白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

延長される民主主義14

2020年04月01日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホのような絵画が出現すると社会はいつも或る種の騒乱状態を引き起こすことにしている。「他者」の出現に対して差し当たり排除するほか対処法を持っていない。

「いつもはつねに乱交パーティや、ミサや、赦禱や、あるいは聖別、憑依、女淫夢魔、男淫夢魔といったような他の祭儀の際に起こるように、それがヴァン・ゴッホに対して起こったのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.119』河出文庫)

それはしかし「他者」の出現を認めることなのだが同時にその否定でもある。否定はすでに認めてしまった後にでしか起こることができない。その意味で否定は常に自己嫌悪に似ている。そしてこの種の自己嫌悪は社会が暗黙の一致という形式において隠し通しておいたものの暴露を再否定することであり、したがってより一層徹底的かつ念入りに抹殺しようと欲する。

「つまり社会というやつが彼の身体のなかに入り込んだのだが、赦免され、聖別され、聖化され、憑依された この社会は、彼が手に入れたばかりであった超自然的な意識を彼のうちから消し去り、そして彼の内的な樹木の繊維のなかに黒いカラスたちが氾濫するように、最後の隆起によって彼を沈めると、それから彼に取って代わり、彼を殺したのである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.119』河出文庫)

社会規範の側からゴッホを公然と認めないかぎり、こういった「強迫神経症的」悪循環は延々と繰り返される。フロイトの言葉を借りれば次のようになるだろう。

「無意識のうちには、欲動活動から発する《反復強迫》の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症患者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う」(フロイト「無気味なもの」『フロイト著作集3・P.344』人文書院)

その意味でゴッホの絵画は現動的な魅力そのものであると同時に反復され続ける「無気味なもの」でもある。そして社会はどうしたか。まさしくゴッホ作品を芸術として承認し商品化し世界中を循環させて資本主義的公理系の内部に回収した。今では次のような状況が常態化している。

「芸術ですら、閉鎖環境をはなれて銀行がとりしきる開かれた回路に組み込まれてしまった」(ドゥルーズ「記号と事件・P.363」河出文庫)

ところがゴッホの絵画は相変わらず問いかけることを止めない。だから資本はゴッホの絵画に敵対するのでなくアプローチを変更し、社会の内部で管理することを徹底させる方向へ向かった。見ることを禁止してゴッホを監禁するのではなく逆に見せることで管理社会はゴッホの縁をマーケティングしその都度データバンク化する。この方法は個々の資本家や広告代理店が発明した新しいシステムではまったくない。事情は逆であって、これまでのように個々の資本家や大型広告代理店が資本主義を先導するのではなく、そのような方法の終わりの始まりを露わにするものだ。資本主義は自分を育てたものに対し、次の段階へ到達するやいなや育ての親を切り捨ててきたし、さらにいつも切り捨てる用意がある。それもまた資本主義が要請する公理系の役割である。資本主義は何一つ遮るもののない平滑空間を開くとともにその条里化を欲する。条里化は諸国家の役割である。資本主義は自己目的なのであって、資本家のためとか大型広告代理店のために立ち働いているわけでは何らない。資本主義は彼らを服従させているのであり当然のことながら彼らの下僕になるはずなどあるわけがない。資本主義が人間の下僕であるなど歴史上あったためしは一度もない。資本主義はすべての企業を延々と延長される地獄の試練へ叩き込む諸力の運動としてしか作動しない。しかし延々と延長される地獄の試練としてはいつもすでに作動することを忘れたことはない。世界中の企業経営者はいつも決定的決済の「引き延ばし」から利潤を上げ続けていくよう要請されている。カフカ作品ではこう描かれる。

「『引延しというのはですね』、と画家は言って、ぴったりした言葉を捜すように一瞬宙に目を浮かせた、『引延しとは、訴訟がいつまでも一番低い段階に引きとめられていることによって成立つのです。これをやりとげるためには、被告と援助者、とくに援助者が絶えず裁判所と個人的な接触を保つことが必要です。もう一度言うと、この場合は見せかけの無罪判決を獲得するときのような苦労はいりませんが、そのかわりはるかに大きな注意が必要です。訴訟から目を離してはならないし、担当の裁判官のもとに、特別な機会に行くのはむろんとして、たえず定期的に出かけていかねばならず、いろんな方法で彼の好意をつなぎとめておかねばならない。もしその裁判官を個人的に知らないんだったら、知人の裁判官を通して働きかけねばならないが、その場合でも直接の話し合いを断念してしまってはいけない。これらの点で努力を怠りさえしなければ、かなりの確かさで、訴訟は最初の段階から先へ進まないと信じていいのです。むろん訴訟が中止されたわけではない、しかし被告は自由の身と言ってもいいくらいに、有罪判決されるおそれがありません。見せかけの無罪にたいしこの引延しには、被告の将来が前者の場合ほど不安定でないという利点があります。突然に逮捕される驚きからは守られているし、たとえそのほかの情勢がきわめて思わしくない時期でも、あの見せかけの無罪獲得につきものの努力や緊張感を引き受けなくてはならぬのか、などと怖(おそ)れることもありません。もちろん引延しにも被告にとって決して過小評価できないある種の弱点があります。といってわたしはなにも、この場合は被告が自由になることは決してない、ということを考えているのではありません。本来の意味ではそれは見せかけの無罪の場合だって同じことですからね。それとは違う弱点です。というのは、少くとも見せかけでもその理由がなければ、訴訟は停止するわけにはいかないということです。従って、外にたいしては訴訟の中でいつも何かが起っていなければならない。つまりときおりさまざまな命令が出されなければならず、被告が訊問(じんもん)されたり、審理が行われたり、等々がなされていなければならぬわけです。そこで訴訟は絶えず、わざと人為的に局限された小さな範囲のなかで回転させられていくことになります。これはむろん被告にとってある種の不快感をともなうことですが、しかしあなたはそれではひどすぎると想像してはならんでしょう。すべては外面的なことにすぎないんですから。たとえば訊問はごく短いものですし、出かけてゆく時間や気持がなければ、断ってもかまわない。ある種の裁判官の場合には、長期にわたっての命令をあらかじめ一緒に決めておくことさえできるんです。本質的にはつまり、とにかく被告は被告なんだから、ときおり裁判官のもとに出頭するというにすぎません』」(カフカ「審判・P.223~225」新潮文庫)

ところでこの画家のアトリエは裁判所が画家に貸し出している裁判所敷地内の一部でしかないのだ。監禁社会と違い管理社会はすべてが接続された世界である。高度テクノロジーによって達成されたグローバル社会とはそういうことだ。すでに逃げ道は封鎖されているように見える。しかしカフカ作品の中では実にしばしば「女性、子供、動物」が登場してきて窮地におちいった主人公に或る種の逃走線を与える。さらに、確かな社会的権利が承認されてきた現代社会の「女性、子供、動物」といった用語よりも一九一〇年代のヨーロッパの社会状況に寄り添って「女、子ども、ごきぶり」といったほうがむしろ正しい。そうであってこそ逃走線を与えることも容易だったと考えられる。資本主義はあえて社会的承認を与えることによっていとも容易に「他者」から「他者性」を奪い取ってしまい資本主義的管理社会の中へ回収し、ニーチェのいうように人間を器用に馴致させ家畜化する技術にたけているからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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