一八九〇年作品「烏の群れ飛ぶ麦畑」についてさらに。
「ヴァン・ゴッホは、数センチメートルの高さに、《しかも画布の下の方から放ったように》、線の黒い傷痕に沿って、自分のカラスたちを、まるで黒い黴菌のように、自殺者である彼の脾臓から放ったのだが、そこではカラスたちの豊かな羽根の羽ばたきが、上からの息苦しさの脅威を地上の嵐の折り返し地点の上に重くのしかからせる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.124~125』河出文庫)
アルトーが「黴菌」と呼ぶもの。それはいつも「キリスト教」、「アメリカ」、そして「スターリンのロシア」と名指されているわけだが、どの時期のどの地域においてであれ共通している点が認められる。それは「体制」という《制度》を明確に名指していることだ。とりわけその「順応主義《として作動する》体制」について。
「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)
制度。それは歴史的にずっと同じだったわけではないということは誰でも知っている。時期により地域により様々だった。様々ではあっても無限に増殖する自由があったわけではない。慣習化され制度化されることを免れていたわけではない。どんなに奇妙に思える風習であれ風習がないよりはましだと考えられていた。
「《文明の最初の命題》。ーーー野蛮な民族にあっては、その意図するところが要するに風習であるように思われる一種の風習がある。綿密すぎる、そして根本において余計な規定がある(たとえばカムチャッカ人の間では、決して雪を靴から小刀で落とさず、決して炭を小刀でつき刺さず、決して鉄を火の中に入れない、という規定があるーーーそのような点に違反する者は、死ぬことになる!)。しかしこれらの規定は、風習が絶えず身近にあることや、風習に従えという不断の強制などを、絶え間なく意識させ、どんな風習でも風習がないよりはよい、という文明のはじまりの偉大な命題を強化するにいたる」(ニーチェ「曙光・十六・P.34」ちくま学芸文庫)
なぜなら人間はアナーキーなものに耐えることができないからである。歴史教科書に書かれている歴史的大事件とはまた別に歴史には断層というものがある。歴史的大事件であれば暗記すればこと足りる。けれども歴史的断層は研究しなければ見えてこない。フーコーはニーチェ読解を手がかりとして後者の方法、歴史的断層を明確化する方向を選択した。そしてその実在を発見することに成功した。或る程度の訓練が必要だったことは確かだ。その手法はフーコーがそもそも臨床医学の医学史に通じていたことと関係している。医学史ではたとえば伝染病の場合、伝染病の国家主義的管理に重点が置かれている。フランスでは一七七六年に王立医学協会が設立された。そのとき国家が先頭に立ってすべての国民に関する医学的データ収集が開始された。情報収集、集中管理、すなわち医療の国家化であるが、この極めて政治的な大事件について歴史教科書はその政治性について一切述べていない。しかしフーコーは述べられていないことによって逆にそこにある目に見えないもの、国家化された医療という政治的断層を発見した。ただ単に暗記するだけの歴史ではなく、人間の社会的文法を無意識的次元から起動させてしまうほど強力な歴史的断層というものはそのような点で出現する。ところで「言葉と物」は絵画の読解が冒頭に置かれている。ベラスケス「侍女たち」読解から始まる。差し当たり三箇所引いてみる。
「鏡の奥に映っているのはだれか、知らないふりをしなければならないし、その反映に反映そのものの実在とすれすれのところで問いかけなければならない」(フーコー「言葉と物・P.34」新潮社)
「鏡はといえば、それは、はげしい瞬間的なまったく思いもかけぬ動きによって、絵の手前に、われわれの目に見えないが人物たちにより見られているものを探しもとめ、それを架空の深さの底で、目に見えるがすべての視線にとってどうでもよいものにしようとつとめるわけだ。反映とそれが映しているものとのあいだに引かれる断乎とした点線は、光の横の流れを垂直に断ちきるのである。最後にーーーそしてこれこそこの鏡の第三の機能であるがーーー鏡は、鏡とおなじように奥の壁に開いている戸口と接している。その戸口もまた、その鈍い光が部屋のなかを輝かせていないとはいえ、あかるい長方形を截断しているのだ。それが彫りのある扉や曲線をえがく緞帳やいく段かの影によって、外部にむかって穿たれていなかったとしたら、それはたんなる金色の帯にすぎなかったであろう。だがそこで回廊がはじまっているのである。しかもその回廊は、闇のなかに姿を没するかわりに、部屋に射しこむことなく光がそこで渦まきながらとどまっている、黄色いきらめきのなかに消えていくのだ」(フーコー「言葉と物・P.34~35」新潮社)
「一同が前景で見つめているものを、暗がりのなかでありのままに示している反映。それは魔法でも使ったようにひとつひとつの視線に欠けているものを回復させるのである。画家の視線には、表象された彼の模造がそこ、すなわち絵のうえに写しとったモデルを。王の視線には、自分のいる場所からは知覚できない、画布のあの表面で完成されつつあるその肖像を。鑑賞者の視線には、自分がわりこんだようなかたちでその場所を占めている場面の実際の中心を。だがもしかすると、鏡のこのような雅量はいつわりのものかもしれない。あるいは鏡は、それがあらわしているのとおなじくらい、いやそれ以上のものを隠しているのかもしれない。王が王妃とともに君臨している場所は、同時に芸術家のいた場所であり、鑑賞者のいる場所でもあって、鏡の奥には、通りすぎる者の無名の顔とともにベラスケスの顔があらわれることもありうるだろうしーーー事実あらわれなければならないのだ。なぜならこの反映の機能は、絵にとって根本的に無縁のもの、すなわち、絵を編成した視線とそのために絵が展開されている視線とを、絵の内部に誘いこむことにあるからである。とはいえ芸術家と訪問者とは絵のなかに宿ることはできないわけで、それはちょうど、王が絵のなかに姿をあらわさないかぎりにおいて、鏡の奥に姿をあらわすのとおなじことであろう」(フーコー「言葉と物・P.39~40」新潮社)
鑑賞者も画家も絵画の正面に立つ。そうしなければ成立しない構造が取られている。だがそこ(鏡)には王と王妃とが描かれている。では画家は、したがって鑑賞者は、実際どこにいるのか。というより、古典主義時代すでに人間は出現したと同時にいつでも置き換え可能なものとして出現したのである。その上で次のように語ることができる。
「博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、なかんずく言語についての反省が文献学となり、存在と表象がそこに共通の場を見いだしたあの古典主義時代の《言説》が消えたとき、こうした考古学的変動の深層における運動のなかで、人間は、知にとっての客体であるとともに認識する主体でもある、その両義的立場をもってあらわれる。従順なる至上のもの、見られる鑑賞者としての人間は、『侍女たち』があらかじめ指定しておいたとはいえ、長いことそこから人間の実際の現前が排除されていた、あの<王>の場所に姿を見せるのだ。それはあたかも、ベラスケスの絵全体がそのほうを向いているのにもかかわらず、その絵が鏡の偶然によってちょうど無断侵入とでもいったように反映しているのにすぎぬ、あの空虚な空間のなかで、これまでそれぞれの交替とか相互排除とか絡みあいとか散光といったことが推測されてきたあらゆる形象(モデル、画家、王、鑑賞者)が、とつぜん、その知覚しえぬ舞踏を止め、充足したひとつの形象のなかに凝固し、ついに肉体をそなえた視線に表象の全空間が関係づけられることを要請するにいたったかのようなのである。こうした新しい現前のモチーフ、それに固有な様相、それを許す《エピステーメー》の独異な配置、その配置をとおして語と物と物の秩序のあいだに確立される新しい関係ーーーそうしたすべてがいまや光にさらされうる」(フーコー「言葉と物・P.331~332」新潮社)
とりわけ「富の分析が経済学とな」ることは世界中の多くの人々が知っている。具体的な名前を上げれば、アダム・スミスでありリカードである。そして剰余価値をめぐる理論としてはマルクスもまたリカード左派とほとんど変わらない。そもそも剰余価値学説はそれ以前から幾らもあった。しかしマルクスがスミスやリカードと違っているのは、どこまで行っても「経済学批判」としての態度を崩さないところにある。たとえば「労賃という形態が賃金体系の謎を覆い隠す」というのはマルクスの発見である。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
さらに。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
そうマルクスは述べる。とすれば貨幣形態の出現と同時に「資本論」冒頭をなす「価値形態論」もまた仮説として覆い隠されなくてはならない。そしてマルクスは「資本論」序文で執筆にあたってヘーゲル学徒の一人としてヘーゲル弁証法に則って忠実に書いたと述べている。ヘーゲルに忠実に書くとそうなるのである。或る結果が出されるやいなやその同じ結果が起源を覆い隠すというパラドックス。資本主義という諸力の運動はこのパラドックスの別名なのだ。そしてところどころでマルクスは、とりわけ初期マルクスは矛盾ということにこだわっていたわけだが、だからといってありとあらゆる矛盾の完全解消を目指しているわけではおそらくない。矛盾の解消を目指しつつ別次元へのいわゆる「命がけの飛躍」を狙っていた。或る矛盾を押しのけて平滑空間を開けばまさしくそこにまた別の矛盾が立ち上がる。資本主義は矛盾だらけの世界であって、ありとあらゆる矛盾を対立関係に置くことでそれを自分の動力へ変換し超越論的自己目的を押し進めていくことしか知らない。資本主義は自分自身の運動形態から次々と湧き起こってくる種々の矛盾を動力としているという点でパラドックスなのである。さらに、マルクス哲学が「経済学批判」だという理由は今述べたように結果が原因を「覆い隠す」機能にばかりあるわけではないのだが、とりあえず次のように指摘することは十分可能である。その意味で、まったく何ら批判のない無反省な現代経済学が問題なのだ、と。ニーチェのいう「原因と結果の取り違え」についてマルクスは気づいていた。ゆえに「かえってそれを物的におおい隠す」と述べることができた。ところが現代経済学は自分の言っていること、現代経済学が語る「理論」は、現代経済学自身が用いる言語によってその成立過程をすべて「覆い隠し」ているという本当の事情について何一つ答えようとしない。アルトーに戻ろう。
「それにもかかわらずタブロー全体は豊かである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.125』河出文庫)
というのは、ゴッホは社会規範と手を切ったからである。おそらくゴッホは社会全体を敵に回すことを止めたのだ。「体制」という「順応主義」とも手を切った。だから、自分の身体を拘束してやまない「黒い黴菌」を、あたかも《画布の下の方から放ったように》解放してやったのだ。
ーーーーー
さて、感染=パンデミックについてさらに。マスコミを筆頭として、いったい何が、あるいは誰が、何を、語っているのか。そしてその《語り》はけっして物語でないにもかかわらず、事実の反映であるにもかかわらず、あたかも《物語られている》かのように見えるのはなぜなのか。
「自分たちがその主人ではない語のなかでみずからの思考を表現し、その歴史的次元が自分たちには理解できぬ言葉の諸形態のなかに思考を宿らせながら、自分たちのはなしが自分たちに従属していると信じきっている人々は、自分たちがじつはそのはなしの要請にしたがっているということを知らないのである」(フーコー「言葉と物・P.318」新潮社)
知らないことについては知らないとしか言うことができない。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考・P.200」法政大学出版局)
さらに、「ウイルス=病原体」というものはそれ単体で生き延びていくことはできない。諸条件が整っているかぎりで生き延びることができる。だがしばしば「ウイルス=病原体」と語ることで、何か「それそのもの」がただ「それ単体」で生き延びあるいは増殖しているような錯覚におちいっていないだろうか。新型と呼ばれる「ウイルス=病原体」はいつも、生態系のバランスが崩れた部分から見出される。
「わたしが恐れるのは、意識という大昔からのシステムに、現代のテクノロジーが加わった点にあるのです。今日では日々効率を増していく機械が、交通のシステムが、飛行機と武器と医薬品と殺虫剤が、意識の目指すところを強力に推進している。目的と意識の側に、身体のバランスも社会のバランスも生態系のバランスも、すべて突き崩す力がついてしまった。ひとつの病理が進行中なのであります」(ベイトソン「精神の生態学・P.580」新思索社)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「ヴァン・ゴッホは、数センチメートルの高さに、《しかも画布の下の方から放ったように》、線の黒い傷痕に沿って、自分のカラスたちを、まるで黒い黴菌のように、自殺者である彼の脾臓から放ったのだが、そこではカラスたちの豊かな羽根の羽ばたきが、上からの息苦しさの脅威を地上の嵐の折り返し地点の上に重くのしかからせる」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.124~125』河出文庫)
アルトーが「黴菌」と呼ぶもの。それはいつも「キリスト教」、「アメリカ」、そして「スターリンのロシア」と名指されているわけだが、どの時期のどの地域においてであれ共通している点が認められる。それは「体制」という《制度》を明確に名指していることだ。とりわけその「順応主義《として作動する》体制」について。
「というのも、ヴァン・ゴッホの絵画が攻撃するのは、何らかの風俗習慣の順応主義ではなく、まさに体制の順応主義そのものだからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.112』河出文庫)
制度。それは歴史的にずっと同じだったわけではないということは誰でも知っている。時期により地域により様々だった。様々ではあっても無限に増殖する自由があったわけではない。慣習化され制度化されることを免れていたわけではない。どんなに奇妙に思える風習であれ風習がないよりはましだと考えられていた。
「《文明の最初の命題》。ーーー野蛮な民族にあっては、その意図するところが要するに風習であるように思われる一種の風習がある。綿密すぎる、そして根本において余計な規定がある(たとえばカムチャッカ人の間では、決して雪を靴から小刀で落とさず、決して炭を小刀でつき刺さず、決して鉄を火の中に入れない、という規定があるーーーそのような点に違反する者は、死ぬことになる!)。しかしこれらの規定は、風習が絶えず身近にあることや、風習に従えという不断の強制などを、絶え間なく意識させ、どんな風習でも風習がないよりはよい、という文明のはじまりの偉大な命題を強化するにいたる」(ニーチェ「曙光・十六・P.34」ちくま学芸文庫)
なぜなら人間はアナーキーなものに耐えることができないからである。歴史教科書に書かれている歴史的大事件とはまた別に歴史には断層というものがある。歴史的大事件であれば暗記すればこと足りる。けれども歴史的断層は研究しなければ見えてこない。フーコーはニーチェ読解を手がかりとして後者の方法、歴史的断層を明確化する方向を選択した。そしてその実在を発見することに成功した。或る程度の訓練が必要だったことは確かだ。その手法はフーコーがそもそも臨床医学の医学史に通じていたことと関係している。医学史ではたとえば伝染病の場合、伝染病の国家主義的管理に重点が置かれている。フランスでは一七七六年に王立医学協会が設立された。そのとき国家が先頭に立ってすべての国民に関する医学的データ収集が開始された。情報収集、集中管理、すなわち医療の国家化であるが、この極めて政治的な大事件について歴史教科書はその政治性について一切述べていない。しかしフーコーは述べられていないことによって逆にそこにある目に見えないもの、国家化された医療という政治的断層を発見した。ただ単に暗記するだけの歴史ではなく、人間の社会的文法を無意識的次元から起動させてしまうほど強力な歴史的断層というものはそのような点で出現する。ところで「言葉と物」は絵画の読解が冒頭に置かれている。ベラスケス「侍女たち」読解から始まる。差し当たり三箇所引いてみる。
「鏡の奥に映っているのはだれか、知らないふりをしなければならないし、その反映に反映そのものの実在とすれすれのところで問いかけなければならない」(フーコー「言葉と物・P.34」新潮社)
「鏡はといえば、それは、はげしい瞬間的なまったく思いもかけぬ動きによって、絵の手前に、われわれの目に見えないが人物たちにより見られているものを探しもとめ、それを架空の深さの底で、目に見えるがすべての視線にとってどうでもよいものにしようとつとめるわけだ。反映とそれが映しているものとのあいだに引かれる断乎とした点線は、光の横の流れを垂直に断ちきるのである。最後にーーーそしてこれこそこの鏡の第三の機能であるがーーー鏡は、鏡とおなじように奥の壁に開いている戸口と接している。その戸口もまた、その鈍い光が部屋のなかを輝かせていないとはいえ、あかるい長方形を截断しているのだ。それが彫りのある扉や曲線をえがく緞帳やいく段かの影によって、外部にむかって穿たれていなかったとしたら、それはたんなる金色の帯にすぎなかったであろう。だがそこで回廊がはじまっているのである。しかもその回廊は、闇のなかに姿を没するかわりに、部屋に射しこむことなく光がそこで渦まきながらとどまっている、黄色いきらめきのなかに消えていくのだ」(フーコー「言葉と物・P.34~35」新潮社)
「一同が前景で見つめているものを、暗がりのなかでありのままに示している反映。それは魔法でも使ったようにひとつひとつの視線に欠けているものを回復させるのである。画家の視線には、表象された彼の模造がそこ、すなわち絵のうえに写しとったモデルを。王の視線には、自分のいる場所からは知覚できない、画布のあの表面で完成されつつあるその肖像を。鑑賞者の視線には、自分がわりこんだようなかたちでその場所を占めている場面の実際の中心を。だがもしかすると、鏡のこのような雅量はいつわりのものかもしれない。あるいは鏡は、それがあらわしているのとおなじくらい、いやそれ以上のものを隠しているのかもしれない。王が王妃とともに君臨している場所は、同時に芸術家のいた場所であり、鑑賞者のいる場所でもあって、鏡の奥には、通りすぎる者の無名の顔とともにベラスケスの顔があらわれることもありうるだろうしーーー事実あらわれなければならないのだ。なぜならこの反映の機能は、絵にとって根本的に無縁のもの、すなわち、絵を編成した視線とそのために絵が展開されている視線とを、絵の内部に誘いこむことにあるからである。とはいえ芸術家と訪問者とは絵のなかに宿ることはできないわけで、それはちょうど、王が絵のなかに姿をあらわさないかぎりにおいて、鏡の奥に姿をあらわすのとおなじことであろう」(フーコー「言葉と物・P.39~40」新潮社)
鑑賞者も画家も絵画の正面に立つ。そうしなければ成立しない構造が取られている。だがそこ(鏡)には王と王妃とが描かれている。では画家は、したがって鑑賞者は、実際どこにいるのか。というより、古典主義時代すでに人間は出現したと同時にいつでも置き換え可能なものとして出現したのである。その上で次のように語ることができる。
「博物学が生物学となり、富の分析が経済学となり、なかんずく言語についての反省が文献学となり、存在と表象がそこに共通の場を見いだしたあの古典主義時代の《言説》が消えたとき、こうした考古学的変動の深層における運動のなかで、人間は、知にとっての客体であるとともに認識する主体でもある、その両義的立場をもってあらわれる。従順なる至上のもの、見られる鑑賞者としての人間は、『侍女たち』があらかじめ指定しておいたとはいえ、長いことそこから人間の実際の現前が排除されていた、あの<王>の場所に姿を見せるのだ。それはあたかも、ベラスケスの絵全体がそのほうを向いているのにもかかわらず、その絵が鏡の偶然によってちょうど無断侵入とでもいったように反映しているのにすぎぬ、あの空虚な空間のなかで、これまでそれぞれの交替とか相互排除とか絡みあいとか散光といったことが推測されてきたあらゆる形象(モデル、画家、王、鑑賞者)が、とつぜん、その知覚しえぬ舞踏を止め、充足したひとつの形象のなかに凝固し、ついに肉体をそなえた視線に表象の全空間が関係づけられることを要請するにいたったかのようなのである。こうした新しい現前のモチーフ、それに固有な様相、それを許す《エピステーメー》の独異な配置、その配置をとおして語と物と物の秩序のあいだに確立される新しい関係ーーーそうしたすべてがいまや光にさらされうる」(フーコー「言葉と物・P.331~332」新潮社)
とりわけ「富の分析が経済学とな」ることは世界中の多くの人々が知っている。具体的な名前を上げれば、アダム・スミスでありリカードである。そして剰余価値をめぐる理論としてはマルクスもまたリカード左派とほとんど変わらない。そもそも剰余価値学説はそれ以前から幾らもあった。しかしマルクスがスミスやリカードと違っているのは、どこまで行っても「経済学批判」としての態度を崩さないところにある。たとえば「労賃という形態が賃金体系の謎を覆い隠す」というのはマルクスの発見である。
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
さらに。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
そうマルクスは述べる。とすれば貨幣形態の出現と同時に「資本論」冒頭をなす「価値形態論」もまた仮説として覆い隠されなくてはならない。そしてマルクスは「資本論」序文で執筆にあたってヘーゲル学徒の一人としてヘーゲル弁証法に則って忠実に書いたと述べている。ヘーゲルに忠実に書くとそうなるのである。或る結果が出されるやいなやその同じ結果が起源を覆い隠すというパラドックス。資本主義という諸力の運動はこのパラドックスの別名なのだ。そしてところどころでマルクスは、とりわけ初期マルクスは矛盾ということにこだわっていたわけだが、だからといってありとあらゆる矛盾の完全解消を目指しているわけではおそらくない。矛盾の解消を目指しつつ別次元へのいわゆる「命がけの飛躍」を狙っていた。或る矛盾を押しのけて平滑空間を開けばまさしくそこにまた別の矛盾が立ち上がる。資本主義は矛盾だらけの世界であって、ありとあらゆる矛盾を対立関係に置くことでそれを自分の動力へ変換し超越論的自己目的を押し進めていくことしか知らない。資本主義は自分自身の運動形態から次々と湧き起こってくる種々の矛盾を動力としているという点でパラドックスなのである。さらに、マルクス哲学が「経済学批判」だという理由は今述べたように結果が原因を「覆い隠す」機能にばかりあるわけではないのだが、とりあえず次のように指摘することは十分可能である。その意味で、まったく何ら批判のない無反省な現代経済学が問題なのだ、と。ニーチェのいう「原因と結果の取り違え」についてマルクスは気づいていた。ゆえに「かえってそれを物的におおい隠す」と述べることができた。ところが現代経済学は自分の言っていること、現代経済学が語る「理論」は、現代経済学自身が用いる言語によってその成立過程をすべて「覆い隠し」ているという本当の事情について何一つ答えようとしない。アルトーに戻ろう。
「それにもかかわらずタブロー全体は豊かである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.125』河出文庫)
というのは、ゴッホは社会規範と手を切ったからである。おそらくゴッホは社会全体を敵に回すことを止めたのだ。「体制」という「順応主義」とも手を切った。だから、自分の身体を拘束してやまない「黒い黴菌」を、あたかも《画布の下の方から放ったように》解放してやったのだ。
ーーーーー
さて、感染=パンデミックについてさらに。マスコミを筆頭として、いったい何が、あるいは誰が、何を、語っているのか。そしてその《語り》はけっして物語でないにもかかわらず、事実の反映であるにもかかわらず、あたかも《物語られている》かのように見えるのはなぜなのか。
「自分たちがその主人ではない語のなかでみずからの思考を表現し、その歴史的次元が自分たちには理解できぬ言葉の諸形態のなかに思考を宿らせながら、自分たちのはなしが自分たちに従属していると信じきっている人々は、自分たちがじつはそのはなしの要請にしたがっているということを知らないのである」(フーコー「言葉と物・P.318」新潮社)
知らないことについては知らないとしか言うことができない。
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(ヴィトゲンシュタイン「論理哲学論考・P.200」法政大学出版局)
さらに、「ウイルス=病原体」というものはそれ単体で生き延びていくことはできない。諸条件が整っているかぎりで生き延びることができる。だがしばしば「ウイルス=病原体」と語ることで、何か「それそのもの」がただ「それ単体」で生き延びあるいは増殖しているような錯覚におちいっていないだろうか。新型と呼ばれる「ウイルス=病原体」はいつも、生態系のバランスが崩れた部分から見出される。
「わたしが恐れるのは、意識という大昔からのシステムに、現代のテクノロジーが加わった点にあるのです。今日では日々効率を増していく機械が、交通のシステムが、飛行機と武器と医薬品と殺虫剤が、意識の目指すところを強力に推進している。目的と意識の側に、身体のバランスも社会のバランスも生態系のバランスも、すべて突き崩す力がついてしまった。ひとつの病理が進行中なのであります」(ベイトソン「精神の生態学・P.580」新思索社)
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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