白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義23

2020年04月10日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホが画家としての自分と向き合うとき、どれほど誠実だったか。あるいは誠実とはなんなのかという問い。ゴッホの誠実さは、周囲の目には「精神異常者」の「狂人的執着」に映って見えていた。

「ヴァン・ゴッホがこの世で最も執着していたものは、画家としての自分の考え、狂信的で、黙示録的な、幻視者としてのその恐るべき観念であった」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.139』河出文庫)

ゴッホの性格は極めて律儀なタイプである。書簡を見ると一目瞭然。その几帳面な書簡からも窺えることは、ゴッホが絵画に向かうときの態度である。このような態度は言葉にすると大抵は陳腐なステレオタイプにおちいってしまいがちなのだが、アルトーは実に上手く翻訳しているといえる。「ゴッホは懸命に間違うまいとしているひとりの無学な貧乏人」であると。

「ヴァン・ゴッホは懸命に間違うまいとしているひとりの無学な貧乏人にすぎない」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.140』河出文庫)

ゴッホ=「懸命に間違うまいとしているひとりの無学な貧乏人」という公式。その対極に芸術家としてのブリューゲルとかヒエロニムス・ボッシュを置いている。ブリューゲルやボッシュがゴッホに対して芸術的専門家〔学者〕であったという見立てには疑問があるものの、仮にそう設定するとすれば、アルトーが次のように述べることに問題はないとおもわれる。

「だが、どうやってひとりの学者に、微分学や、量子論や、または猥褻でまったく馬鹿らしいまでに典礼的な春分点歳差の神明裁判のなかには、何かしら決定的に狂ったものがある、ということを理解させればいいのだろうか」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.140』河出文庫)

と言ってはいても、アルトーは自分とゴッホとを混同しているわけではけっしてない。ゴッホの絵画に自分の鏡を見出したというべきだろう。シュルレアリズム運動は創成期においてすでに政治性を帯びていた。芸術からの対抗運動としての側面を前面に押し出す形で演じられることになった。アルトーはその政治性が嫌だったわけではない。それまで一般的だった演劇ではなく人間の身体の運動(身振り仕ぐさ)を身体言語として「別様の感じ方」(ニーチェ)を演劇する可能性に魅了されていた。そしてまた身体言語の可能性は戦後大変多くの市街で立証されることになる。一九六八年パリの五月革命に象徴される学生デモ隊と機動隊の衝突。日本では翌一九六九年一月の東京大学安田講堂攻防戦。八〇年代の中国「天安門広場抗議行動」。昨今では香港市民によるデモ隊と治安当局との衝突激化、等々。後々そのような社会運動が身体言語を通してその可能性を実現させるとは思いもしていかなったアルトー。シュルレアリズム運動創設者の一員でありながら演劇の側に重きを置いて早くもシュルレアリズム運動とかけ離れていってしまったアルトー。ところがそこに逆説が発生する。アルトーによるこの場所移動〔価値転換〕についてドゥルーズとガタリはこう述べている。

「ただひとりの人間が、<隷属集団>と断絶することによって⦅すなわち、かれがそこから自分を排除したり、あるいはかれ自身が排除されている<隷属集団>と断絶することによって⦆、かれ自身が<分裂-流れ>として、あるいは<主体集団>として作動するといった事態が起ることがある。分裂者としてのアルトーが、そうである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.415~416」河出書房新社)

ちなみにアルトーの著作なしにドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス」はなかったといえる。
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なお、「感染=パンデミック」についてさらに。なぜこうもしつこく「脱コード化=公理系化」あるいは「平滑空間化=条理化」について何度も繰り返し述べておかねばならないか。次のセンテンスを理解するためにはまずマルクス(「資本論・第三部・第三篇・利潤率の傾向的低下の法則・P.347〜435」国民文庫、その他)についてわかっていなくては話にならない。その上でドゥルーズとガタリはこう述べる。

「マルクスは、<利潤率が傾向的に低下する>とともに、<剰余価値の絶対量が増大する>という二重の運動を相反傾向の法則と呼んだ。<種々の流れが脱コード化し脱土地化する>とともに、<それらの流れが再び激しく模造の再土地化をうける>という二重の運動が存在するということが、右の法則の系として考えられる。資本主義機械が、種々の流れから剰余価値を引きだすために、これらの流れを脱土地化し脱コード化して、これらを公理系化すればするほど、官僚機械や公安組織のような、資本主義の付属装置は、剰余価値の増大する部分を吸収しながら、ますます<再-土地化>をすすめることになるのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.49~50」河出書房新社)

ところで最もわかりやすい形態での「条里化」とはどのような作業なのか。

「例えば、古代帝国の大土木工事、都市や農村の給水工事であり、そこでは平行と見なされる区画により、水は『短冊状』に流される(条里化)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281」河出文庫)

しかし資本主義のグローバル化にともない事態はまったく変わった。次の長いセンテンスに目を通してみる。

「現代の公共工事は、古代帝国の大土木工事と同じ地位を持っていない。再生産に必要な時間と『搾取される』時間が時間として分離されなくなっている以上、どのようにして二つを区別できるのだろう。こう言ったとしても、決してマルクスの剰余価値の理論に反するものではない。なぜならまさにマルクスこそ、資本主義体制においてはこの剰余価値が《位置決定可能なものでなくなる》ことを示しているのだから。これこそがマルクスの根本的な成果なのである。だからこそマルクスは、機械はそれ自体、剰余価値を産み出すものとなり、資本の流通は、可変資本と普遍資本の区別を無効にするようになると予知しえた。このような新しい条件のもとでも、すべての労働は余剰労働であることに変わりはない。だが、余剰労働はもはや労働さえ必要としなくなってしまう。余剰労働、そして資本主義的組織の総体は、徐々に労働の物理的社会的概念に対応する時空の条理化とは無縁になってきている。むしろ、余剰労働そのものにおいて、かつての人間の疎外は『機械状隷属』によって置き換えられ、任意の労働とは独立に、剰余価値が供給されるようになっている(子供、退職者、失業者、テレビ視聴者など)。こうして使用者が被雇用者になる傾向があるだけでなく、資本主義は、労働の量に対して作用するよりも、複雑な質的過程に対して作用するのであり、この過程は、交通手段、都市のモデル、メディア、レジャー産業、知覚や感じ方、これらすべての記号系にかかわるものとなっている。あたかも、資本主義が比類ない完璧さに到らせた条理化の果てで、流動する資本が、人間の運命を左右することになる一種の平滑空間を、もう一度必然的に創造し構築しているかのようだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.281~282」河出文庫)

剰余価値の「位置決定不可能性」については次を参照。

「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)

さらに。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

また、マルクスのいう相対的剰余価値は、労働現場に新しく導入される機械-テクノロジーが高度化すればするほど人間労働から、というより逆に労働力商品を隷属させることに成功した機械-テクノロジーの側からどんどん延長され発生してくるものである。労働者は高度テクノロジーと《合体》されるやいなや相対的剰余価値を生み出し始める。さらに機械-テクノロジーがよりいっそう高度すればするほどドゥルーズとガタリが述べているように剰余価値分だけで世界が回転する。さらに労働力商品が「『機械状隷属』によって置き換えられ」てしまっている現在、人間はほぼ消滅しているのであり、人間はほとんど記号化されていると言える。それはどのようにして果たされるに至ったか。ニーチェはこういっている。

「われわれの行為、観念、感情、運動すらもーーーすくなくともそれらの一部分がーーーわれわれの意識にのぼってくるということは、長いあいだ人間を支配してきた恐るべき『やむなき必要』の結果なのだ。人間は、最も危険にさらされた動物として、救助や保護を《必要とした》、人間は《同類を必要とした》、人間は自分の危急を言い表し自分を分からせるすべを知らねばならなかった、ーーーこうしたすべてのことのために人間は何はおいてまず『意識』を必要とした、つまり自分に何が不足しているかを『知る』こと、自分がどんな気分でいるかを『知る』こと、自分が何を考えているかを『知る』ことが、必要であった。なぜなら、もう一度言うが、人間は一切の生あるものと同じく絶えず考えてはいる、がそれを知らないでいるからである。《意識にのぼって》くる思考は、その知られないでいる思考の極めて僅少の部分、いうならばその最も表面的な部分、最も粗悪な部分にすぎない。ーーーというのも、この意識された思考だけが、《言語をもって、すなわち伝達記号》ーーーこれで意識の素性そのものがあばきだされるがーーー《をもって営まれる》からである。要すれば、言葉の発達と意識の発達(理性の発達では《なく》、たんに理性の自意識化の発達)とは、手を携えてすすむ。付言すれば、人と人との間の橋渡しの役をはたすのは、ただたんに言葉だけではなく、眼差しや圧力や身振りもそうである。われわれ自身における感覚印象の意識化、それらの印象を固定することができ、またいわばこれをわれわれの外に表出する力は、これら印象をば記号を媒介にして《他人に》伝達する必要が増すにつれて増大した。記号を案出する人間は、同時に、いよいよ鋭く自分自身を意識する人間である。人間は、社会的動物としてはじめて、自分自身を意識するすべを覚えたのだ、ーーー人間は今もってそうやっているし、いよいよそうやってゆくのだ。ーーーお察しのとおり、私の考えは、こうだーーー意識は、もともと、人間の個的実存に属するものでなく、むしろ人間における共同体的かつ群畜的な本性に属している。従って理の当然として、意識はまた、共同体的かつ群畜的な効用に関する点でだけ、精妙な発達をとげてきた。また従って、われわれのひとりびとりは、自分自身をできるかぎり個的に《理解し》よう、『自己自身を知ろう』と、どんなに望んでも、意識にのぼってくるのはいつもただ他ならぬ自分における非個的なもの、すなわち自分における『平均的なもの』だけであるだろう、ーーーわれわれの思想そのものが、たえず、意識の性格によってーーー意識の内に君臨する『種族の守護霊』によってーーーいわば《多数決にかけられ》、群畜的遠近法に訳し戻される。われわれの行為は、根本において一つ一つみな比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的である、それには疑いの余地がない。それなのに、われわれがそれらを意識に翻訳するやいなや、《それらはもうそう見えなくなる》ーーーこれこそが《私》の解する真の現象論であり遠近法である。《動物的意識》の本性の然らしめるところ、当然つぎのような事態があらわれる。すなわち、われわれに意識されうる世界は表面的世界にして記号世界であるにすぎない、一般化された世界であり凡常化された世界にすぎない、ーーー意識されるものの一切は、意識されるそのことによって深みを失い、薄っぺらになり、比較的に愚劣となり、一般化され、記号に堕し、群畜的標識に《化する》。すべて意識化というものには、大きなしたたかな頽廃が、偽造が、皮相化と一般化が、結びついている」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五四・P.393~395」ちくま学芸文庫)

この運動は絶え間なく反復されるし今この時も休みなく反復されているわけだが、資本主義は条理化の作業を国家の役割に振り分ける。

「条理化は、資本主義の国家的な極、つまり資本の組織における現代の国家装置の役割の方に加担する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.282」河出文庫)

にもかかわらず今回の「感染=パンデミック」で明らかになったのは、国家が国家に与えられた役割をこっそりサボタージュしていたという疑えない事実である。日本では政権与党ならびに大手スポンサーに所有されている民放放送局のほとんどはアメリカ式新自由主義を押し進めた結果、社会福祉分野という必要不可欠な公理系をなぜか切り捨ててきた。ロシア革命前夜に時計の針を巻き戻したいかのようだ。少なくともアメリカでは第二次南北戦争論まで公然化してきた。自業自得といえる。一方、野党はこれまで「医療福祉、教育、社会保障の充実」を訴えることで資本主義を常に上手く稼働させるための公理系を支えてきた。参考として、たとえばフロイトは夢について、無限に多様な諸要素から「選挙によって選ばれた」代表者からなる「民主制」に喩えている。

「夢はいろいろな連想の短縮された要約として姿を現わしているわけです。しかしそれがいかなる法則に従って行われるかはまだ解っていません。夢の諸要素は、いわば選挙によって選ばれた大衆の代表者たちのようなものです。われわれが精神分析に技法によって手に入れたものは、夢に置き換えられ、その中に夢の心的価値が見出され、しかしもはや夢の持つ奇怪な特色、異様さ、混乱を示してはいないところのものなのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.208」新潮文庫)

さらにニーチェは、労働者が自分で自分自身を搾取されるがままにまかせ、何一つ学ぼうとしなくなれば「いよいよもって私たちはもう駄目だ」、と深刻なニヒリズムの蔓延がもたらす社会的崩壊の兆候に危機感を表明している。

「労働者階級が、教養と徳をつうじて現今では容易に私たちを凌駕することができると、ひとたび看破するなら、そのときには私たちはもう駄目だ。しかしこうしたことが生じないなら、いよいよもって私たちはもう駄目だ」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一八七・P.172」ちくま学芸文庫)

また日本では昭和に入って徐々にに勢力を増してきた軍部ファシズムに抗し、批評の自由を確保するため、自由主義批評家と目されていた小林秀雄が共産党壊滅後にあえて左翼陣営に肩入れし「唯物論研究会」に所属したのは有名である。もっとも、その頃の小林秀雄はマルクスと「マルクス主義者」との違い、そして「プロレタリア文学」と「マルクス主義文学」との違いなどによく通じていた。

「マルクシズム文学が輸入されるに至って、作家等の日常生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった。輸入されたものは文学的技法ではなく、社会的思想であったという事は、言って見れば当り前の事のようだが、作家の個人的技法のうちに解消し難い絶対的な普遍的な姿で、思想というものが文壇に輸入されたという事は、わが国近代小説が遭遇した新事件だったのであって、この事件の新しさということを置いて、つづいて起った文学界の混乱を説明し難いのである。

思想が各作家の独特な解釈を許さぬ絶対的な相を帯びていた時、として実はこれこそ社会化した思想の本来の姿なのだが、新興文学者等はその斬新な姿に酔わざるを得なかった。当然批評の活動は作品を凌(しの)いで、創作指導の座に坐った。この時ほど作家たちが己れの肉体を無視した事もなかった。彼らは、思想の内面化や肉体化を忘れたのではない。内面化したり肉体化したりするのにはあんまり非情にすぎる思想の姿に酔ったのであって、この陶酔のなかったところにこの文学運動の意義があったはずはない。

彼らは単に既成作家や既成文壇を無視したばかりではない、自分らのなかにあらゆる既成的要素を無視した。これは結局、同じ行為であるが、こういう行為に際して、人は自分の表情を読み取り難い。しかし彼らは読み取り難いのを気に掛けなかった、掛けたら彼らに行為は不可能であった。彼らは誤っていたか、いなかったか。彼らは為(な)さざるを得なかった事を為(な)したまでだ。

自然主義作家等がその反抗者等とともに、全力をあげて観察し解釈し表現した日常生活が、新しく現れた作家等によって否定されたのは、彼らが従来の日常生活を失ったからではなく、彼らの思想が、生活の概念を、日常性というものから歴史性というものに改変する事を教えたからである。彼らは改変された概念を通じてすべてのものを眺めた。眺める事は取捨する事であり、観察とは即ち清算を意味した。彼らは自己省察を忘れたのではない。省察に際して事ごとに小市民性を曝露するが如き自己は、省察するに足りなかったのである。感情も感覚も教養もこれを新しく発明しようとする冒険乃至は欺瞞(ぎまん)を、清算という合言葉が隠した。

マルクシズム作家たちが、己れの観念的焦燥に気が附かなかった、あるいは気が附きたがらなかったのは、この主義が精妙な実証主義的思想に立っている事を信じたがためであり、その文学理論の政治政策化を疑わなかったのは、この主義がまた一方実践上の規範として文学の政治的指導権を主張していたがためだ。ここにプロレタリア文学とマルクシズム文学とは違うという名論さえ起った所以のものがあったのは周知の事である。

彼らの信じた小説手法はリアリズムであった。評家らは、彼らのリアリズムがいわゆるブルジョア・リアリズムと異なる、いや異ならなくてはならぬ所以を力説したが、作家等には当然な事だが、人間学的人間と社会学的人間と区別して描く事はおろか、そんなものが見えたはずもなかった。在来のリアリズムに反抗した大正期の作家たちが、苦心経営した小説作法は悉(ことごと)く無視され、近代リアリズム誕生以来の手法であった心理的手法すら、殆ど利用されない作品が氾濫(はんらん)した。農村を工場をと題材が豊富になるにつれて、手法は貧弱になった。ここに作家実践上の公式主義を排すという名説が現れたのも周知の事だ。

しかしここにどうしても忘れてはならない事がある。逆説的に聞えようと、これは本当の事だと僕は思っているが、それは彼らは自ら非難するに至った、その公式主義によってこそ生きたのだという事だ。理論は本来公式的なものである、思想は普遍的な性格を持っていない時、社会に勢力をかち得る事は出来ないのである。この性格を信じたからこそ彼らは生きたのだ。この本来の性格を持った思想というわが文壇空前の輸入品を一手に引受けて、彼らの得たところはまことに貴重であって、これも公式主義がどうのこうのというような詰らぬ問題ではないのである。

なるほど彼らの作品には、後世に残るような傑作は一つもなかったかも知れない、また彼らの小説に多く登場したものは架空的人間の群れだったかも知れない。しかしこれは思想によって歪曲され、理論によって誇張された結果であって、決して個人的趣味による失敗乃至は成功の結果ではないのであった。

わが国の自然主義小説はブルジョア文学というより封建主義的文学であり、西洋の自然主義文学の一流品が、その限界に時代性を持っていたのに反して、わが国の私小説の傑作は個人の明瞭な顔立ちを示している。彼らが抹殺したものはこの顔立ちであった。思想の力による純化がマルクシズム文学全般の仕事の上に現れている事を誰が否定し得ようか。彼らが思想の力によって文士気質なるものを征服した事に比べれば、作中人物の趣味や癖が生き生きと描けなかった無力なぞは大した事ではないのである」(小林秀雄「私小説論」『小林秀雄初期文芸論集・P.386〜388』)

しかし小林秀雄は、なぜ、いつ頃から、日本の文芸批評を守るためには左翼陣営を守らなくてはならないという危機感を持ったのか。

「私たちは今日に至るまで、批評の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。こういう状態にあった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである。導入それ自体には何ら偶然な事情はなかったとしても、これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。てんで用意というものがなかったのだ」(小林秀雄「文学界の混乱」『小林秀雄初期文芸論集・P.313』岩波文庫)

「感染=パンデミック」にも同じことが言える。「てんで用意というものがなかった」と。急拡大する日本ファシズムから自由な文芸批評を守るためには右翼か左翼かという立場など問題外なのだ。

「社会的立場から小説を読んで、左翼であるか右翼であるかばかりしか見えぬならば、読まぬ方がましである。文学的立場から小説を読んで心理派か理智派かと心配になるようなら、読むだけ無益である」(小林秀雄「年末感想」『小林秀雄初期文芸論集・P.272』岩波文庫)

重要なのは文学だけでなく、「感染=パンデミック」もまた、無限に多様な意匠で出現せずにはいないことだろう。それをそのままの生き生きとした姿で捉えるためには思い込みで一杯の主観がたった一つだけあればそれでよいわけなどどこにもない。むしろニーチェはいう。

「《主観を一つだけ》想定する必要はおそらくあるまい。おそらく多数の主観を想定しても同じくさしつかえあるまい。それら諸主観の協調や闘争が私たちの思考や総じて私たちの意識の根底にあるのかもしれない。支配権をにぎっている『諸細胞』の一種の《貴族政治》?もちろん、互いに統治することに馴れていて、命令することをこころえている同類のものの間での貴族政治?

肉体を信ずることは『霊魂』を信ずることよりもいっそう基本的である。すなわち後者は、肉体の断末魔を非科学的に考察することから発生したものである。

《肉体》と生理学とに出発点をとること。なぜか?ーーー私たちは、私たちの主観という統一がいかなる種類のものであるか、つまり、それは一つの共同体の頂点をしめる統治者である(『霊魂』や『生命力』ではなく)ということを、同じく、この統治者が、被統治者に、また、個々のものと同時に全体を可能ならしめる階序や分業の諸条件に依存しているということを、正しく表象することができるからである。生ける統一は不断に生滅するということ、『主観』は永遠的なものではないということに関しても同様である。また、闘争は命令と服従のうちにもあらわれており、権力の限界規定が流動的であることは生に属しているということに関しても同様である。共同体の個々の作業や混乱すらに関して統治者がおちいっている或る《無知》は、統治がおこなわれる諸条件のうちの一つである。要するに、私たちは、《知識の欠如》、大まかな見方、単純化し偽るはたらき、遠近法的なものに対しても、一つの評価を獲得する。しかし最も重要なのは、私たちが、支配者とその被支配者とは《同種のもの》であり、すべて感情し、意欲し、思考すると解するということーーーまた、私たちが肉体のうちに運動をみとめたり推測したりするいたるところで、その運動に属する主体的な、不可視的な生命を推論しくわえることを学んでいるということである。運動は肉眼にみえる一つの象徴的記号であり、それは、何ものかが感情され、意欲され、思考されているということを暗示する。

主観が主観に《関して》直接問いたずねること、また精神のあらゆる自己反省は、危険なことであるが、その危険は、おのれを、《偽って》解釈することがその活動にとって有用であり重要であるかもしれないという点にある。それゆえ私たちは肉体に問いたずねるのであり、鋭くされた感官の証言を拒絶する。言ってみれば、隷属者たち自身が私たちと交わりをむすぶにいたりうるかどうかを、こころみてみるのである」(ニーチェ「権力への意志・下巻・四九〇〜四九二・P.34~36」ちくま学芸文庫)

新自由主義ファシズムだけではいずれ資本主義は自滅する。だから与党だけでなく多様な複数政党による「脱コード化=公理系化」あるいは「平滑空間化=条理化」が実現されてきた。ところが今回おかしなことに、野党とその支持者層はとりわけ公理系を支えてきた側であるにもかかわらず今回の「感染=パンデミック」で無惨にも最も手酷いダメージを受けている。なぜこういうことになるのか。それを現代経済学は説明しようとしない。あるいはしようにもできない。グローバル化による「世界共同体」の出現。それをニーチェは次のように予言していた。

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)

この文章の中で「《一つ》の意味をもった多様体」とある。それは無数の権力意志が闘争し合いせめぎ合う場であり、多様性としての身体であり、常に動的なこの身体が世界である。「無数の権力意志が闘争し合いせめぎ合う場」だとはいえ、ダーウィニズムのいう「生存競争」とはまるで違っている点をはっきりさせておこう。

「自然のうちに《支配し》ているものは、窮迫状況ではなくして、過剰であり、浪費である。しかも馬鹿馬鹿しいまでの過剰浪費であるからだ。生存競争といったものなぞは、一個の《例外》にすぎない、生意志の一時的な制限状態にすぎない。ほかならぬ生の意志であるところの権力への意志のまにまに、大小の闘争が、いたるところで、優越を競い、成長と拡大を競い、権力を競って、おこなわれているのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・三五九・P.384」ちくま学芸文庫)

ちなみに純然たる自然界の循環における「生存競争」は次のようなものだ。

「動物の生においては、主人とその命令下にある奴隷という関係を導入するものはなにもなく、また一方に独立を、そして他方に従属をうち立てるようなものもなにもない。動物たちはお互いに食べ合うのであるから、その力は同等ではないけれども、彼らの間にはこうした量的な差異以外のものはけっしてないのである。ライオンは百獣の王ではない。それは水流の動きの内で、比較的弱小な他の波たちを打ち倒すより高い波に過ぎない。ある動物が他の動物を食べるということは、根本的な情況を変えるものではまずないのである。全て動物は、《世界の内にちょうど水の中に水があるように》存在している」(バタイユ「宗教の理論・P.23」ちくま学芸文庫)

だから動植物の世界では「生存競争」というものは《ない》。ただ永遠回帰する循環だけがある。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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