ゴッホの絵画はどのようなものを素材として構成されているか。「サンレミ療養所周辺の麦畑」、「サンレミ療養所の窓から見た街の夜景」、「郵便配達員」、「自画像」、「ミレー作<種まく人>の模写」。たいへん身近なものばかりである。どの地方でも当たり前に見かけられた麦畑の「積み藁」。だがそれは「社会とのしがらみを絶った幾つもの積み藁」であって始めて出現することができる磁力を帯びた「積み藁」でなくてはならない。
「その生涯を通じて、社会とのしがらみを絶った幾つもの積み藁の上に、幾つもの酔っぱらった太陽をくるくると旋回させた者の奏でる、そして絶望して、腹に鉄砲の弾をくらったまま、血と酒で風景を溢れさせ、酸っぱい酒といたんだ酢の味のする、陽気であると同時に陰気な最低の乳剤に大地を浸さないわけにはいかなかった者の奏でる、死への威厳に満ちた伴奏」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.125』河出文庫)
アルトーのいう「社会とのしがらみを絶った幾つもの積み藁」はゴッホが精神病院送りにされると同時に発生する「積み藁」である。ゴッホは当時のフランス社会から排除された。排除はいつも両義的だ。言語のように、あるいは貨幣のように。排除はゴッホに特異性という烙印を焼き付ける。社会的には抹殺に等しい。ところが同時に特異性という自由自在性あるいは変容可能性を獲得させる。諸商品の無限の系列の中から唯一「貨幣のみ」が特権的位置をかちとったように。そしてこの動作は社会的な行為でなくては実現されない。その意味が社会的な規模で十分な広がりを獲得している場合にのみ可能な排除の両義性であるといえる。ゴッホとゴーギャンとの違いについて。
「芸術家は象徴を、神話を探究し、生の諸事物を神話にまで拡大しなければならないとゴーギャンは考えていたと私は思う」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.127』河出文庫)
その意味はゴーギャンの絵画を見れば単純にわかるものだ。タヒチへ「場所移動」しただけで、そこにすでにゴーギャンの考えていた「神話」=「楽園」が用意されていたからである。画家としてのポール・ゴーギャンならそれ以前から活躍していた。けれどもアルトーが述べているゴーギャンはタヒチへの「場所移動」を果たすと同時に出現したゴーギャンであり今や世界中の美術館を巡回し公開されているゴーギャンである。ゴーギャンが求めていた神話的世界はあくまでヨーロッパから見た「野蛮人」の楽園であり、古代の風習や儀式を残している土地への憧れが根底にあった。原始的世界への復帰こそがゴーギャンの原動力だったといえる。しかしゴーギャンがゴーギャンになったのは確かにタヒチへの「場所移動」を果たしてからかと問われればそうともいえない。絵画を見るとタヒチ移住以前の作品「モデル」では女性の肉を描いている。白人女性なのだが黒人女性に置き換えるとすでにタヒチ以後の画風とほぼ一致する。裸婦と言わないのは当然のことながらゴーギャンの関心が原始性という意味での「肉」をめぐって転回しているからにほかならない。さらに「海辺に立つ二人のブルターニュの少女」ではすでに想像上の海の青色はタヒチ以後に描かれた「マハナ・ノ・アトゥア」の海の青色と同じ筆致で描かれており波のしぶきもほとんど同様である。その意味でゴーギャンはタヒチ以前、すでにブルターニュでゴーギャンになったといえる。ちなみに小林秀雄はゴーギャンがゴーギャンに化けたのはブルターニュ時代だとして論じているが、もしそうだとすれば、タヒチ以前の作品「刈草を干す女たち」がまさしくそうであるかぎりで正しいといえるかもしれない。とはいえ、タヒチ以前/タヒチ以後という比較はあまり意味をなさないのではと思われるのである。なぜなら、アルトーが指摘しているように絵画における神話という問題を立てることが可能だったことに驚かされるからである。ニーチェによる「神の死」の宣言のただなかでなおあえて神話が可能だったと信じられていたことに驚く。むしろ「神の死」をひしひしと感じ取っていたがゆえにあえて神話へ向かったといえるのかもしれない。一方、ゴッホはゴーギャンの逆を向いた。
「ヴァン・ゴッホが、生の最も卑俗な諸事物から神話を推論する術を心得ていなければならないと考えていたのに対して」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.127』河出文庫)
なにやら難解な文章ではある。しかし難解に思えるのはヨーロッパ中心主義の中で書かれているためだ。日本ではむしろわかりやすい。日本で読むとかえってわかりやすいのは日本独特の制度である天皇制のためである。この事情は何も突飛な発想を述べているわけではない。たとえばアルトーのいうように「生の最も卑俗な諸事物から神話」へという態度変更を果たしてみせた、ゴッホのような方向性で描かれた作品が、絵画の世界ではよく知らないが、少なくとも文学の世界では書かれているからだ。たとえば中上健次作品、とりわけ「千年の愉楽」などはその最先端を行っていたようにおもえる。ゴッホもまた地理的な「場所移動」などほとんどしていない。ゴッホの場合、その絵画がゴッホを行くべきところに連れて行ったといえるわけで、ゴッホが世界を股にかけて「場所移動」したわけでは何らない。その素材は信じられないほど身近にあった。空気としてあった。この場合の「場所移動」は別次元への移動であり、ニーチェの言葉でいう価値転換を意味する。
ーーーーー
なお、「感染=パンデミック」についてさらに。フーコーから。
「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない」(フーコー「言葉と物・P.328」新潮社)
人間という言葉に惑わされていてはわからない。類としての人類ならそれこそ数千年あるいは数万年前から地球上にいた。が、人間というものが出現したのは近代社会とともに、である。そこから始めてニーチェ哲学あるいはニーチェ自身の言葉を用いると「反哲学」という思考の運動が絶大にものをいうようになる。
「われわれは、最近あらわれたばかりの人間というものの明白さによってすっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、人間が実存しなかった、それでもそれほど遠くない時代を、もはや思い出のなかにとどめてさえいないのだ。ニーチェが、切迫した出来事、<約束=威嚇>という形態のもとに、人間はやがて存在しなくなるであろうーーー超人のみが存在することになるのだと告げたとき、ニーチェの思考がわれわれにたいして持ちえた、そしてなお持ちつつある震撼力が、いまは理解されるであろう。それこそ、人間はすでにだいぶ以前から消滅してしまい、現に消滅しつづけており、人間についてのわれわれの近代の思考、人間にたいするわれわれの心づかい、われわれの人間主義(ユマニスム)というものは、轟きわたる人間の非在のうえで、のどかに眠りほうけているという一事を、<回帰>の哲学のなかで言おうとしたものにほかならない」(フーコー「言葉と物・P.342」新潮社)
ニーチェは「超人」を語った。しかし超人という偶像を立てたわけではない。超人というのは「人間」を乗り越える運動のことをいう。そのような意味で超人を創造したのでありなおかつ同時に末人をも創造している点に着目しなければならない。この「末人」がすなわち今の「人間」、二〇二〇年の「人間」である。
「《超人》の反対は《最後の人間》である。私は最後の人間を超人と同時に創造した」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二一二・P.651」ちくま学芸文庫)
さらに。
「最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。見よ。わたしはあなたがたにそういう《末人》を示そう。『愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とは何か』ーーーそう末人(まつじん)はたずねて、まばたきする。そのとき大地は小さくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。その種族は蚤(のみ)のように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。『われわれは幸福を発明した』ーーー末人はそう言って、まばたきする」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・五・P.24」中公文庫)
ニーチェ独特のユーモア。「まばたきする」。いい年齢をした大人(おとな)が。自信のなさの暴露。ニーチェはツァラトゥストラを通して様々なパロディを演じている。その意味で作品「ツァラトゥストラ」はニーチェ自身が幾つもの仮面を次々と取り換えていく仮面劇であるともいえる。そこで「末人」の身体はどのようなものとして規定されているだろうか。
「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)
また「ツァラトゥストラ」以降、何度も繰り返される言葉がある。
「一切の私たちの意識的な諸動機は表面的な諸現象である。そうした諸現象の背後には私たちの諸衝動や諸状態の《闘争》が、ーーー《支配権》を得んとする闘争があるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五六・P.152」ちくま学芸文庫)
要するに人間の身体は様々なウイルス-病原体を含めて無数の力が絶え間なく闘争している場そのものだと述べているわけだ。「末人」=「二〇二〇年の人間」の身体はそうした諸力の闘争が延々と演じられる一つの「共同体」であるといえる。しかし「共同体」としての「身体」とはどのような意味なのか。
「意欲する者は、命令者としての自己の愉悦感情に加えて、遂行し効果を挙げる道具の愉悦感情、隷属的な『下層意志』または『下層霊魂』ーーーわれわれの肉体は実に多数の霊魂の共同体にすぎないーーーの愉悦感情を享(たの)しむ。《その成果は私だ》。ここで起こることはあらゆるよく構成された幸福な共同体に起こることで、すなわち支配階級が共同体の諸成果と同一視されるわけである」(ニーチェ「善悪の彼岸・十九・P.37」岩波文庫)
この外部ではなく内部で「感染=パンデミック」は起こる。共同体を世界と捉えても地球と捉えても宇宙と捉えても、どのように置き換えてみても「感染=パンデミック」の爆発待機性は変わらないだろう。むしろより一層大規模化して回帰するだろうことは目に見えている。「世界共同体」としての《身体における》「感染=パンデミック」。それをこれほどまでに加速化させたのは言うまでもなく高度テクノロジーの世界化である。けれども、もし仮に資本主義の爆発的発展を止めたとしてもすでに達成されてしまった「世界共同体」あるいは「グローバル資本主義」が崩壊するわけではない。一時的恐慌を起こしているに過ぎない。資本主義は自動的かつ定期的に恐慌を発生させることで上手く作動しなくなった部分を自己破壊し同時にこの自己破壊を自己更新へと変換するのである。人間は置いてけぼりなのだが人間なしに資本主義もない。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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「その生涯を通じて、社会とのしがらみを絶った幾つもの積み藁の上に、幾つもの酔っぱらった太陽をくるくると旋回させた者の奏でる、そして絶望して、腹に鉄砲の弾をくらったまま、血と酒で風景を溢れさせ、酸っぱい酒といたんだ酢の味のする、陽気であると同時に陰気な最低の乳剤に大地を浸さないわけにはいかなかった者の奏でる、死への威厳に満ちた伴奏」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.125』河出文庫)
アルトーのいう「社会とのしがらみを絶った幾つもの積み藁」はゴッホが精神病院送りにされると同時に発生する「積み藁」である。ゴッホは当時のフランス社会から排除された。排除はいつも両義的だ。言語のように、あるいは貨幣のように。排除はゴッホに特異性という烙印を焼き付ける。社会的には抹殺に等しい。ところが同時に特異性という自由自在性あるいは変容可能性を獲得させる。諸商品の無限の系列の中から唯一「貨幣のみ」が特権的位置をかちとったように。そしてこの動作は社会的な行為でなくては実現されない。その意味が社会的な規模で十分な広がりを獲得している場合にのみ可能な排除の両義性であるといえる。ゴッホとゴーギャンとの違いについて。
「芸術家は象徴を、神話を探究し、生の諸事物を神話にまで拡大しなければならないとゴーギャンは考えていたと私は思う」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.127』河出文庫)
その意味はゴーギャンの絵画を見れば単純にわかるものだ。タヒチへ「場所移動」しただけで、そこにすでにゴーギャンの考えていた「神話」=「楽園」が用意されていたからである。画家としてのポール・ゴーギャンならそれ以前から活躍していた。けれどもアルトーが述べているゴーギャンはタヒチへの「場所移動」を果たすと同時に出現したゴーギャンであり今や世界中の美術館を巡回し公開されているゴーギャンである。ゴーギャンが求めていた神話的世界はあくまでヨーロッパから見た「野蛮人」の楽園であり、古代の風習や儀式を残している土地への憧れが根底にあった。原始的世界への復帰こそがゴーギャンの原動力だったといえる。しかしゴーギャンがゴーギャンになったのは確かにタヒチへの「場所移動」を果たしてからかと問われればそうともいえない。絵画を見るとタヒチ移住以前の作品「モデル」では女性の肉を描いている。白人女性なのだが黒人女性に置き換えるとすでにタヒチ以後の画風とほぼ一致する。裸婦と言わないのは当然のことながらゴーギャンの関心が原始性という意味での「肉」をめぐって転回しているからにほかならない。さらに「海辺に立つ二人のブルターニュの少女」ではすでに想像上の海の青色はタヒチ以後に描かれた「マハナ・ノ・アトゥア」の海の青色と同じ筆致で描かれており波のしぶきもほとんど同様である。その意味でゴーギャンはタヒチ以前、すでにブルターニュでゴーギャンになったといえる。ちなみに小林秀雄はゴーギャンがゴーギャンに化けたのはブルターニュ時代だとして論じているが、もしそうだとすれば、タヒチ以前の作品「刈草を干す女たち」がまさしくそうであるかぎりで正しいといえるかもしれない。とはいえ、タヒチ以前/タヒチ以後という比較はあまり意味をなさないのではと思われるのである。なぜなら、アルトーが指摘しているように絵画における神話という問題を立てることが可能だったことに驚かされるからである。ニーチェによる「神の死」の宣言のただなかでなおあえて神話が可能だったと信じられていたことに驚く。むしろ「神の死」をひしひしと感じ取っていたがゆえにあえて神話へ向かったといえるのかもしれない。一方、ゴッホはゴーギャンの逆を向いた。
「ヴァン・ゴッホが、生の最も卑俗な諸事物から神話を推論する術を心得ていなければならないと考えていたのに対して」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.127』河出文庫)
なにやら難解な文章ではある。しかし難解に思えるのはヨーロッパ中心主義の中で書かれているためだ。日本ではむしろわかりやすい。日本で読むとかえってわかりやすいのは日本独特の制度である天皇制のためである。この事情は何も突飛な発想を述べているわけではない。たとえばアルトーのいうように「生の最も卑俗な諸事物から神話」へという態度変更を果たしてみせた、ゴッホのような方向性で描かれた作品が、絵画の世界ではよく知らないが、少なくとも文学の世界では書かれているからだ。たとえば中上健次作品、とりわけ「千年の愉楽」などはその最先端を行っていたようにおもえる。ゴッホもまた地理的な「場所移動」などほとんどしていない。ゴッホの場合、その絵画がゴッホを行くべきところに連れて行ったといえるわけで、ゴッホが世界を股にかけて「場所移動」したわけでは何らない。その素材は信じられないほど身近にあった。空気としてあった。この場合の「場所移動」は別次元への移動であり、ニーチェの言葉でいう価値転換を意味する。
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なお、「感染=パンデミック」についてさらに。フーコーから。
「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない」(フーコー「言葉と物・P.328」新潮社)
人間という言葉に惑わされていてはわからない。類としての人類ならそれこそ数千年あるいは数万年前から地球上にいた。が、人間というものが出現したのは近代社会とともに、である。そこから始めてニーチェ哲学あるいはニーチェ自身の言葉を用いると「反哲学」という思考の運動が絶大にものをいうようになる。
「われわれは、最近あらわれたばかりの人間というものの明白さによってすっかり盲目にされてしまっているので、世界とその秩序と人々が実在し、人間が実存しなかった、それでもそれほど遠くない時代を、もはや思い出のなかにとどめてさえいないのだ。ニーチェが、切迫した出来事、<約束=威嚇>という形態のもとに、人間はやがて存在しなくなるであろうーーー超人のみが存在することになるのだと告げたとき、ニーチェの思考がわれわれにたいして持ちえた、そしてなお持ちつつある震撼力が、いまは理解されるであろう。それこそ、人間はすでにだいぶ以前から消滅してしまい、現に消滅しつづけており、人間についてのわれわれの近代の思考、人間にたいするわれわれの心づかい、われわれの人間主義(ユマニスム)というものは、轟きわたる人間の非在のうえで、のどかに眠りほうけているという一事を、<回帰>の哲学のなかで言おうとしたものにほかならない」(フーコー「言葉と物・P.342」新潮社)
ニーチェは「超人」を語った。しかし超人という偶像を立てたわけではない。超人というのは「人間」を乗り越える運動のことをいう。そのような意味で超人を創造したのでありなおかつ同時に末人をも創造している点に着目しなければならない。この「末人」がすなわち今の「人間」、二〇二〇年の「人間」である。
「《超人》の反対は《最後の人間》である。私は最後の人間を超人と同時に創造した」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二一二・P.651」ちくま学芸文庫)
さらに。
「最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう、もはや自分自身を軽蔑することのできない人間の時代が来るだろう。見よ。わたしはあなたがたにそういう《末人》を示そう。『愛とは何か。創造とは何か。憧れとは何か。星とは何か』ーーーそう末人(まつじん)はたずねて、まばたきする。そのとき大地は小さくなっている。そして、その上にいっさいのものを小さくする末人が飛びはねているのだ。その種族は蚤(のみ)のように根絶しがたい。末人は最も長く生きつづける。『われわれは幸福を発明した』ーーー末人はそう言って、まばたきする」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・ツァラトゥストラの序説・五・P.24」中公文庫)
ニーチェ独特のユーモア。「まばたきする」。いい年齢をした大人(おとな)が。自信のなさの暴露。ニーチェはツァラトゥストラを通して様々なパロディを演じている。その意味で作品「ツァラトゥストラ」はニーチェ自身が幾つもの仮面を次々と取り換えていく仮面劇であるともいえる。そこで「末人」の身体はどのようなものとして規定されているだろうか。
「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)
また「ツァラトゥストラ」以降、何度も繰り返される言葉がある。
「一切の私たちの意識的な諸動機は表面的な諸現象である。そうした諸現象の背後には私たちの諸衝動や諸状態の《闘争》が、ーーー《支配権》を得んとする闘争があるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・二五六・P.152」ちくま学芸文庫)
要するに人間の身体は様々なウイルス-病原体を含めて無数の力が絶え間なく闘争している場そのものだと述べているわけだ。「末人」=「二〇二〇年の人間」の身体はそうした諸力の闘争が延々と演じられる一つの「共同体」であるといえる。しかし「共同体」としての「身体」とはどのような意味なのか。
「意欲する者は、命令者としての自己の愉悦感情に加えて、遂行し効果を挙げる道具の愉悦感情、隷属的な『下層意志』または『下層霊魂』ーーーわれわれの肉体は実に多数の霊魂の共同体にすぎないーーーの愉悦感情を享(たの)しむ。《その成果は私だ》。ここで起こることはあらゆるよく構成された幸福な共同体に起こることで、すなわち支配階級が共同体の諸成果と同一視されるわけである」(ニーチェ「善悪の彼岸・十九・P.37」岩波文庫)
この外部ではなく内部で「感染=パンデミック」は起こる。共同体を世界と捉えても地球と捉えても宇宙と捉えても、どのように置き換えてみても「感染=パンデミック」の爆発待機性は変わらないだろう。むしろより一層大規模化して回帰するだろうことは目に見えている。「世界共同体」としての《身体における》「感染=パンデミック」。それをこれほどまでに加速化させたのは言うまでもなく高度テクノロジーの世界化である。けれども、もし仮に資本主義の爆発的発展を止めたとしてもすでに達成されてしまった「世界共同体」あるいは「グローバル資本主義」が崩壊するわけではない。一時的恐慌を起こしているに過ぎない。資本主義は自動的かつ定期的に恐慌を発生させることで上手く作動しなくなった部分を自己破壊し同時にこの自己破壊を自己更新へと変換するのである。人間は置いてけぼりなのだが人間なしに資本主義もない。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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