白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義21

2020年04月08日 | 日記・エッセイ・コラム
次のセンテンスはこれといって特に珍しい異論ではない。とっくの昔にニーチェがいっていたことだ。

「医学は悪=痛みから生まれたのだ、もしそれが病気から生まれたのではないとしたら、そしてそれどころか、医学はひとつの存在理由を己れに与えるために病気を引き起こし、隅から隅までそれをつくり出したのだとしたら」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.130』河出文庫)

ただニーチェの場合、人為的に創設された制度としての医学について、そのモデルをキリスト教の宗教戦略に求めているところが異なる。

「キリスト教は病気を《必要と》する、ギリシア精神が健康の過剰を必要とするのとほぼ同様に、ーーー病気《ならしめる》ということが教会の全救済組織の本来の底意である」(ニーチェ「反キリスト者」『偶像の黄昏・反キリスト者・P.248』」ちくま学芸文庫)

宗教の場合、魂の医師としておもむろに登場してくるのは「宗教」ではなく「宗教《者》」である。

「《苦しんでいる者に対する支配》が彼の王国である。この支配は彼の本能が彼に命ずるところであり、この支配のうちに彼の最も独自な技倆、彼の卓絶した手並み、彼一流の幸福が示されている。彼自らがまず病気にならなければならず、病人や廃人とすっかり縁者にならなければならない。それで初めて病人や廃人を理解することーーー彼らと理解し合うことができるのだ。しかも一方、彼はまた強くもなければならず、他人に対してより以上に自分に対して支配者でなければならず、わけても不死身の権力意志をもっていなければならない。それで初めて病人どもから信頼され畏怖されることができ、病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができる」(ニーチェ「道徳の系譜・P.159」岩波文庫)

病人の症状に対して向き合い治療を施すのは「宗教《者》」という種も仕掛けもある人間である。人間である以上、越えられない壁がある。「権力への意志」がそれだ。キリスト教の場合、病人の前に立つとき、こみ上げてくる優越感情という形態で権力意志を発揮しないキリスト教者はいない。病人の前に立つとき彼らキリスト教者はまさしく病人の前であることによって「病人どもの足場となり、防障となり、支柱となり、強圧となり、典獄となり、暴君となり、神となることができる」。

また「悪=痛み」論について。前回「感染=パンデミック」についてフーコーを引用した。医師は医学体系の中に組み込まれると同時に国家化され、さらに体系化された医学をモデルとして国家の側が再編される。医学の国家化/国家の医学化。国家の中央集権化/中央集権的情報統制。という事情が極めて短い時期に一気に押し進められたことに言及した。その際、一七八九年のフランス革命前後、「大きな神話が生まれた」と述べた。その一方についてはすでに触れた。聖職者と医師との社会的位置の再編である。

「その一つは国家化された医業に関する神話であって、この医業は聖職者の場合と同じ様式で組織され、聖職者が人々の霊魂に及ぼすのと同じような権力を、健康と肉体のレベルでさずけられている、とされる。ーーー社会の厳密な、戦闘的な、独断的な医学化ーーー。その方法は、ほとんど宗教的ともいうべき方向転換と、医療の聖職者ともいうべき者の配置による」(フーコー「臨床医学の誕生・P.70~71」みすず書房)

この再編は医学の歴史の中では無視できない劇的な断層として刻み込まれた。歴史教科書には載っていないが。ところで「ほとんど宗教的ともいうべき方向転換と、医療の聖職者ともいうべき者の配置」という再編にとってもう一つの「神話」が存在した。

「もう一つの神話は、病気というものが完全に消滅し、社会はなやみも熱情もうしない、その根源的な健康に復元する、というものである。ーーーつまり環境を匡正し、組織し、たえず監視していれば、その中で病気は蒸発してしまい、ついには医学自体がその対象及びその存在理由と共に消えうせてしまうだろう、というのである」(フーコー「臨床医学の誕生・P.70~71」みすず書房)

もちろんそんなことは起こるはずがなく、「感染=パンデミック」は反復されるごとに逆にますます大規模化して出現することとなった。

「いかなる精神錯乱者のなかにも理解されざるひとつの天才があり、彼の頭のなかで輝くその観念は人を怖がらせ、しかも彼は生が彼に用意していた窒息状態からの出口を妄想のなかにしか見つけ出すことができなかったのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.131』河出文庫)

ゴッホは窒息しかけていた。その窮屈なフランス社会の中で。医学体系化された国家のもとで。逃走の線を見失ったわけではなかったが、唯一見えていたのは銃による自殺という自爆戦略のみだった。
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なお、「感染=パンデミック」についてさらに。どのような「感染=パンデミック」でも終息しない「感染=パンデミック」はない。古代ギリシアや古代ローマ時代からすでに「排水溝」という技術があった。たとえばヘリオガバルスの生涯。彼はアナーキストとして振る舞った。現実化された「詩」の体現者としてアナーキーという非統一的運動の奇妙な統一性を生きた。無類のアナーキー性にもかかわらずそれは《回帰》している。まずそのアナーキー性について。

「どんな詩のなかにも本質的な矛盾がある。詩とは、粉砕されてめらめらと炎をあげる多様性である。そして秩序を回復させる詩は、まず無秩序を、燃えさかる局面をもつ無秩序を蘇らせる。それはこれらの局面を互いに衝突させ、それを唯一の地点に連れ戻す。すなわち、火、身振り、血、叫びである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.157」河出文庫)

次に殺戮の一部始終についての記述。順に列挙してみる。

「ティベリス河はあまりに遠くにある。兵士たちはあまりに近い。ヘリオガバルスは半狂乱になって、便所のなかに一気に飛び込み、糞便のなかに沈む。それが最後である」(アルトー「ヘリオガバルス・P.207~208」河出文庫)

「部隊は彼を目撃し、追いつく。そしてすでに彼自身の親衛隊が彼の髪の毛をつかんでいる。ここにあるのは肉切り台の光景、むかつくような虐殺、古めかしい場の絵だ。糞便が血と混じり、ヘリオガバルスとその母の肉をかきまわす剣についた血のりと同時に跳ねかかる」(アルトー「ヘリオガバルス・P.208」河出文庫)

「『溝(どぶ)へ捨てろ!』、ヘリオガバルスの気前の良さにつけ込んだくせに、それをあまりに消化しすぎた下層民がいまやわめきたてる。『二人の死骸を溝へ捨てろ、ヘリオガバルスの死骸を、溝へ!』血と、そして、身ぐるみ剥がれ、荒らされ、しかも最も秘められた部分にいたるまですべての器官をさらけ出している二つの死体の猥褻な眺めに堪能したので、群衆は手当り次第にヘリオガバルスの死体を下水溝の口に放り込もうとする」(アルトー「ヘリオガバルス・P.208~209」河出文庫)

「エラガバルス・バッシアヌス・アウィトゥス、またの名ヘリオガバルスには、多数の精液からつくられ、淫売から生まれたので、すでにウァリウス(多様)という渾名がつけ加えられていた。その後、ティベリアヌスと『引きずられた者』という名前が与えられた、なぜなら彼は引きずられたのだし、下水溝に彼を入れようとした後、ティベリス河に投げ込まれたからである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.209」河出文庫)

「彼のからだはティベリス河に投げ捨てられるのだが、ティベリス河がそれを海まで押し流し、幾つかの渦を隔てて、ユリア・ソエミアの死骸が後に続くのである」(アルトー「ヘリオガバルス・P.210」河出文庫)

さてしかし、アルトーはこのように述べることでいったい何を「言わんとしている」のか。アナーキーはいっときの祝宴でしかないわけだが、ただし、それは必要不可欠な祝宴である。とりわけ日々の奴隷労働に従事している大量の人民にとっては。「息抜き」であり「バカンス」である。しかし人間は同じことが何度か繰り返されるとすぐに慣れてしまう。また違った生活様式に飢え始める。そしてヘリオガバルスもまた殺されたということができる。しかし重要なのは反復であり回帰である。いったん固定し凝固しステレオタイプ化したローマの政治に飽き飽きしていた人民はヘリオガバルスを《欲した》。しばらくして飽きたので追放した。それを可能にしているのは何か。問題は流動するものとしての「水」なのだ。同時にそのアナーキー性を調整する整流器として機能する「下水溝」である。そしてヘリオガバルスは海へ帰っていく。けれどもその身体は「糞便が血と混じり」、「下水溝」を介して海へ流され、そして自然界を通していつか再び《還流》するのである。この《還流》=《永遠回帰》。そしてこの《還流》=《永遠回帰》はヨーロッパ世界が地球規模へと巨大化するにつれてよりいっそう大規模に繰り返される。「感染=パンデミック」もまたイギリスの産業革命並びに一七八九年のフランス革命を境界線として同様の過程をたどり飛躍的に大規模化した。資本主義の脱コード化の運動はたいへんアナーキーなものだ。その意味でヘリオガバルスは資本の身体と似ている。しかし資本主義の場合、極限に立ち至るやいなや極限を押しのけ置き換え、決済を延々と引き延ばしていく。

「資本主義がその限界に衝突するのと限界を遠くに押し退け、より遠くに設置し直すのは同時にである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)

ここで言われている「限界」とはなんのことだろうか。単純にいえば「既存資本の周期的な価値低下」ということに過ぎない。だから資本はいつも安い労働力商品を求めて世界中をさまよい歩くのである。その意味で多国籍企業の真髄が発揮されるのはいつも諸外国との貿易においてである。

「貿易によって一方では不変資本の諸要素が安くなり、他方では可変資本が転換される必要生活手段が安くなるかぎりでは、貿易は利潤率を高くする作用をする。というのは、それは剰余価値率を高くし不変資本の価値を低くするからである。貿易は一般にこのような意味で作用する。というのは、それは生産規模の拡張を可能にするからである。こうして、貿易は一方では蓄積を促進するが、他方ではまた不変資本に比べての可変資本の減少、したがってまた利潤率の低下をも促進するのである。同様に、貿易の拡大も、資本主義的生産様式の幼年期にはその基礎だったとはいえ、それが進むにつれて、この生産様式の内的必然性によって、すなわち不断に拡大される市場へのこの生産様式の欲求によってこの生産様式自身の産物になったのである。ここでもまた、前に述べたのと同じような、作用の二重性が現われる(リカードは貿易のこの面をまったく見落としていた)。

もう一つの問題ーーーそれはその特殊性のためにもともとわれわれの研究の限界の外にあるのだがーーーは、貿易にとうぜられた、ことに植民地貿易に投ぜられた資本があげる比較的高い利潤率によって、一般的利潤率は高くされるであろうか?という問題である。

貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤率をあげることができるのは、ここではまず第一に、生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争が行なわれ、したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなおその価値より高く売るのだからである。この場合には先進国の労働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは、利潤率は高くなる。というのは、質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働として売られるからである。同じ関係は、商品がそこに送られまたそこから商品が買われる国にたいしても生ずることがありうる。すなわち、この国は、自分が受け取るよりも多くの対象化された労働を現物で与えるが、それでもなおその商品を自国で生産できるよりも安く手に入れるという関係である。それは、ちょうど、新しい発明が普及する前にそれを利用する工場主が、競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち、この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余価値として実現し、こうして超過利潤を実現するのである。他方、植民地などに投下された資本について言えば、それがより高い利潤率をあげることができるのは、植民地などでは一般に発展度が低いために利潤率が高く、また奴隷や苦力などを使用するので労働の搾取度も高いからである。ところで、このように、ある種の部門に投ぜられた資本が生みだして本国に送り返す高い利潤率は、なぜ本国で、独占に妨げられないかぎり、一般的利潤率の平均化に参加してそれだけ一般的利潤率を高くすることにならないのか、そのわけは分かっていない。ことに、そのような資本充用部門が自由競争の諸法則のもとにある場合にどうしてそうならないのかは、わかっていない。これにたいしてリカードが考えつくのは、なかでも次のようなことである。外国で比較的高い価格が実現され、その代金で外国で商品が買われて帰り荷として本国に送られる。そこでこれらの商品が国内で売られるのだからこのようなことは、せいぜい、この恵まれた生産部面が他の部面以上にあげる一時的な特別利益になりうるだけだ、というのである。このような外観は、貨幣形態から離れて見れば、すぐに消えてしまう。この恵まれた国は、より少ない労働と引き換えにより多くの労働を取り返すのである。といっても、この差額、この剰余は、労働と資本とのあいだの交換では一般にそうであるように、ある階級のふところに取りこまれてしまうのであるが。だから、利潤率がより高いのは一般に植民地では利潤率がより高いからだというかぎりでは、それは植民地の恵まれた自然条件のもとでは低い商品価格と両立できるであろう。平均化は行なわれるが、しかし、リカードの考えるように旧水準への平均化ではないのである。

ところが、この貿易そのものが、国内では資本主義的生産様式を発達させ、したがって不変資本に比べての可変資本の減少を進展させるのであり、また他方では外国との関係で過剰生産を生みだし、したがってまたいくらか長い期間にはやはり反対の作用をするのである。

このようにして一般的に明らかになったように、一般的利潤率の低下をひき起こす同じ諸原因が、この低下を妨げ遅れさせ部分的には麻痺させる反対作用を呼び起こすのである。このような反対作用は、法則を廃棄しないが、しかし法則の作用を弱める。このことなしには不可解なのは、一般的利潤率の低下ではなくて、反対にこの低下の相対的な緩慢さであろう」(マルクス「資本論・第三部・第三篇・第十四章・P.388~391」国民文庫)

先進国と途上国という地域《間》に横たわる賃金格差(労賃の差異)を限界まで反復利用して繰り返し儲けを上げる方法。日本の「トヨタイズム」が世界中の資本家から絶賛された理由はそこにある。以下参照。

「労働強化の代表的な例として、アメリカで始まったテイラーイズムにもとづくフォーディズムがあげられる。それは仕事の細分化と生産のオートメーション化(アセンブリ生産)によって、労働の熟練性を奪い、『労働の疎外』を極度にもたらす。それに対して、日本のトヨタ方式においては、需要変動に即応する多品種生産に応じる体制、そして、多能工が育成される。近年では、レギュラシオン学派は、トヨタイズムをポスト・フォーディズムとして評価している。しかし、実際には、それは労働者の『自主性』を活用するより巧妙なフォーディズムにすぎない。トヨタイズムが成功したのはむしろ系列の下請け中小企業を締めつけ搾取することによってである。このような機械的生産における労働強化の形態によって、資本主義の歴史的『段階』を規定するのは一面的である。それは『絶対的剰余価値』を中心に考える傾向の延長に過ぎない」(柄谷行人「トランスクリティーク・P.491~492」岩波現代文庫)
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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