白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

夜の居場所4

2020年04月22日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホはその書簡に見られるようにたいへん几帳面な一個の感受性だった。アルトーがいうように「一個の感受性」であり、そうであるほか生きることができなかった人間の一人である。ゴッホが取り扱い方についてさんざん考えあぐね、取り憑かれていたとさえ言える「強迫観念」についてアルトーは述べる。

「ヴァン・ゴッホはすべての画家たちのなかで、最も深く、しかも緯糸が見えるまで、しかしちょうど虱でもとるようにして、われわれからある強迫観念を剥ぎとった画家である」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.163』河出文庫)

抑圧ということはほとんど問題でないように思う。性的欲望などなおさら関係ない。ゴッホは性的欲望から遥かに遠いところにいた。それが社会を激怒させた。社会と暗黙の共犯関係を結ぶことを明確に拒否しているゴッホの絵画。もっとも、実際のところ、体力的に自信のあるときにしかゴッホの絵画と向き合うことはできない。ゴッホとの遭遇は一定程度の体力を要する。無理やり向き合おうとするとたちまち疲弊してしまうことは確かだ。そしてその意味でもまたゴッホは社会を激怒させてしまう。社会という全体主義的複合体はゴッホやアルトーのような「他者」と出くわすたびに不安に駆られる。そして社会的に抹殺してしまう。社会的に抹殺するのであって、古代ギリシアのようにただ爽快かつ直截に処刑しただちに決済を済ませるのではなく、生かしたまま死ぬまで社会的な制裁を与え続けるのだ。恥と罪の意識のどん底を這い回らせて、それを上から眺め下ろして自分自身の悲惨さを覆い隠すのに役立てる。「他者」の出現はいつも社会を全体主義的に結合させる方向へ働く。ゴッホ、ニーチェ、アルトーといった悲劇を通して。彼ら「他者」の出現はほとんどいつも、市民社会を全体主義化する。社会の共犯者になることを拒否した罪で、その罰として、ばらばらに切断されたゴッホの身体は海へ遺棄されたということができる。目に見えないばらばら殺人があったのだ。しかし。

「事物を別のものたらしめる強迫観念、とうとう《他者》の罪という危険をあえて冒そうとする強迫観念だ、そして大地は液状の海の色彩をもつことはできないのだが、それにもかかわらず、まさに液状の海のように、ヴァン・ゴッホはその大地を続けて草取りの熊手でするように投げつける」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.163』河出文庫)

細切れにされ海へ不法投棄されたはずのゴッホはまさしくその海から還ってきた。ゴッホは自分で自分自身に対して「絵を描く」《欲望を実現する》という約束を果たした。この約束はディオニュソス的約束と余りにも似ている。

「寸断されたディオニュソスは生の《約束》である。それは永遠に再生し、破壊から立ち帰ってくるであろう」(ニーチェ「権力への意志・下巻・一〇五二・P528」ちくま学芸文庫)

市民社会の持つ性的欲望をゴッホは持ち合わせていなかった。性欲がなかったのではなく、市民社会が絶えず要求してくる性的欲望の装置の通りに動かなかったというに過ぎない。ほとんど素通りして済ませていた。社会規範というものの嫉妬深さは想像を絶する。とりわけ社会規範として装置化された性的欲望というものは、素通りされたと見るやいなや殺人的拷問意志を激発させる。そしてゴッホは、そしてアルトーもまた、自殺へ追い込まれた。十九世紀末すでに性的欲望の装置は十分に起動していた。なぜ起動していたといえるのか。第一次世界大戦を経て突如として増殖したナチズムの出現がそれを証拠立てる。王権時代の「血と法による支配」と近代的な「管理と経営による支配」とのどちらをも欲する第三勢力としてのナチスドイツ。フーコーはいう。

「ナチズムは、おそらく、血の幻想と規律的権力の激発との最も素朴にして最も狡猾なーーーそしてこの二つの様相は相関的だったがーーー結合であった。社会の優生学的再編成は、無際限な国家管理の名にかくれてそれがもたらす<極小権力>の拡張・強化と相まって、至高の血の夢幻的昂揚を伴っていた、それが内包していたものは、民族的規模での他者のシステマティックな絶滅であると同時に、自らを全的な生贄に捧げる危険でもあった。そして歴史の望んだところは、ヒットラーの性政策は全く愚劣な実践に終わったが、血の神話のほうは、さし当たり人間が記憶し得る最大の虐殺に変貌した、ということであった」(フーコー「知への意志・P.188~189」新潮社)

ドゥルーズとガタリはこの事情を次のように述べる。まずその前提となったドイツ国民のニヒリズムの消息について。

「ファシズムの場合、国家は全体主義的というよりも、はるかに《自滅的》だということ、ファシズムには現実と化したニヒリズムがある。全体主義国家が可能なかぎりあらゆる逃走線をふさごうとするのに対して、ファシズムのほうは強度の逃走線上で成立し、この逃走線を純然たる破壊と破壊の線に変えてしまう」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.141」河出文庫)

ニヒリズムがもたらす危険についてニーチェはドイツの中で、ドイツ国民に向けて、あれほど警告していたにもかかわらずドイツはナチズムという形で「現実と化したニヒリズム」を出現させる。そして何が起こったか。

「奇妙なことに、自分たちが何をもたらすのか、ナチスは最初からドイツ国民に告げていた。祝宴と死をもたらすというのだ。しかもこの死には、ナチス自身の死も、国民の死も含まれている。ナチスは、自分たちは滅びるだろうと考えていた。しかし、どのみち自分たちの企てはくりかえされ、全ヨーロッパ、全世界、全惑星におよぶだろうとも考えていた。人々は歓呼の声をあげた。理解できなかったからではなく、他人の死をともなうこの死を欲していたからである。これは、一回ごとにすべてを疑問に付し、自分の死とひきかえに他人の死に賭ける、そしてすべてを『破壊測定器』によって計測しようとする意志である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.141~142」河出文庫)

そしてフロイト。精神分析という方法は身体の器官-器質を医学する「神経-精神医学」とはまた別のものだ。もっとも、その初期には両者はまだはっきり分割されていなかった。フロイトが位置しているのは両者が「はっきり一線を画した時」に当たる。というのは、両者の境界線を明確化したのはフロイト自身だからだ。ナチズムの正反対の極でフロイトは「法と象徴的秩序と主権のシステム」と性的欲望の装置とを《接続した》といえる。

「正反対の極に、今問題にしている十九世紀末以来、性的欲望のテーマ系を、法と象徴的秩序と主権のシステムにもう一度書き込もうとする努力を追うことができる。まさに精神分析の政治的名誉であったことーーー少なくとも精神分析において整合的であり得たものの名誉であるがーーーそれは、性的名誉の日常性を管理し経営しようと企てていたこれら権力メカニズムの内部にあって、取り返しのつかぬ形で増殖し得るものに疑いをかけたことである(しかもそれは精神分析の誕生した時からであり、つまり病的変質という神経-精神医学とはっきり一線を画した時からそうであった)」(フーコー「知への意志・P.189」新潮社)

フロイト自身に悪意はない。むしろ性欲の復権を目指した。それは世界中のどこの誰にでもある根本的欲望なのであって否定されるべきものではまったくなく、むしろ突如として湧き起こってきた「血あるいは血統主義」を根拠化することで発生する人種差別や階級社会化への抵抗として、性欲の全的承認を求めたのである。その意味で反ファシズムではあった。ところがフロイトの作品群を見ると、精神分析的思考のための道具立てとして取り集められたもの、とりわけ<性>の分析についてのそれらは、よく知られた論文でいうと「トーテムとタブー」において多用されているように「法、死、血、主権」といった裁断装置をなしている。しかしそれでは権力装置としての性的欲望の分析は上手くいかないとフーコーはいう。なぜだろうか。

「性的欲望の装置は、それと同時代のものである権力の技術を出発点にして思考しなければならない」(フーコー「知への意志・P.189」新潮社)

もっともだと思う。十九世紀いっぱいを要して国家は性的欲望を「管理と経営による支配」のための装置へと置き換えた。にもかかわらずなぜ今さら「血と法による支配」なのか。逆流ではないかとフーコーは問うている。むき出しの産児制限や産児制限の抑制はただちに労働力商品の生産調整に直結しているため見た目にもわかりやすい。生殖行為に関する経済的国家管理である。だが問題は、生殖行為だけではなく、装置としての性的欲望、なのだ。「膣内」射精が問題なのではない。国家はまさしく「膣外」射精という《倒錯》にこっそり重心を移動させつつ途方もない注意深さで社会管理の網目を張り巡らせたのである。性的欲望はただ単なる生殖装置ではない。逆に生殖装置としての性欲など取るに足らなくなるほど労働力商品は大量生産されつつある。合法的婚姻制度だけで十分なのである。以後、国家はさらに考えた。「膣外」射精という《倒錯》をよりいっそう有効活用する方法はないかと。第一に女性のヒステリーの活用。子供という未来の労働力商品生産調整のための繁殖力の利用。家庭という制度の根拠として女性を家庭内に拘束すること。教育的道徳的責任の名において子供という未来の労働力商品を確実に安全保証する義務の打刻。第二に子供の自慰の教育的有効活用。自慰の管理によってなされる他の諸活動への積極的参加指導。多種多様な趣味への意志。スポーツへの意志。学問への意志。第三にフェティシズム。膣外射精の商品化として様々なフェチ商品の大量生産と大量消費とを実現させること。それに伴う資本増殖。たとえば一般的民間企業や教育機関で採用されている制服制度は最も資本化しやすいフェチ制度でもある。大量購入がいつも前提されているからである。また衣服、なかでもお洒落なファッションは、あくまで制服制度を前提として、そこからのちょっとした逸脱を実現することで始めてお洒落に見えるものだ(個性の発生)。それは「個性」の名において高額商品(ブランドの設立)を可能にした。さらに最も単純な次元においても言えることは「衣服は隠す」ということである。隠すことによってまさしくそこに視線は集中する。するとそこにこそ何か重要極まりないものが《あるに違いない》という錯覚が生まれる。と同時に隠されているものを見たいと欲する《欲望》がたちどころに生産される。第四に性倒錯の有効活用。ただ単なる膣外射精だけが目指されているわけではない。それだけなら女性の身体の活用による人口調整によって達成される。膣外射精はその目的がすでに他の行為へ置き換えられていることによって、いともたやすくありとあらゆる娯楽への接続を可能にする。今の日本でいえば「感染=パンデミック」の広域化を許した要因の一つは、意外でもなんでもなく膣外射精の娯楽への転化を押し進めた日本政府による性的欲望装置の活用ミスにほかならない。だから娯楽そのものには何らの責任もないのだ。さらに性倒錯の場合、よりいっそう緻密な分析を通して人間に関する科学技術=テクノロジーの高度な学問化を図ること。人間の身体の分析と集中的管理を通して行われるまだ明らかにされていない未知の領域の徹底的探査。要するに近代国家の出現とともに、近代国家の変容に寄り添いつつ、性的欲望の装置が目指してきたのは欲望の抑圧ではもはやなく、逆に《欲望の生産》とその《資本化》とである。だから国家の見る夢は性風俗の分析ではまったくない。あるとしてもそれはほんのごく一部に組み込まれている臨床的資料に過ぎない。問題はそうではなくて、国家のみならずありとあらゆる政治的権力が、性的あるいは性風俗的なものへ《語りかける》ことによって装置化された性の政治学なのだ。そしてこの政治学はいつもすでに絶え間なく《欲望》していると言わねばならない。

さて、なるほどフロイトは狂人たちを監禁から解き放った。その偉業は認めなければならない。しかし同時にそれ以上に余計なことをしてしまった。精神分析は言語を用いる。とりとめなく散乱する狂気の断片を断片のまま解放したわけではない。逆にそれら断片としての事実を事実そのままに認めることなく言語を用いて「統一する」という方法に打ち込んだ。事実は極めて断片的だというのにあえて「統一」を目指す行為。狂人たちの主体はフロイトの言語へ移動するとともにそこで収斂する。狂人たちは失われた主体でしかなくなる。代わって、狂人たちの主体はフロイトという人間の《言語において》統一され実現される。この倒錯。

「十九世紀の精神医学全体が実際にフロイトという一点へ集中する。彼こそ、医師-病人の組み合せの現実をまじめに受けいれた最初の人であり、その現実から自分の視線と研究とをそらせないことに同意し、その現実を多少とも他の医学的認識と釣合いを保っている一つの精神医学理論のなかに隠そうと努めなかった最初の人、この現実のもたらす結論をきわめて厳密にたどってきた最初の人である。フロイトは、保護院の他のすべての構造の欺瞞を解いた。すなわち、例の沈黙と視線をなくしてしまい、自分自身の光景をうつす鏡のなかでの、狂気じたいによる狂気の認識をやめさせ、有罪宣告をおこなう審判を中止させた。だがそのかわりに、医学的人間をつつむ構造を充分に活用して、その人間の魔術師としての力を増加し、その全能の力にほとんど神のごとき地位をあたえた。この医学的人間のうえに、つまり、完全な現存であるのに不在という形をとって、病人のかげで、そして病人のうえに目をつかむようにしているこの唯一の現存のうえに彼が移しかえたのは、狂人保護院の集団生活のなかにばらばらに区分けされてきた、すべての力であった。彼はそれらを、絶対的な<視線>、純粋でいつも表に出さぬ<沈黙>、言語活動にまで達しない審判によって罰し償う<審判者>に化した。彼はそうした力を鏡、そこでは狂気がほとんど不動の動きのなかで自分に夢中となり、そして自分から離れる鏡と化した。ピネルとテュークが監禁のなかで模様替えしてしまったすべての構造を、フロイトは医師のほうへ移動させたのである。彼ら《解放者たち》が実は病人を疎外してきた保護院の生活から、フロイトは病人を解きはなった。とはいっても、この生活のなかにあった根本的なものから解きはなったのではない。彼はその生活のさまざまの力を集めなおし、それらを最大限に緊張させて、医師の手のなかで結びあわせた。彼は精神分析という状況をつくりだしたのであり、そこでは天才的な一種の短絡的手段によって、錯乱(=疎外)がその解消になるのである。なぜなら、医師において、それは主体となるのだから」(フーコー「狂気の歴史・P.530」新潮社)

その意味でフロイトは、ナチスドイツの対極において、王権時代の「血と法による支配」と近代的な「管理と経営による支配」とを接続したのであり、ドイツの「総統」は全国民の「総統」になったが、他方、フロイトは<医師-狂人>の関係における全ヨーロッパの「総統」の地位を得たのである。だからフロイトの場合、一方に「善霊フロイト」が、他方に「悪霊フロイト」がいると揶揄される事態を招いたのだった。歴史的な「知の枠組み」の断層というものは目に見えないだけに関心が高く、なおかつ今も、かくも皮肉で逆説的な不可解さに満ちている。しかし謎解きは、ポワロでも金田一耕助でも夢野久作でも構わないし、マルクスでもニーチェでもフーコーでも構わないのだが、ずっと以前から続いている。これからもずっと。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM1

BGM2

BGM3

BGM4

BGM5

BGM6

BGM7

BGM8

BGM9

BGM10