白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義25

2020年04月12日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホの絵画のなかには「ヴィジョンがない」と述べた後でさらに同様のことをアルトーは繰り返す。

「ヴァン・ゴッホのタブローのなかには亡霊はいない、ドラマもなければ、主題(体)もない、そして私は対象もないとさえ言うだろう、というのもモチーフそれ自身とはいったい何なのか?」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.146』河出文庫)

しかしこの種の問いはヴィジョンが「あるかないか」という議論へ持ち込まれてしまうとたちまち理解不能な次元へ棚上げされてしまう種類の問いなのだ。フーコーは、晩年のゴッホにはニーチェと同様、ヴィジョンがあったと述べている。

「悲劇的意識を活気づけたのは、ニーチェの晩年の言葉、ヴァン・ゴッホの晩年のヴィジョンだった。フロイトが自分の歩みをおしすすめた極点において予感しはじめたのも、この意識だったにちがいない。性本能(リビドー)と死の本能との神話的な戦いによって、彼が象徴化しようと欲したのは、それの大いなる分裂状態だったのだから。最後に、この悲劇的意識はアルトーの作品のなかに表現されるにいたるのであって、その作品こそは、二十世紀の思考が注意をそこにむけるならば、その思考にもっとも切迫した問題を、ただし、問題提出者をめまいからさますような余地の全然ない問題を提出しているにちがいない。また、われわれの文化がその圏外に、太陽と軸とする世界の大狂気を、『焔のサタンの生と死』が完成されつづける胸がはりさけるような分裂状態を排除してしまってから以後、文化はその悲劇的な根源を喪失してしまったことを、アルトーの作品は宣言しつづけたのである」(フーコー「狂気の歴史・P.45」新潮社)

悲劇的意識というのは、近代社会成立以前、十五世紀のヨーロッパではまだ日常生活の中に当たり前にあった人々の生活様式に対する認識である。悲劇的といっても「悲しい」とか「哀れ」とかいう一七八九年フランス革命以来のヒューマニズム的観点から言われる悲劇を意味するわけではない。「分裂状態」が当たり前にあった頃の日常生活のことをいう。当時は実にしばしば現われる《分裂状態》こそごく「普通」の常態であり暮らしの中に溶け込んでいる生活様式だった。ゴヤ、ブリューゲル、そしてボッシュの絵画の中に幾らでも見られる一般的なものであった。市民社会を構成している人々。見た目はなるほど狂人には見えない。ところがその心の中はといえば「夢、幻、妄想、幻想、無秩序」がごった返しせめぎ合う「エス」の巣窟だったのであり、それら「秘められたもの、表面に現われない謎」は、フーコーの言葉を借りれば、速やかに「《世界の悲劇的な狂気》」として取り扱われていくようになる。なお、「エス」について。とりわけエスは時間を知らないという点について読み返してみる。

「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)

オランダを皮切りとして近代社会が到来する時期、十六世紀になると早くも狂気経験に対する教育的絶滅が指導されるようになるのだが、それら言葉や絵画の形象を取って出現してくる狂気経験のすべてを絶滅しようとしても不可能なことは明らかだった。潰せば潰すほど逆に巨大化して再出現してきたからである。治安当局がやっていることは見た目には抑圧に見える。だが抑圧ではなくその反対、弾圧することで逆にそこに欲望を発生させてしまうという逆説の実現だったからだ。そう悟った政治権力は少しばかり考えた。そして次のように慎重な態度変更を行う。

「十六世紀には、根本的な絶滅ではなく、その隠蔽が重要になる。批判的意識にあたえられた独占排他的な特権が狂気の悲劇的で宇宙的な経験を隠蔽した」(フーコー「狂気の歴史・P.44」新潮社)

こうして起源は忘れ去られる。そしてフランス革命前後から絵画は急速に印象派に代表されるような透明なものになっていく。印象派の絵画を見るとすでに暗い中世の絵画のような「神」の姿は出現しない。消し去られている。ルノワール「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」、「舟遊びの人たちの昼食」では新興ブルジョワ階級に属する人々が二〇二〇年のディスコやクラブを野外に移した形で当時の流行の衣装に身をまとい散乱する光の中で賑やかに騒ぎ回っている。また「雑草の間の小径」では空を見ても天使の姿がその光景を見守っていたりしない。市民社会がキリストの神を押しのけたのである。神は死んだ。キリストという名の神は死んだ。資本主義という名の新しい神が世界を制覇したのである。

「なんとも形容し難いある古代の音楽のもつモテットの鉄の影のような何か、それ自身の主題のもつある絶望的なテーマのライトモチーフのような何かでないのなら」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.146』河出文庫)

ゴッホの絵画には〔俗世間でいう〕ヴィジョンがないとアルトーがいうとき、その意味は、世界は今なお統合を失調している、ということをゴッホの絵画はあからさまに、なおかつ全面的かつ肯定的に言わんとしているという事実においてである。たとえば極めて身近な誤解された例を上げるとすれば、歴史教科書は一本の線で繋がれた形で記述可能であるという幻想がある。しかし現実にはそのような「ヴィジョン」はない。あるのは逆に無限の多様性に満ちた諸要素が闘争し合いせめぎ合う分裂状の共同体の運動ばかりである。

「それは、かなり近くから人がそれに近づくことができるときに、現れ出るとおりに見られた裸で純粋な自然のうちにある」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.146~147』河出文庫)

アルトーのいう「裸で純粋な自然」とはなんだろうか。鑑賞者の側を誘惑しないではおかない問いではある。しかもそれは「暗い必然」としての「狂気」という資格で誘惑する。

「いたるところで、狂気は人間を魅了する。狂気が生みだす幻想的なイマージュは、事物の表面からすみやかに消えさる束の間の外観ではない。奇妙な逆説によってであるが、もっとも不思議な妄想から生れているものは、一つの秘密として、一つの近よりがたい真実として、まえもって大地の胎内に隠されていたものなのである。人間が勝手気ままに自分の狂気をくりひろげる時、彼は世界の暗い必然に出会う。人間の悪夢とその窮乏の夜につきまとう動物こそは、人間本来の姿、<地獄>の非情な真実によって裸にされる人間性である」(フーコー「狂気の歴史・P.38」新潮社)

人間は自分が何であり、どこから来てどこへ行くのか、文学や絵画あるいは音楽の中にそれを見出そうとする。そして見出したと思い込んで安心する。ところが新しい文学や絵画あるいは音楽が出現するやいなやまたもや不安に襲われる。そして人間は再び自信を失い「まばたき」する。

「最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。見よ。わたしはあなたがたにそういう《末人》を示そう。『愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とは何か』ーーーそう末人(まつじん)はたずねて、まばたきする。そのとき大地は小さくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。その種族は蚤(のみ)のように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。『われわれは幸福を発明した』ーーー末人はそう言って、まばたきする」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・五・P.24」中公文庫)

というふうに。
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なお、「感染=パンデミック」についてさらに。生物学的知見や個々の医師の医療活動ではなく医学という体系をモデルとした中央集権的国家の成立。その障礙となるものについて国家権力は排除する方向を打ち固める。だがなぜそうするのか。前回引用した。

「たとえば施療院がそれで、これらは病気を支配する特殊な法則を変質させ、所有と富の関係、貧困と労働の関係を決定する厳しい法則を乱(みだ)す」(フーコー「臨床医学の誕生・P.81」みすず書房)

重要なのは「法則を乱(みだ)す」という点にある。ファシズムはいつもこのような細部の動きについてとても敏感に反応する。ところがファシズムは「法則を乱(みだ)す」ものに対して峻烈極まりない取り扱い方を施す一方、自分が濫用している「法則」とはどのような法則なのか、ほぼまったくわかっていない。フーコーは「臨床医学の誕生」から「言葉と物」を経て「狂気の歴史」を書き上げる。その移動過程の中でファシズムが社会規範=倫理的制度の名において「法則を乱(みだ)す」と言うときの「法則」について、より明確化することに成功している。

「狂人が中世の人間的な景色のなかに親しみぶかい姿で現われたのは、狂人が別の世界からやってきたからだった。今や、狂人は、都市における人間個人の秩序に関与する、《治安》(ポリス)問題を背景にして、鮮明な姿を見せようとする。昔は、別世界からやってきたから、狂人はもてなされたが、今後は閉じ込められるだろう。狂人はこの世界から来ているのであり、貧乏人、あわれな人、放浪者の仲間なのだから。狂人を受け入れる施療救済は、新しく生れる曖昧さのなかでは、彼を度外視する浄化衛生の処置になってしまう。なるほど狂人はぶらつくことはぶらつくが、もはや奇妙な巡礼の途上にあるわけではなく、彼は社会空間の布置を乱すのである。悲惨〔=貧困〕のもつ権利をもぎとられ、それの与える栄光をうばわれてしまった狂気は、貧乏と無為とともに、以後、国家に内在する弁証法のなかに冷ややかな姿で出現する」(フーコー「狂気の歴史・P.81」新潮社)

要するに、自分から見て「非理性的なもの」が「社会的な布置を乱す」ことをファシズムの側は問題視している。驚くべきはファシズムの側が自分で自分自身のことを「理性的なもの」として信じ込んで疑っていない点なのだが。それはともかく、この「社会的な布置」とはなんなのか。社会的な役割とともに与えられる立場というものだ。マルクスのいう「社会化された人間」とはその動作のことである。

「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性に迫られて労働するということがなくなったときに、はじめて始まるのである。つまり、それは、当然のこととして、本来の物質的生産の領域のかなたにあるのである。未開人は、自分の欲望を充たすために、自分の生活を維持し再生産するために、自然と格闘しなければならないが、同じように文明人もそうしなければならないのであり、しかもどんな社会形態のなかでも、考えられるかぎりのどんな生産様式のもとでも、そうしなければならないのである。彼の発達につれて、この自然必然性の国は拡大される。というのは、欲望が拡大されるからである。しかしまた同時に、この欲望を充たす生産力も拡大される。自由はこの領域のなかではただ次のことにありうるだけである。すなわち、社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ、つまり、力の最小の消費によって、自分たちの人間性に最もふさわしく最も適合した条件のもとでこの物質代謝を行なうということである。しかし、これはやはりまだ必然性の国である。この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まるのであるが、しかし、それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである」(マルクス「資本論・第三部・第七篇・第四十八章・P.339」国民文庫)

フーコーに戻ると、「狂人が中世の人間的な景色のなかに親しみぶかい姿で現われたのは、狂人が別の世界からやってきたからだった」、とある。中世世界ではヨーロッパだけでなく世界の辺境だったほかならぬ日本においても「水」というものが重要な意味をもっていた。「浄め」の儀式ではいつも「水」が関係しているように。

「犬神人(いぬじにん)については、最近、めざましい新しい視点に立った研究がつぎつぎに発表され、祗園社(ぎおんしゃ)に属する犬神人と清水坂とが重なる集団であることが確認された(「中世京都における寺院と民衆」『日本史研究』)のをはじめ、その衣裳にいたるまで、活動の実態が詳しく解明された(黒田日出男『境界の中世・象徴の中世』、河田光夫<親鸞と「犬神人」>、保立道久『中世の愛と従属』)。そして、祗園社の犬神人だけでなく、すでに早く宮地直一が指摘した通り、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、越前(えちぜん)の気比(けひ)社、美濃(みの)の南宮社にも、犬神人がおり、さらに鎌倉の鶴岡八幡宮に属する犬神人(石井進「都市鎌倉における『地獄』の風景」『御家人制の研究』)がいたことも明らかにされている。実際、『畿内近国犬神人』(「祇園社記」第十『八坂神社記録』)といわれたように、犬神人がかなりの範囲で諸国に分布していたことも、河田光夫などによって言及されている(<犬神人>)。これは清水坂が奈良坂と競合しつつ、各地の宿をその末宿としていることに相応ずる事実といえよう。

別の機会にも詳述した通り(「中世前期における職能民の存在形態」『日本中世史研究の軌跡』)、『いぬひしにん』(「祗園社記」第十五『八坂神社記録』三に『御とものきしき、御先へハいぬひしにんまいる』とある)とよばれた祗園社の犬神人が、山門西塔釈迦堂寄人として檀供(だんぐ)寄人(檀供神人)と同じく『職掌(しょくしょう)人』であり、また『重色(じゅうしき)人』であったことを主張し、『墓所の法理』の適用を求めている(『八坂神社文書』上、文和二年五月日、感神院犬神人等申状)ことから明らかなように、たとえ『犬』という文字を付されているとしても、犬神人はまぎれもない神人、寄人であり、『聖別』された神仏の直属民であった。これは奈良坂のたちが、自らを『本寺最初社家方々之清目、重役之』『本寺重役清目之』と主張した(「神宮文庫所蔵文書」寛元二年四月日、奈良坂等陳状案)のと全く同様であり、奈良坂のもまた、神仏に直属する寄人、神人と見なくてはならない。このように、犬神人、が王朝国家の職能民に対する支配制度としての神人・供御人制の下に組織され、京都・奈良・鎌倉の寺社をはじめ諸国の一宮(いちのみや)、国分寺などに属するとともに、京都では検非違使(諸国ではおそらく国衙)の統轄をうけていたことはまぎれもない事実として確認しておく必要がある。これらの人々は不自由民である下人とは異なる立場にあるとともに、凡下、百姓ーーー平民身分とも明確に区別された神人、寄人の称号を持つ『職人』身分に属し、『聖別』され、ときに畏怖される一面を持つ存在だったのである。

山本幸司が明らかにしたように(<貴族社会における穢と秩序>『日本史研究』)、『穢』が当時の人々にとって、のちの『汚穢』とは異なり、畏怖すべき事態であったとすれば、それをキヨメる『清目』としての力を持つこれらの人々が、畏れられる側面を持っていたのは当然であろう。このことは、が平民の共同体から離脱あるいは排除され、忌避される一面のあったこととなんら矛盾するものでなく、むしろこうした人々が神仏に直属し、『穢』をきよめる力を持つ職能民の一種として、社会のなかに位置づけられたことの意味を追求することこそ、日本の社会の特質を明らかにする上で、きわめて重要な課題といわなくてはならない。

『河原細工丸(かわらさいくまる)』(「社家記録」『八坂神社記録』一、正平七年正月十二日条に「河原細工」、同年正月二十四日条に「四条河原細工丸十人」などとある)などとよばれたが、広義の『』として、犬神人、ときわめて近い立場にありながら、おそく見ても南北朝には別個の集団として姿を現わすことは、すでに細川涼一等によって指摘されているが(<中世の身分制と>『歴史学研究』)、この分野の研究に測りしれない大きな成果を残し、最近、世を去った三浦圭一の紹介した『野口御清目六郎男』も、三浦のいう通りであろう(<中世の或る裁判沙汰>、問題研究所編『の生活史』)。徳治二(一三〇七)年三月のおそらく北野社に提出されたと見られる陳状(「御簾調進記録紙背文書」『北野天満宮史料』徳治二年三月日、野口清目六郎陳状。この文書に「信乃法眼御房」充の書状が見えるから、このように推測できる)で、六郎が自らを『御清目』と名乗っていることに注目すべきであり、六郎は『一所同心』の清目太郎の訴えを不当としている。三浦はこの陳状について『裁判機関がどこにあったにせよ、中世が親しい間柄であっても、堂々とその正邪を決する裁判闘争を展開しているということ、そしてこの訴状・陳状が認められている以上、その裁判を受理し、審査する場が存在したことを暗示する』とし、『このようなことが、中世集団が<社会外社会>を構成していたという中世研究のなかの一つの見解に対して、私がどうしても納得のいかないことの理由である』とのべている。この三浦の見解に、私は全く賛成である。

六郎、太郎などのここに姿を見せる清目は、北野社に属した清目──と見てよいのではないか、と私は考えるが(『北野社家日記』等に「西京者」として、が頻出するのは周知の通りである)、ここで自らを『御清目』といった六郎の意識は、さきの犬神人、の自らを『重色人』とする主張と根を同じくするといってよかろう。

丹生谷のいうように、清目=も祗園社、醍醐寺等の寺社に属して『裏無(うらなし)』『障泥(あおり)』などの革製品を貢進するとともに、井戸掘など自然の大きな変更に関する土木工事に従事する職能民であり、やはり寄人として神仏の直属民だったのではないかと思われる。犬神人、、等の人々を『体制』の外に置かれた『身分外身分』とする黒田俊雄の見解は、その主張の意図は十分理解できるとはいえ、三浦の指摘する通り、『体制』『身分』を狭く限定したものとすることによって、こうした人々を『活用(「中世の身分意識と社会観」日本の社会史第7巻『社会観と世界像』)』する支配体制、社会のあり方をとらえる道をふさぐ結果になるのではなかろうか。

ときに『』あるいは『清目丸』とよばれ、広義の『』と見ることのできる放免(ほうめん)に(『建内記』嘉吉元年九月二十一日条で、処刑に当たった放免が「清目丸」といわれているのは、丹生谷の指摘する通りである)ついても、近年、さまざまな角度から追究されているが、『使庁(しちょう)下部』ともいわれた放免はおそくとも鎌倉期には左右の囚守の地位を与えられ、検非違使に統轄されていたと見てよかろう。

例えば『師守記』康永三(一三四四)年四月十四日条の賀茂祭散状(さんじょう)に、検非違使のそれぞれに従う『鉾持(ほこもち)』として現われる左囚守彦簾丸、右囚守吉光丸、左囚守彦里丸は、間違いなく放免の正式の姿である。このように囚守の地位を与えられた放免のあり方は、別稿(<検非違使の所領>『歴史学研究』)で紹介した建保四(一二一六)年の文書と推定される。執行(しつぎょう)国末丸の『阿党』を訴えた左囚守貞末丸申状(「醍醐寺文書」)にまで遡って考えることができる。

ここで貞末丸は『東寺之強盗字矢太郎男』の『けこ(警護カ)』を命ぜられたとし、『囚守等の習(ならい)ハ七日間犯人をうしろみ候(そうら)ひてあしく候へ、七日内ニ五日にても六日にてもきらひかへし候ハ、つねの例也』とのべているが、十分に文意をつかみ難いとはいえ、放免が囚守として獄囚を預り、『うしろみ』『けこ』していたことは明らかといってよかろう。使庁下部の家に獄囚が置かれることは、平安末期においても問題になっており(「宇槐記抄」仁平二年五月十五日条)、こうした獄舎、獄囚と放免=囚守との関わり方については、今後さらに追究されなくてはならない(上杉和彦「京中獄所の構造と特色」)。

左右看督長(かどのおさ)・左右囚守が『四座下部』といわれ、紺年預得分をその俸禄としていたことは、丹生谷がすでに指摘しているが(『検非違使ーーー中世のけがれと権力』)、貞治元(一三六二)年、この得分について、『四座下部』の宿老と中臈(ちゆうろう)が相論していること(『師守記』貞治元年十一月十二日、十三日、十六日、二十二日、二十三日、二十六日、二十七日、二十八日、二十九日条、同年十二月二十一日条等)から知られるように、囚守、放免はこのころまでに、年齢階梯制を持つ座に組織されていた。これは清水坂、奈良坂のが座的な組織を持っていたこととも相応ずる事実といえよう。とすれば放免もまた囚守という制度的な位置を与えられ、検非違使を通じて天皇に直属する立場にあった。そして、犬神人が祗園御霊会に当たって、その先頭に立ったのと同様、放免=囚守も『鉾持』として、擢染(すりぞめ)の綾羅錦繍(りょうらきんしゅう)を身につけ、検非違使に従って賀茂祭に加わったのである(『古記』安元二年四月二十二日条など、その事例は多い)。

このように、『一所同心』ともいわれた座的集団に組織され、神人、囚守などの称号を持ち、俸禄、給分等を保証された人々として、私はやはり、犬神人、、放免などの『』を『職人』身分として規定したいと思う」(網野善彦「中世のと遊女・P.94〜98」講談社学術文庫)

ヨーロッパでは次のように。

「狂人たちの航行に作用し、それに威厳をあたえているにちがいない奇妙な過重な意味が、よりよく理解される。一面では、議論の余地なき実際上の効力がはたす役割を過小評価してはならないのであって、狂人を船頭に託すことは、たしかに狂人が際限なく市域をぶらつかぬようにし、遠方へおもむいたことを確かめて、狂人にその出発を忠実に実行させることだった。だが、この事態に、水はそれじたいの不明確な多くの価値をつけ加えるのである。水は運び出す、だがそれ以上のことをする。浄化するのである。さらにまた航行は人間を運命の定めなさに直面させる。航行中は、各人はみずからの宿運にゆだねられ、いつ船に乗ろうとも、それが最後の命になる可能性が秘められる。狂人が気違い船にのっておもむく先は、あの世である。舟をおりて帰ってくるのは、あの世からである。こうした狂人の船旅は、厳密な分割であると同時に絶対的な<通過・変転>である。ある意味ではこの船旅は、なかば実在していてなかば空想的な地理書にしたがいつつ、たえず中世的人間の関心の地平にまで狂人の《出発点での》状況を展開させつづけているわけである。ーーー都市の《城門》のところで《監禁され》るという、狂人に与えられた特権によって、象徴化されもし現実化されてもいる状況を。つまり、狂人の排除は狂人を囲い込まねばならないのである。狂人は《関門》じたいのほかには《牢獄》をもつことができず、それをもってはならないとしても、狂人は通過する地点で取り押さえられるのである。彼は、外部の内側におかれているし、逆に内部の外側におかれてもいるのだ。これは高度に象徴的な立場であり、もしも、狂人のおかれるこの立場がかつては秩序の明確な要塞だったものが現代では、われわれの意識の城と化してしまったことを認めるとすれば、この象徴的な立場は現代にいたるまで、その姿のまま残っているにちがいない。

水と船旅がこの役割をはたしている。脱出できない船のなかに閉じこめられた狂人は、幾千もの支流をもつ河川、数多くの航路をもつ海、あらゆることと絶縁した大いなる不安にゆだねられる。狂人は自由自在の航路、どこにむかっても開かれている航路の途上で囚人になっている。つまり、果てしない十字路にかたく鎖でつながれているわけである。彼はこの上ない<通過者>、つまり通過の囚人だ。しかも接岸するはずの陸地がいかなるところであるかは不明である。ちょうど出立してきた陸地がどんなところだったかが上陸するおりに不明であるように。狂人は、自分のものとなりえぬ二つの土地(出立地と上陸地)のあいだの、あの不毛の広い空間にしか自分の真実と自分の生れ故郷をもちあわせない。西洋文化の流れにそって人がたどることができるのは、こうした諸価値を媒介として長期にわたる空想上の血族関係の起源にあるあの宗教的慣習なのだろうか?それとも逆に、古来、船旅の慣例を招きよせ固定化したのは、この空想上の血族関係なのだろうか?いずれにしても一つの事柄だけは確かである。つまり、ヨーロッパ人の夢想のなかで、水と狂気は長いあいだ結びあっているという点は」(フーコー「狂気の歴史・P.28~29」新潮社)

日本でも古代からずっと遣隋使や遣唐使あるいは明治近代の夏目漱石による英国留学に至るまでそれは《他者》との出会いであると同時に自分の《他者化》=変身を意味した。自分で自分自身をボーダー化(境界化)する行為である。このような場所移動には常に価値関係の変容あるいは切断が割り込んでくる。

「私の話の骨子は、我々の眼前で我々の生活の諸価値が低下し、暴落してしまったことについてである。そしてこの《価値》という言葉で、私は物質的な価値と精神的な価値を、同じ表現の中、同じ記号の下に包括したのである。私は《価値》という言葉を使った。私の関心はまさにそれである。諸氏の注意を引きたい最も重要な点である。

今日、我々は(ニーチェの卓抜な表現を援用すれば)、真に巨大な価値の転換期に遭遇している。そしてこの講演を『精神の自由』と銘打ったことで、私は、今、物質的価値と同じ運命をたどっているように見える主要な価値の一つを俎上に載せたのである。かくして私は《価値》と言い、《精神》と銘打たれた価値が、《石油》、《小麦》あるいは《金》の価値と同様に存在することを指摘した。私は《価値》と言った、なぜなら、そこには評価、重要度の判断が存在し、《精神》という価値に対して人が支払う用意のある対価もまた存在するからである。この価値(株)に投資することも可能である。そして、株式市場で人々が言うように、価値(株価)の変動を《追跡する》こともできる。私には分からない相場で値動きを観察することもできる。相場とはその価値についての世間一般の意見である。毎日新聞の株式欄一杯に書かれている相場を見れば、その価値が他の価値とあちこちで競合していることが見て取れる。ということは競合する価値があるということだ。それは例えば《政治力》である。政治力は必ずしも精神-価値や《社会保障》株や《国家組織》株と調和しない。これらの諸価値はすべて上がったり、下がったりして、人間事象の一大市場を構成する。そうした事象の中で、憐れなる《精神》-価値は下がる一方である。

《精神》-価値の推移を観察すると、すべての価値と同様、その価値にかけた信頼度によって、人間が二種類に分けられる。この価値にすべてをかける人々がいる、彼らの持てる希望、人生・心・信念の一切をかけるのである。この価値にはあまり期待しない人々もいる。彼らにとって、投資として大きな関心の対象にはならず、価値の変動に対してもほとんど関心がない。さらにはこの価値にはまったく関心を示さない人々もいる。彼らはこの価値に大事なお金をかけることはない。そして、はっきり言えば、この価値をできるかぎり低下させようとする人々もいるのである。私が株式取引所の用語を借りて話していることはお分かりだろう。精神的な事象に関して使うのは奇妙に思われるかもしれない。しかし、他によりよい言葉がないし、多分、この種の関係を表現するのに、捜しても他に適当な言葉はなさそうである。というのは、精神の経済も物質の経済も、人がそれを考えるとき、単純な《価値評価》のせめぎあいとして考えるのが最も分かり易いからである。かくして、私はしばしば、とくにそうしようと思ったわけではまったくないのに、精神生活とその現象および経済生活とその現象の間に類似性が見て取れることに感銘を受けるのであった。

一度その類似性に気づくと、それをとことん追求しないではいられなくなる。経済生活・精神生活のいずれにおいても、すぐに見て取れることは、ともに同じ《生産》と《消費》という概念が見出されることである。精神生活における生産者とは作家、芸術家、哲学者、学者といった人々であり、消費者とは読者、聴取者、観客である。さきほど話題にした価値という概念も、同じく、欠かせないものとして、経済・精神双方の生活に見出される。さらに、交換の概念、需要と供給の概念も同様である。こうしたことは単純であり、簡単に説明がつく。以上の概念は内的世界の市場(そこでは各精神が他の諸々の精神と競合し、交渉し、あるいは、和解する)においても、物質的利害の世界においても、意味を持つものである。さらには、二つの世界のどちら側からも、労働と資本という考え方が有効である。《文明とは一つの資本である》。その増大のために数世紀にわたる努力が必要なのは、ある種の資本を増大させるのと同様で、複利法で増資していくのである。

こうした類似性は考えると意外に思われるかもしれない。しかし類似性はごく自然なものである。私としてはほとんどそこにある種の同一性を見ることにやぶさかではない。理由はこうである。最初に、すでに述べた通り、そこには有機的に同型のものが生産と受容という名の下に介入していること、ーーー生産と受容は交換と切り離せない関係にあるが、そればかりではなく、あらゆる社会的なものはすべからく多くの個人の間で取り結ぶ関係から、生き・考える(多少なりとも考える)人々が織り成す広大なシステム内で起こる出来事から結果するものだからである。システム内部の各人は互いに連繋していると同時に、対立してもいる、ーーー個人としては唯一無二の存在であっても、多数の中にあっては識別されず、あたかも存在しないかのごとくである。そこが肝心な点である。個人は実践的にも、精神的にも、観察され、実証される。一方には個があり、他方には個別化されない数量と事物がある。したがって、こうした関係性の一般的な形は、精神に対する製品の生産、交換、消費にせよ、物質生活における製品の生産、交換、消費にせよ、大差はないのである。

大差がなくて当然ではないだろうか?ーーー同じ問題が見出されるのだから。《個人と個別化されない個人の集合》、集合の中の個人同士は直接的あるいは間接的な関係にある。間接的な関係にあるほうが普通だろう、なぜなら、大抵の場合、経済的にも、精神的にも、我々が外部の圧力を感じるのは間接的な形においてであり、またその反対には、我々が我々の外的行為の影響を不特定多数の聴衆や観衆に及ぼす場合も同様である。

かくして、ある種の二重関係が確立される。一方に交換があり、他方に欲求の多様性、人間の多様性があるとき、個人の特殊性、伝達不能な好悪の感情とか、個々の人間が持っているノーハウとか、技能とか、才能とか、個人的なイデオロギーとかが一つの市場で対立するとき、そうした個人的な価値の対立による競争が流動的均衡を作り出すのである。それはある瞬間の《諸価値》が、その瞬間だけに有効なものとして作り出す均衡である。ある商品が今日、ある時間内で、ある価格で取引されるように、そしてその商品は突然の価格変動に曝されたり、あるいは、緩慢ではあるが持続的な変動に委ねられたりするのと同様に、好みや教条、様式や理想等に関する諸価値も変動する。ただ精神の経済は定義するのがより困難な現象を我々に提示する。というのは精神経済の現象は一般に計測不能であり、器官や特別に作られた制度などで確認できないからである」(ヴァレリー「精神の自由」『精神の危機・P.224~230』岩波文庫)

にもかかわらず二〇二〇年の世界の指導者たちの言語〔価値〕はあからさまなまでに統合を失調している。なおいっそう悪質なのは、精神的統合失調症はけっして悪ではないという観点から、それをいいことに政治指導者らは自分たちが用いる言語のコンテクスト(文脈)の一貫性を自己破壊して止まないことだ。統合失調者は「モロイ」のように思考し行動する。

「あまり長いこと、言葉から遠ざかって生きていたので、おわかりだろうか、たとえば私の町を見ただけで、というのも、ここではまさに私の町が問題なのだから、できなくなってしまう、おわかりだろうか。うまく言いがたいのだ、私には。同様に、私の人格という感じも、一つの無名性に包まれていて、それを突き破るのが、ときにむずかしい、それはたしか先ほどから見てきている。そして、私の五感をからかういろいろなものについても同じことだった。そう、波も粒子も、すべてがすでにぼやけていたあの時代でさえも、事物の条件は、名がないということであり、また、その逆でもあった。私は今そう言っているが、今になっても、あの時代についてなにを知っているというのだろう。意味で凍りついた言葉が私の上に雹(ひょう)のように降りかかり、世界が卑劣な、重苦しい名を与えられたまま死んでいく今となって。あの時代について知っているのも、言葉と、それに死んだ事物が教えてくれることだけだ。それでも集めてみればちょっとした分量になり、はじめと半ばと終わりがあって、まるで、しっかりした構成の文章とか、死骸(しがい)を組み合わせた長いソナタのようだ。だから、これを言うか、あれを言うか、それとも別のことを言うか、ほんとうにそれはどうでもいい。言うとはすなわち発明することだ。もちろんこれはほんとに嘘だ。なんにも発明などしやしない。発明したと思う、逃れたと思う、だが、教わったことを片言で繰り返しているにすぎない」(ベケット「モロイ・P.42~43」白水社)

ところが政治家がそうするとすればそれはただ単なる開き直りであり自分に与えられた政治的義務の放棄に等しい。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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