、したがって《身振り仕ぐさ》である。彼は唯一の例外を述べる。

「全王国中で当り前の歩き方をしているのはたった一人だけですね。それは主権者でさあ。そのほかの者はみんなポーズをとって歩いてるんです」(ディドロ「ラモーの甥・P.152」岩波文庫)

だから要するに何かを演じていない人間はいないというのである。国王もまた必要に応じてパントマイムを演じている。その臣下は国王に対して、国民とはまた違った形で、パントマイムを演じざるを得ない。全世界が演じている。とすれば仮面は世界の全人口以上に必要になるだろう。その意を汲んで哲学者はこう総括する。

「実際、君のいわゆる乞食のパントマイムなるものは、地球の大円舞だよ」(ディドロ「ラモーの甥・P.152」岩波文庫)

混み入った事情のため、この一冊が世に出るまでにしばらく時間がかかったことは有名だ。それはそれとして、その後、「ラモーの甥」の言動についてヘーゲルがたいへん詳細な分析を行なっている。四箇所上げてみる。

「自己意識は、個別的側面をみな、捨象しうるものであるから、個別的なものに関し拘束される場合にも、自分で〔対自的に、自独的に、自立的に〕存在する実在として、いつまでも、承認されており、それ《自体で妥当する》ものである。だがその場合にも、自己意識は、自分の純粋で最も固有な《現実》、つまり自我の側面から言って、自分が自分の外に在り、他者に依存していることを見てとる、つまり自分の《個人格》そのものがあるひとりの他者の偶然な個人格に、瞬間や恣意や、その他、全くどうでもいいような事情などの偶然に、依存していることを見てとる。ーーーところで法状態においては、対象的実在〔世界の主〕の権力内に在るものは、捨象されてもかまわないような、《偶然の内容》として現われ、権力は《自己そのもの》に関わるのではなく、むしろ、自己そのものは承認されているのである。しかしながら、ここでは自己は、自己確信そのものが、最も本質なきものであること、つまり純粋人格が絶対的非人格であることを見る。だから自己が感謝するという精神は、最深の卑劣の感情でもあれば、最深の反抗の感情でもある。純粋自我自身は、自分が自分の外におり、引き裂かれているのを見るから、この引き裂かれた状態にあるときには、すべて連続的で一般的であるもの、法則とか善とか正義とか呼ばれるものは、同時にばらばらであり、没落してしまっていることになる。すべて等しいものは解体している。なぜならば、《最も不純な不等性》が、つまり、絶対に本質的なものの絶対的な非本質性が、自分で存在するものが自分の外に在ることが、現存するからである。言いかえれば、純粋自我自身が絶対的に分裂しているのである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.102~103」平凡社ライブラリー)

矛盾していないと思い込んでいるのが「哲学者」であり、逆に彼(ラモーの甥)こそ矛盾だらけであるにもかかわらず「疎外された者」ゆえに、さらに「絶対的な分裂」として、ヘーゲルは捉えている。

「しかし自己を遺棄し自己を失う実在は、言いかえれば、物となった自己は、むしろ、実在が自己自身に帰った〔反照した〕ものである。それは、《自分で》〔対自的に、自独的に、自立的に〕《存在する自独存在》であり、精神の現実存在である。ーーー《善悪》という二つの実在の《思想》も、やはりこの運動のなかで、転倒し合う。善と規定されたものは悪であり、悪と規定されたものは善である。これら両契機の各々の意識は、高貴な意識とか、下劣な意識とか、という形で評価されるが、その真実の姿においては、むしろ、またそういう規定であるはずのものの、逆のものであり、また高貴な意識は下劣で卑劣な意識である。それと同じで、自己意識の卑劣さも、最も教養ある自由の気品に転換するのである〔革命〕。ーーー形式的に考えるならば、すべては、それ《自身》で在るものとは《外面上》逆であり、また、ほんとうは、それ自身である通りのものではなく、そうありたいのとは別のものであり、自独存在はむしろ自己自身を失うことであり、自己を疎外することは、むしろ自己を維持することである。ーーーこうして、現存しているものは、すべての契機が一般的権利を互いに行使し合い、各々が、それ自身自体で疎外しているとともに、自分をその反対にしみこませ、同じようにしてこれを逆転させるということ、それである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.107~108」平凡社ライブラリー)

矛盾と転倒という現象が歴史の推進力となる。それは何もヘーゲルだから思いつくことができたとばかりは言えないかもしれない。ヘーゲルの生きた時代を構成するあらゆる諸条件の中で、その限りでのみ、ヘーゲルは「精神現象学」の作者として出現することができたからである。

「だが真の精神は、絶対に分離したものを統一することにほかならない。しかもこの精神は、これら《自己なき》両極の《自由な現実》が、この両者の媒語となることによってのみ、現存することになる。その定在はあまねく《語る》ことであり、分裂しながら《判断すること》〔分割すること〕である。この判断作用にとっては、全体の本質として、また現実的分岐として、妥当するはずの例の契機は、みな解体してしまう。そしてまたこの判断作用は、自己を解体する自己自身との戯れである。それゆえ、かく判断し語ることは、真であり、すべてに打ち克つけれども、打ち克たれないものである」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.108~109」平凡社ライブラリー)

この辺りのフレーズはややこしい。相手が誰であろうが何と言われようが「勝手に勝つ」とでも言っておく。次の文章は総括的に述べられている箇所である。

「自己復帰の第一の面においては、あらゆる《事物の空しさ》は、自己《自身の空しさ》である、つまり自己は空しい《のである》。すべてを評価し、喋りまくるだけでなく、現実の固定した実在〔国家権力と財富〕や、判断の立てる固定した規定〔善悪、高貴下劣〕やが、《矛盾》していることを、精神(エスプリ)のある態度で語るすべを心得ているのは、自独存在〔対自存在、自立存在〕する自己である。この矛盾こそは、それらの実在や規定の真理なのである。ーーー形式上から考えれば、自己は、すべてのものが、自分自身と疎外関係にあることを、知っている。つまり、《対自存在》〔自独存在、自立存在〕は《自体存在》から、思いこんだことと目的は真実から、さらに《対他存在》が両者から、示されたものは本来の思いこみや真の事柄や意図から、離れているのである。ーーーかくて自己は、すべての契機が他の契機に対立していることを、一般にすべてのものが転倒していることを、正しく言い表わすすべを知っている。自己は、各々のものが何であるかを、それがどのように規定されていようと、そのものが在る以上によく知っている。自己が実体的なものを知っているのは、実体的なものが自分で統一している《不統一》と、《対抗》との面からであって、一つであるという面からではないから、自己は、実体的なものを、非常にうまく《評価する》ことを理解してはいるが、それを《把握する》能力は失っている。ーーーそのさい、この空しさは、すべての事物の外に出て、自己の意識を自分でもつために、すべての事物の空しさを必要とする、それゆえ、この空しさを自分で生み出すとともに、この空しさを支える眼目である」(ヘーゲル「精神現象学・下・P.108~109」平凡社ライブラリー)

ほかの訳文も豊富に出ている。だから、おそらくだが、日本で最も有名な訳文の一つとされるフランスのイポリットからの訳文の用語を対照して言葉の一致を見ておきたい。たとえば、「自己の分裂においてしか自己に精神を回復させ得ないし、その粉砕する批判力は自分自身に対してまず自己解体の遊びを行わなければ効力をもたない」=「真の精神は、絶対に分離したものを統一することにほかならない。しかもこの精神は、これら《自己なき》両極の《自由な現実》が、この両者の媒語となることによってのみ、現存することになる。その定在はあまねく《語る》ことであり、分裂しながら《判断すること》〔分割すること〕である。この判断作用にとっては、全体の本質として、また現実的分岐として、妥当するはずの例の契機は、みな解体してしまう。そしてまたこの判断作用は、自己を解体する自己自身との戯れである。それゆえ、かく判断し語ることは、真であり、すべてに打ち克つ」。また、「諸契機の不統一と背馳の側面からのみ実体的なものを知り、その統一の側面からは知らないのだから、実体的なものについて非常に正しい判断を下せても、それを把握する能力は喪失している」=「自己は、すべての契機が他の契機に対立していることを、一般にすべてのものが転倒していることを、正しく言い表わすすべを知っている。自己は、各々のものが何であるかを、それがどのように規定されていようと、そのものが在る以上によく知っている。自己が実体的なものを知っているのは、実体的なものが自分で統一している《不統一》と、《対抗》との面からであって、一つであるという面からではないから、自己は、実体的なものを、非常にうまく《評価する》ことを理解してはいるが、それを《把握する》能力は失っている」。というふうに。

フーコーに戻ろう。フーコーもまたアルトーに戻っていう。

「ヘルダーリンにつづいて、ネルヴァル、レーモン・ルーセル、アントナン・アルトーが、その危険をおかし、最後には悲劇ーーーつまり、狂気の放棄における、この非理性経験の疎外ーーーに達したのである。こうした人々の実在のそれぞれには、こうした実在の姿であるそれらの言葉のそれぞれは、執拗な時間のなかで、つぎの同じ質問ーーー多分、近代の世界の本質そのものにかかわる同じ質問をくりかえすのである。〔狂気にたいする〕非理性の差異・独自性のなかで自己を保持することは、なぜ不可能であるか?なぜつねに非理性は、感覚的なものの妄想のなかで魅惑させられ、他方、狂気の隠れ家のなかに閉じ込められて、分割されなければならないのか?どのようにして、非理性がこんなにまで言語を失ってしまうという事態がおこりえたのか?ひとたび正面からこちらを見つめた人々を石化させるあの力とは、《非理性》の試みを企てようとしたすべての人々に《狂気》を宣告するあの力とは、いったいどんな力なのか?」(フーコー「狂気の歴史・P.376」新潮社)

それについてはアルトーのゴッホ論とフーコーの狂気論とを対照させつつ先日来述べてきたつもりである。ところで、ディドロ「ラモーの甥」について、気になるのはいつもラストの一行だ。

「最後に笑う者が大いに笑うでしょうよ」(ディドロ「ラモーの甥・P.159」岩波文庫)

何が言いたいのだろう。パロディでもない。冗談でもない。ウィットでもないようにおもう。ニーチェのいう「笑い」でもないだろう。ちなみにボードレールは「笑いにおける」《自己二重化》ということを言っている。

「笑いは悪魔的である。ゆえにこれは深く人間的である。これは人間にあって、自らの優越性の観念の帰結である。そして事実、笑いは本質的に人間的なものであるから、本質的に矛盾したものだ、すなわち、笑いは無限な偉大さの徴(しるし)であると同時に無限な悲惨の徴であって、人間が頭で知っている<絶対存在者>との関連においてみれば無限の悲惨、動物たちとの関連においてみれば無限の偉大さということになる。この二つの無限の絶え間ない衝突からこそ、笑いが発する。滑稽というものは、笑いの原動力は、笑う者の裡に存するのであり、笑いの対象の裡にあるのでは断じてない。ころんだ当人が、自分自身のころんだことを笑ったりは決してしない、もっとも、これが哲人である場合、自分をすみやかに二重化し、自らの《自我》の諸現象に局外の傍観者として立ち会う力を、習慣によって身につけた人間である場合は、話は別だが」(ボードレール「笑いの本質について、および一般に造型芸術における滑稽について」『ボードレール批評1・P.227』ちくま学芸文庫)

一方、ドゥルーズはマゾッホの小説を手掛かりに「ユーモア」についてこう述べる。

「マゾヒストの服従のうちにひそむ嘲弄、このうわべの従順さのかげにひそむ挑発や批判力が、ときに指摘されてきた。マゾヒストはたんに別の方面から法を攻撃しているだけなのだ。私たちがユーモアと呼ぶのは、法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から帰結へと下降する運動のことである。私たちはだれしも、過剰な熱心さによって法の裏をかく手段を知っている。すなわち、きまじめな適用によって法の不条理を示し、法が禁止し祓い除けるとされる秩序壊乱を、法そのものに期待するのだ。人々は法を言葉どおりに、文字どおりに受け取る。それによって、法の究極的で一次的な性格に異議申し立てを行うわけではない。そうではなく、この一次的な性格のおかげで、法がわれわれに禁じた快を、まるで法がおのれ自身のためにとっておいたかのように、人々は行動するのだ。それゆえ法を遵守し、法を受け容れることによって、人々はその快のいくらかを味わうことになるだろう。もはや法は、原理への遡行によって、アイロニーに満ちたしかたで転倒されるのではなく、帰結を深化させることによって、ユーモアに満ちたしかたで斜めから裏をかかれるのである。ところで、マゾヒズムの幻想や儀式が考察されると、そのたびに以下の事実に突きあたることになろう。すなわち、法のもっとも厳格な適用が、通常期待されるものと逆の効果をもたらすのである(たとえば、鞭打ちは、勃起を罰したり予防したりするどころか、勃起を誘発し確実なものとする)。これは背理法による証明である。法を処罰の過程とみなすとき、マゾヒストはじぶんに処罰を適用させることからはじめる。そして受けた処罰のなかに、じぶん自身を正当化してくれる理由、さらには法が禁止するとみなされていた快を味わうよう命ずる理由を、逆説的なしかたで発見する」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.134~136」河出文庫)

すべての人々があたかもジュネのように「法」を味わうようになったとしたら。法そのものが厳格化されればされるほどますます秩序壊乱を目指さざるを得ない《欲望を生産する》変換機械。けっして「高笑い」しないデモーニッシュな嘲笑とでもいうべきだろうか。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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