白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

遍在する廃墟/空虚の遍在5

2020年04月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホそしてアルトーについて。彼らにとって何が問題だったのか。これまで述べてきた中では、実のところ、まだ何ら明確化されたわけではない。身体とは何か。それを明確化する作業なしにゴッホそしてアルトーの絵画あるいは言葉について何をどのように考えればいいのか。この作業なしにはまるで雲をつかもうとするような話になってしまう。それを回避するためには差し当たりフーコーを参照せねばならない。差し当たりというのは、これまでのように作品「狂気の歴史」を中心に参照してきたようにではなく、とりわけ作品「監獄の誕生」を参照せねばならないからである。少しずつしかできないけれども、ともかくやって行こうとおもう。

「われわれは次の一般的な主題をおそらく受け入れてもよいだろう、現代社会では処罰制度は身体についての一種の《経済学》のなかに位置づけをしなおさなければならない、という主題を。すなわち、その制度が暴力的なもしくは血なまぐさい懲罰に訴えない場合にも、あるいは閉じ込めや矯正を行なう《穏健な》手段を用いる場合にも、問題になるのはつねに身体であるーーー身体とその体力、体力の用途とおとなしさ、体力の配分と服従である。懲罰の歴史を道徳観念や法律構造を基礎にして書きあげることは、たしかに正当な仕事である。ところが、もはや懲罰のほうは目標としてもっぱら犯罪者のひそかな精神しか狙っていないと言っているわけだから、懲罰の歴史を身体の歴史を基礎にしてはたして書きあげることができるだろうか」(フーコー「監獄の誕生・P.29」新潮社)

身体を問題とするといっても、身体はなぜ「計測」されるのか。身体測定はなぜ行われなければならないのか。おそらく一般の教育機関で身体測定している教育者も測定されている学生もほとんどわかってはいない。わからないほど浸透した、ということについて、まるでわかっていない、ということができる。

「身体の歴史といえば、歴史家たちはずっと以前からそれに着手してきた。彼らは身体を史的な人口統計学や病理学の分野で研究してきた。身体をば、欲求と欲望との座として、生理過程と新陳代謝との場として、微生物と濾過性病原体との攻撃目標として考察してきた。つまり、史的な諸過程がいかなる程度まで、生存の純粋に生物学的な台座(つまり身体)と見なされうるもののなかに含まれるか、しかもまた、種々の社会の歴史のなかでいかなる位置を、細菌の伝播とか寿命の延びのような生物学的な《出来事》に与えるべきであるか、などを彼らは明らかにしてきた。ところが同じく直接に身体は政治の領域のなかに投げこまれているのであって、権力関係は身体に無媒介な影響力を加えており、身体を攻囲し、それに烙印を押し、それを訓練し、責めさいなみ、それに労役を強制し、儀式を押しつけ、それから表徴を要求するのである。身体のこの政治的攻囲は、複合的で相関的な諸関連に応じて身体の経済的活用と結びつく。身体が権力関係と支配関係によって攻囲されるのは、かなりの程度までは生産力としてであるが、その代わりに、身体を生産力として組み込むことができるのは、身体が服従の強制の仕組(そこでは欲求もまた注意深く配分され計量され活用される政治的道具の一つである)のなかに入れられる場合に限られる。身体は、生産する身体であると同時に服従せる身体である場合にのみ有効な力となる」(フーコー「監獄の誕生・P.29~30」新潮社)

フーコーが注意を促しつつ焦点化しようとしていることは「身体の《政治性》」である。それはただ単なる経済に還元できるようなものではなく、また政治だけに還元できるようなものでもない。政治=経済は、なるほど頭の中でだけであれば単純に別々に切り離して考えることはできる。しかし事実上、両者は《身体において》一致している。だから、身体測定なのだ。その意味で身体は極めて政治的である。政治的だからこそ、いちいちしつこく、まったくこれでもかとばかり執拗に「測定」される。この種の「測定」が教育機関あるいは刑務所のような懲罰機関において最も厳格化されているのはそういう意味〔政治性〕を担っているからこそなのだ。また刑罰の領域では現代に入ってもなお物理的暴力が用いられることはある。けれども目に見える物理的刑罰は激減してきた。もっと合理的かつ効果的な刑罰が発見されたからだ。「服従」というシステムの政治性とその合理的活用の追求という課題が出現する。

「この服従の強制は単に暴力本位だけによっても、また単に観念形態を主とする手段だけによっても実現されない。よしんば、この強制は直接的で物理的であってもよい、力には力をもってしてでもかまわない、物質的な若干の要素を対象にしてもよい、しかしながら、それは暴力的であってはならない。しかも、その強制はなるほど、計算され組織化され技術的に考慮されていてもよいし、巧妙であり、武器も使わず恐怖に訴えなくてもよい、しかしながらそれは身体的(物理的な、をも含む)次元にとどまっていなければならない。すなわち、身体の作用の科学だとは正確には言えない身体の一つの《知》と、他方、体力を制する手腕以上のものである体力の統御とが存在しうるわけであって、つまりは、この知とこの統御こそが、身体の政治的技術論とでも名づけていいものを構成する」(フーコー「監獄の誕生・P.30」新潮社)

差し当たり「技術」と「技術論」とを分けてみる。だがすぐに接続される。その瞬間を捉えてみよう。まず政治的身体の技術は今なお時々刻々と変化の過程をたどっていく。だがそれはただ単にのんべんだらりと続いている長く伸びきった飴のようなものではなくて、ところどころですっかり模様替えされる。刷新される。刷新されたとき、政治的身体の「技術」は政治的身体の「技術論」として一般的に可視化される。

「この技術論は散乱していて、体系的で継続的な言説のかたちではほとんど表明されていない、また、しばしば断片的なもので組み立てられている、しかも、ちぐはぐな方式や道具を使用している。その技術論は成果の点では首尾一貫しているにもかかわらず、大抵の場合には、雑多な形式をもった装置全体にすぎない。その上、われわれにはそれを一定の型の制度のなかにも国家管理の装置のなかにも位置づけるわけにはいくまい。これら制度と装置のほうがこの技術論の助けをかりたのであって、その技術論の用いる諸方式を活用したり、それらに価値を付与したり、それらを強制する。しかしながら、その技術論じたいは機構と効力の点では、まったく別の水準に位置を占めているのである。前述の国家装置と制度が作用させる、いわば、権力の微視的物理学(ミクロフィジック)にかかわってくるのであるが、それの有効性の場は、いわば、それら装置ならびに制度の大仕掛な作用と、物質性と力とを含む身体じたいとのあいだに置かれている」(フーコー「監獄の誕生・P.30」新潮社)

ここで始めて「権力の微視的物理学」というフーコーの方法が、フーコー自身によって述べられる。

「この微視的物理学の研究には次の点が仮定されている。そこで行使される権力は、一つの固有性としてではなく一つの戦略として理解されるべきであり、その権力支配の効果は、一つの《占有》に帰せらるべきではなく、素質・操作・戦術・技術・作用などに帰せらるべきであること。その権力のうちにわれわれは、所有しうるかもしれぬ一つの特権を読み取るよりむしろ、つねに緊迫しつねに活動中の諸関連がつくる網目を読み取るべきであり、その権力のモデルとしてわれわれは、ある譲渡取引を行なう契約とか、ある領土を占有する征服を考えるよりむしろ、永久に果てない合戦を考えるべきであること。要するに次の点を承認しなければならない、その権力は、所有されるよりむしろ行使されるのであり、支配階級が獲得もしくは保持する《特権》ではなく支配階級が占める戦略的立場の総体的な効果であるーーー被支配者の立場が表明し、時には送り返しもする効果であることを。他方この権力は、《それを持たざる者》に、ただ単に一種の義務ないし禁止として強制されるのではない、その権力は彼らを攻囲し、彼らを介して、また彼らを通して貫かれる。しかもその権力は彼らを拠り所にするのである。まったくちょうど、それに対する戦いで今度は彼ら自身が、それがこちらに加える影響力を拠り所にするように」(フーコー「監獄の誕生・P.30~31」新潮社)

重要な引用が見られる。「権力のモデル」《としての》「永久に果てない合戦」。もっとも、フーコー自身が引用したと言っているわけではないが、おそらくニーチェを参照したと思われる。

「肉体はひとつの大きい理性である。《一つ》の意味をもった多様体、戦争であり、平和であり、畜群であり、牧人である」(ニーチェ「ツァラトゥストラ・第一部・肉体の軽侮者・P.50」中公文庫)

さらに「支配階級が獲得もしくは保持する《特権》ではなく支配階級が占める戦略的立場の総体的な効果であるーーー被支配者の立場が表明し、時には送り返しもする効果」そして「この権力は、《それを持たざる者》に、ただ単に一種の義務ないし禁止として強制されるのではない、その権力は彼らを攻囲し、彼らを介して、また彼らを通して貫かれる。しかもその権力は彼らを拠り所にする」という事態の常態化について。

「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)

有機体としての人間とはそういうものだ。新陳代謝とはそういうものだ。また同時に、有機体としてのすべての人間のさらなる総合としての世界もまたそういうものだ。有機体としてのすべての人間のさらなる総合としての世界もまた新陳代謝しているし、新陳代謝している限りでのみ、生きていくことができる。無限の複数性としてしかあり得ない世界。世界はそのような多様体であり、それはただちに諸力の運動であるにもかかわらず、なぜ「《一つ》の意味をもった多様体」なのか。

「どうして、私たちが私たちのより弱い傾向性を犠牲にして私たちのより強い傾向性を満足させるということが起こるのか?それ自体では、もし私たちが一つの統一であるとすれば、こうした分裂はありえないことだろう。事実上は私たちは一つの多元性なのであって、《この多元性が一つの統一を妄想したのだ》。『実体』、『同等性』、『持続』というおのれの強制形式をもってする欺瞞手段としての知性ーーーこの知性がまず多元性を忘れようとしたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一六・P.86」ちくま学芸文庫)

そんなわけで、手持ちの読解格子はたいへん少ない。しかし読解格子の多い少ないは問題でない。装置というものについて考えるためには量的変化よりもむしろ遥かに濃厚な質的変化が問題だからである。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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