アルトーのいう「実存」は、有機体としての諸器官に閉じ込められた身体を意味する。ゴッホは、そしてアルトーもまた、その意味での身体から解放されたいと欲した。
「彼が実存から解放されようとしていたまさにその瞬間に描かれたような、低い半円形の空をしたこの画布とともに、ヴァン・ゴッホ自身が言いたかったのはそれである、というのもこの画布は、誕生や、婚姻や、出発の、しかもほとんど荘重である異様な色彩をもっているからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.164』河出文庫)
だからアルトーの場合、「器官なき身体」という「別様の感じ方」で生きる別次元の身体を創造した。結果的に実現できなかったわけだが。しかし重要なのは、この「器官なき身体」という次元を創造したという事実にある。自殺は結果に過ぎない。失敗例としての自殺。ところが、結果というものはただ単に終わりということを意味しない。それ以上のことをする。自殺という結果は、結果という資格において、アルトーのすべての業績を覆い隠してしまう。アルトーはただ単に一種の狂人だったという否定的イメージの奥底へ還元あるいは監禁されてしまい、そのすべての業績は覆い隠される。「器官なき身体」という「別様の感じ方」で生きる別次元の身体の創造者という驚くべき到達点は、何かよくわからない意味不明な言葉としてとっとと忘れ去られてしまう。特権化された貨幣あるいは言語がそう立ち働くように。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
事情はそうなっており、そうである以上、そうだとしか言えない。ほかの幾つかの箇所でも同じことが書かれている。
「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)
「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)
「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫)
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
「生産に生産手段の姿で前貸しされた資本価値も生活手段の姿で前貸しされた資本価値もここでは一様に生産物の価値のなかに再現する。こうして、資本主義的生産過程の完全な神秘化は首尾よくなしとげられて、生産物のなかにある剰余価値の起源はすっかり隠されてしまう」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第十一章・P.365」国民文庫)
「利子生み資本では、資本としてのその還流は、貸し手と借り手とのあいだの単なる合意によって定まる《かのように見える》。したがって、資本の環流は、この取引に関してはもはや生産過程によって規定された結果としては現われないで、まるで、貸し出された資本から貨幣の形態がなくなったことはまったくなかったように見える」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.62」国民文庫)
「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
有名な箇所だけだが上げてみた。このような事態が無数に発生し、数えきれないほど大量の裁判が起きているこの世界の中で、人々が「結果」と呼ぶものはいつもすでに絶え間なく途轍もない重量でのしかかる殺人的圧力と化している、という事情もまた忘れ去られてしまう。ゴッホの、そしてアルトーの、極めて重要な業績をも覆い隠してしまう。ちなみにマルクス「資本論」はどうか。未完ではあるもののほとんど最後まで書かれていることは周知の通り。とすれば資本論のラストが資本論の全体を覆い隠してしまうのではないか。ラストに至る叙述の全過程はただ単なる《神話》に過ぎないのではないか。そう反論することができる。ところがそう簡単に取り扱って破棄してしまえるような作品でないところに資本論の逆説性がある。というのは、マルクスの眼は一体どこにあるのかよくわからないからである。
「それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚(こび)を呈しさえしたのである。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない」(マルクス「資本論・第二版後記・P.41」国民文庫)
ヘーゲル弁証法に即して、ヘーゲル弁証法に忠実であればあるほど、マルクスの眼はかえって生き生きしてくる。このような生き生きした眼を獲得して始めて資本主義という生き生きした諸力の運動を捉えることができる。日本では丸山真男が戦前の小林秀雄の振る舞いを参照しつつこう述べた。
「ヨーロッパ近代思想史において体系と概念組織と『歴史における合理性』を代表していたのはいうまでもなくヘーゲルであった。マルクスとキエルケゴールの仕事はまさにこの典型的な『体系』の物神崇拝性を《破壊する》ことであった。『資本論』を書きえたマルクスが弁証法的唯物論という言葉を一度も使わず、そういう名の理論体系を書物にしなかったのは偶然の外的事情だろうか。ところが日本ではまさに体系と概念組織を代表していたのが、ヘーゲルではなくてマルクスであった。だからこそ小林秀雄は『意匠』によって武装された、『思想の制度』としてのマルクス《主義》と《主義者》にはげしく敵対しつつ、通貨形態をとらぬ前のマルクスやエンゲルスの《個性的》思考と『文体』の前に脱帽し、またコトバとなった弁証法を極度にいみ嫌う反面において、曰く言いがたい究極のものに絶句したあげく奔り出た逆説として弁証法を認めたのである」(丸山真男「日本の思想・P.118」岩波新書)
しばしば言われるように、丸山真男やマックス・ヴェーバーといった歴史的業績を残している人々は、本音のところで第二のマルクスになりたかった大群の中で、ごく僅かに突出することができた稀有な部類に入る人々である。だから彼らが一斉にヘーゲル研究に打ち込んでいたことは何ら不思議でない。そして、とりわけ戦後、無数のヘーゲル「主義者」やマルクス「主義者」が登場してきた。しかし誰一人としてマルクスの眼を獲得することができた人間はいない。いるとしてもほとんどいないに等しいに違いない。なるほどヘーゲルについて言えることはマルクスについても当てはまる。けれども、ただ単にヘーゲルを転倒させただけではないところで始めてマルクスは出現する。
「私は、あらゆる哲学のうちには自己-脱構築的なもろもろの地点があると考えています。ですから、それらの地点はヘーゲルにもありますし、マルクスにもあるのです。そして、相変らず第三段階での話ですが、ヘーゲルについて言えることはマルクスにもあてはまることを私は明示するでしょう。こういったわけで私は、マルクスに大いに関心をもっているのです。そんなわけで私の考えでは、マルクスにはいわゆる弁証法的唯物論ないしマルクス主義哲学に属さないものどもがあります。もっと別なものがいろいろとあり、まさにそうしたものがいつも私の関心をひくのです。こういったわけで、マルクスは私の関心をひいてやみません。マルクスについてはあまり多くを書いていません。マルクスについては教室でたくさん教えましたが、あまり多くは書いていません。とはいえ、マルクスについてのご質問にお答えするとすれば、それは非常に差異のある、そして非常に異質な答えとなるでしょう。マルクスのうちには、形而上学であるような、現前性の形而上学、弁証法、さらには思弁的弁証法でさえあるような、諸言説の層がまるごと存在している、と私は言うでしょう。それから次に、もろもろの他のものがある、と。これら他のものは、ただ単に、マルクスによって書かれたテクストのうちにのみあるのではありません。それらのものは、単に『資本論』の総体として、あるいはマルクスの伝記としてあるのではありません。それら他のものとは、マルクスの著作を歴史に、労働運動に、そして歴史の歯車たちに結びつけているもののことです。マルクスのテクストはこういったものです。マルクスのテクストとは単にマルクスの書物に限られません。もしもマルクスのテクストを、労働運動の闘争という歴史的コンテクストの総体のうちで捉えて分析するならば、われわれはずっと複雑な諸命題に行き着くにちがいありません。それらの命題はおそらくある人びとには反-マルクス主義的であるだろうし、しょっちゅう、そして今日でもなお、評価し直されるべきものです。とはいえそれらの命題は、われわれがマルクスの書物で読んだり、ないしは大学で教えたりすることのできるような、マルクス哲学についての理論的諸命題に還元されません。マルクスのテクストとは、大学でそれについて言われるもののみにとどまりません。それは到るところにあるからです。マルクスのテクストは。ですから、こういったテクストに対しては、そのようなタイプの理論的諸命題で満足することはできません」(デリダ「私の立場」『他者の言語・P.242~243』法政大学出版局)
ところが、だからといって、ヘーゲルを脱構築すればマルクスになるというわけではない。むしろ自分で自分自身をどんどん自己-脱構築していくのは資本主義という諸力の運動のほうだからである。デリダに関していえば、後々有名になってから出版された中期から後期にかけてより、この講演録のような初期作品のほうが随分面白かったとおもわれる。それはデリダ自身がまだ自由奔放に哲学できていたことと関係がある。世界的有名人になることでかえってデリダは自分で自分自身を或る種の鎖〔来るべき民主主義というメシア主義〕に繋ぎ留めることになってしまった。最晩年の作品まで面白く読めるという場合、それは初期作品の面白味がどのような稜線を描いて変化していくのかを知りたいと《欲望する》限りでわかることではないだろうか。実際、絵画論(「盲者の記憶」みすず書房)などは面白いわけなので。それはそれとして、アルトーの問いは「烏の群れ飛ぶ麦畑」へ舞い戻ってきている。
「私には大地の上空でカラスたちの翼が強烈なシンバルを打ち鳴らすのが聞こえるのだが、ヴァン・ゴッホにはいまからもうその大地の波浪をくい止めることができないように見える」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.164』河出文庫)
ゴッホは或る異種の強度として通過する。あるいは「或る異種の強度の通過」がゴッホという名前を名乗っているに過ぎない。「大地の波浪をくい止める」義務など始めからゴッホにはない。そもそもそのような義務はいつどこで「でっち上げられた」のか。大いに疑問である。そのことが人間の「性」についても言える。「性」は自由でない。すでに先取られ義務化されている。
「性という自律的な決定機関があって、それが権力との接触面において性的欲望という多様な作用を二次的に産み出すのだ、と想像してはならない。性は反対に、性的欲望の装置の中で最も思弁的かつ最も観念的で、最も内面的ですらある要素なのであり、そのような性的欲望を、権力が、身体や身体の物質的現実、身体の力のエネルギー、身体の感覚や快楽に対するその掌握・支配の中で組織していくのである」(フーコー「知への意志・P.196」新潮社)
だから性的欲望というものは医学界を牛耳った国家による大々的な演出であり策略のための装置なのだ。<性>は以前より遥かに自由になったと言えるだろうか。<性>は解放されただろうか。むしろ成果主義の名の下に以前より遥かに強力に資本と接続されたのではなかろうか。男女平等どころかLGBTをも成果主義的観点からのみ短絡的に承認し、狡猾に資本主義内部へ組み込み、労働力商品としてさらにますます賞賛し、よりいっそう激化する競争戦へ投げ売りのごとく放り込んでいく。もはや人間が自分の<性>を決定するのではなく、あらゆる権力、とりわけ国家と多国籍大資本とによって、「性的欲望という装置(メカニズム)」を用いて<性>は無化されると同時に「性的欲望」へ変換され、何かと滑稽な様相でうまうまと動員され立ち働かされているに過ぎないのではないだろうか。
ーーーーー
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM1
BGM2
BGM3
BGM4
BGM5
BGM6
BGM7
BGM8
BGM9
BGM10
「彼が実存から解放されようとしていたまさにその瞬間に描かれたような、低い半円形の空をしたこの画布とともに、ヴァン・ゴッホ自身が言いたかったのはそれである、というのもこの画布は、誕生や、婚姻や、出発の、しかもほとんど荘重である異様な色彩をもっているからである」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.164』河出文庫)
だからアルトーの場合、「器官なき身体」という「別様の感じ方」で生きる別次元の身体を創造した。結果的に実現できなかったわけだが。しかし重要なのは、この「器官なき身体」という次元を創造したという事実にある。自殺は結果に過ぎない。失敗例としての自殺。ところが、結果というものはただ単に終わりということを意味しない。それ以上のことをする。自殺という結果は、結果という資格において、アルトーのすべての業績を覆い隠してしまう。アルトーはただ単に一種の狂人だったという否定的イメージの奥底へ還元あるいは監禁されてしまい、そのすべての業績は覆い隠される。「器官なき身体」という「別様の感じ方」で生きる別次元の身体の創造者という驚くべき到達点は、何かよくわからない意味不明な言葉としてとっとと忘れ去られてしまう。特権化された貨幣あるいは言語がそう立ち働くように。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
事情はそうなっており、そうである以上、そうだとしか言えない。ほかの幾つかの箇所でも同じことが書かれている。
「一商品は、他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすのではじめて貨幣になるとは見えないで、逆に、この一商品が貨幣であるから、他の諸商品が一般的に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える。媒介する運動は、運動そのものでは消えてしまって、なんの痕跡も残してはいない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第二章・P.169」国民文庫)
「貨幣は、商品の価格を実現しながら、商品を売り手から買い手に移し、同時に自分は買い手から売り手へと遠ざかって、また別の商品と同じ過程を繰り返す。このような貨幣運動の一面的な形態が商品の二面的な形態運動から生ずるということは、おおい隠されている。商品流通そのものの性質が反対の外観を生みだすのである。商品の第一の変態は、ただ貨幣の運動としてだけではなく、商品自身の運動としても目に見えるが、その第二の変態はただ貨幣の運動としてしか見えない」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.205」国民文庫)
「貨幣を見てもなにがそれに転化したのかはわからないのだから、あらゆるものが、商品であろうとなかろうと、貨幣に転化する。すべてのものが売れるものとなり、買えるものとなる。流通は、大きな社会的な坩堝(るつぼ)となり、いっさいのものがそこに投げこまれてはまた貨幣結晶となって出てくる。この錬金術には聖骨でさえ抵抗できないのだから、もっとこわれやすい、人々の取引外にある聖物にいたっては、なおさらである。貨幣では商品のいっさいの質的な相違が消え去っているように、貨幣そのものもまた徹底的な平等派としていっさいの相違を消し去る」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第三章・P.232」国民文庫)
「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)
「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠す」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)
「資本主義的生産過程はそれ自身の進行によって労働力と労働条件との分離を再生産する。したがって、それは労働者の搾取条件を再生産し永久化する。それは、労働者には自分の労働力を売って生きてゆくことを絶えず強要し、資本家にはそれを買って富をなすことを絶えず可能にする。資本家と労働者とを商品市場で買い手と売り手として向かい合わせるものは、もはや偶然ではない。一方の人を絶えず自分の労働力の売り手として商品市場に投げ返し、また彼自身の生産物を絶えず他方の人の購買手段に転化させるものは、過程そのものの必至の成り行きである。じっさい、労働者は、彼が自分を資本家に売る前に、すでに資本に属しているのである。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や彼の個々の雇い主の入れ替わりや労働の市場価格の変動によって媒介されていると同時におおい隠されている」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十一章・P.127」国民文庫)
「生産に生産手段の姿で前貸しされた資本価値も生活手段の姿で前貸しされた資本価値もここでは一様に生産物の価値のなかに再現する。こうして、資本主義的生産過程の完全な神秘化は首尾よくなしとげられて、生産物のなかにある剰余価値の起源はすっかり隠されてしまう」(マルクス「資本論・第二部・第二篇・第十一章・P.365」国民文庫)
「利子生み資本では、資本としてのその還流は、貸し手と借り手とのあいだの単なる合意によって定まる《かのように見える》。したがって、資本の環流は、この取引に関してはもはや生産過程によって規定された結果としては現われないで、まるで、貸し出された資本から貨幣の形態がなくなったことはまったくなかったように見える」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.62」国民文庫)
「資本の現実の運動では、復帰は流通過程の一契機である。まず貨幣が生産手段に転化させられる。生産過程はそれを商品に転化させる。商品の販売によってそれは貨幣に再転化させられ、この形態で、資本を最初に貨幣形態で前貸しした資本家の手に帰ってくる。ところが、利子生み資本の場合には、復帰も譲渡も、ただ資本の所有者と第二の人とのあいだの法律上の取引の結果でしかない。われわれに見えるのは、ただ譲渡と返済だけである。その間に起きたことは、すべて消えてしまっている」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十一章・P.63」国民文庫)
有名な箇所だけだが上げてみた。このような事態が無数に発生し、数えきれないほど大量の裁判が起きているこの世界の中で、人々が「結果」と呼ぶものはいつもすでに絶え間なく途轍もない重量でのしかかる殺人的圧力と化している、という事情もまた忘れ去られてしまう。ゴッホの、そしてアルトーの、極めて重要な業績をも覆い隠してしまう。ちなみにマルクス「資本論」はどうか。未完ではあるもののほとんど最後まで書かれていることは周知の通り。とすれば資本論のラストが資本論の全体を覆い隠してしまうのではないか。ラストに至る叙述の全過程はただ単なる《神話》に過ぎないのではないか。そう反論することができる。ところがそう簡単に取り扱って破棄してしまえるような作品でないところに資本論の逆説性がある。というのは、マルクスの眼は一体どこにあるのかよくわからないからである。
「それだからこそ、私は自分があの偉大な思想家の弟子であることを率直に認め、また価値論に関する章のあちこちでは彼に特有な表現様式に媚(こび)を呈しさえしたのである。弁証法がヘーゲルの手のなかで受けた神秘化は、彼が弁証法の一般的な諸運動形態をはじめて包括的で意識的な仕方で述べたということを、けっして妨げるものではない」(マルクス「資本論・第二版後記・P.41」国民文庫)
ヘーゲル弁証法に即して、ヘーゲル弁証法に忠実であればあるほど、マルクスの眼はかえって生き生きしてくる。このような生き生きした眼を獲得して始めて資本主義という生き生きした諸力の運動を捉えることができる。日本では丸山真男が戦前の小林秀雄の振る舞いを参照しつつこう述べた。
「ヨーロッパ近代思想史において体系と概念組織と『歴史における合理性』を代表していたのはいうまでもなくヘーゲルであった。マルクスとキエルケゴールの仕事はまさにこの典型的な『体系』の物神崇拝性を《破壊する》ことであった。『資本論』を書きえたマルクスが弁証法的唯物論という言葉を一度も使わず、そういう名の理論体系を書物にしなかったのは偶然の外的事情だろうか。ところが日本ではまさに体系と概念組織を代表していたのが、ヘーゲルではなくてマルクスであった。だからこそ小林秀雄は『意匠』によって武装された、『思想の制度』としてのマルクス《主義》と《主義者》にはげしく敵対しつつ、通貨形態をとらぬ前のマルクスやエンゲルスの《個性的》思考と『文体』の前に脱帽し、またコトバとなった弁証法を極度にいみ嫌う反面において、曰く言いがたい究極のものに絶句したあげく奔り出た逆説として弁証法を認めたのである」(丸山真男「日本の思想・P.118」岩波新書)
しばしば言われるように、丸山真男やマックス・ヴェーバーといった歴史的業績を残している人々は、本音のところで第二のマルクスになりたかった大群の中で、ごく僅かに突出することができた稀有な部類に入る人々である。だから彼らが一斉にヘーゲル研究に打ち込んでいたことは何ら不思議でない。そして、とりわけ戦後、無数のヘーゲル「主義者」やマルクス「主義者」が登場してきた。しかし誰一人としてマルクスの眼を獲得することができた人間はいない。いるとしてもほとんどいないに等しいに違いない。なるほどヘーゲルについて言えることはマルクスについても当てはまる。けれども、ただ単にヘーゲルを転倒させただけではないところで始めてマルクスは出現する。
「私は、あらゆる哲学のうちには自己-脱構築的なもろもろの地点があると考えています。ですから、それらの地点はヘーゲルにもありますし、マルクスにもあるのです。そして、相変らず第三段階での話ですが、ヘーゲルについて言えることはマルクスにもあてはまることを私は明示するでしょう。こういったわけで私は、マルクスに大いに関心をもっているのです。そんなわけで私の考えでは、マルクスにはいわゆる弁証法的唯物論ないしマルクス主義哲学に属さないものどもがあります。もっと別なものがいろいろとあり、まさにそうしたものがいつも私の関心をひくのです。こういったわけで、マルクスは私の関心をひいてやみません。マルクスについてはあまり多くを書いていません。マルクスについては教室でたくさん教えましたが、あまり多くは書いていません。とはいえ、マルクスについてのご質問にお答えするとすれば、それは非常に差異のある、そして非常に異質な答えとなるでしょう。マルクスのうちには、形而上学であるような、現前性の形而上学、弁証法、さらには思弁的弁証法でさえあるような、諸言説の層がまるごと存在している、と私は言うでしょう。それから次に、もろもろの他のものがある、と。これら他のものは、ただ単に、マルクスによって書かれたテクストのうちにのみあるのではありません。それらのものは、単に『資本論』の総体として、あるいはマルクスの伝記としてあるのではありません。それら他のものとは、マルクスの著作を歴史に、労働運動に、そして歴史の歯車たちに結びつけているもののことです。マルクスのテクストはこういったものです。マルクスのテクストとは単にマルクスの書物に限られません。もしもマルクスのテクストを、労働運動の闘争という歴史的コンテクストの総体のうちで捉えて分析するならば、われわれはずっと複雑な諸命題に行き着くにちがいありません。それらの命題はおそらくある人びとには反-マルクス主義的であるだろうし、しょっちゅう、そして今日でもなお、評価し直されるべきものです。とはいえそれらの命題は、われわれがマルクスの書物で読んだり、ないしは大学で教えたりすることのできるような、マルクス哲学についての理論的諸命題に還元されません。マルクスのテクストとは、大学でそれについて言われるもののみにとどまりません。それは到るところにあるからです。マルクスのテクストは。ですから、こういったテクストに対しては、そのようなタイプの理論的諸命題で満足することはできません」(デリダ「私の立場」『他者の言語・P.242~243』法政大学出版局)
ところが、だからといって、ヘーゲルを脱構築すればマルクスになるというわけではない。むしろ自分で自分自身をどんどん自己-脱構築していくのは資本主義という諸力の運動のほうだからである。デリダに関していえば、後々有名になってから出版された中期から後期にかけてより、この講演録のような初期作品のほうが随分面白かったとおもわれる。それはデリダ自身がまだ自由奔放に哲学できていたことと関係がある。世界的有名人になることでかえってデリダは自分で自分自身を或る種の鎖〔来るべき民主主義というメシア主義〕に繋ぎ留めることになってしまった。最晩年の作品まで面白く読めるという場合、それは初期作品の面白味がどのような稜線を描いて変化していくのかを知りたいと《欲望する》限りでわかることではないだろうか。実際、絵画論(「盲者の記憶」みすず書房)などは面白いわけなので。それはそれとして、アルトーの問いは「烏の群れ飛ぶ麦畑」へ舞い戻ってきている。
「私には大地の上空でカラスたちの翼が強烈なシンバルを打ち鳴らすのが聞こえるのだが、ヴァン・ゴッホにはいまからもうその大地の波浪をくい止めることができないように見える」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.164』河出文庫)
ゴッホは或る異種の強度として通過する。あるいは「或る異種の強度の通過」がゴッホという名前を名乗っているに過ぎない。「大地の波浪をくい止める」義務など始めからゴッホにはない。そもそもそのような義務はいつどこで「でっち上げられた」のか。大いに疑問である。そのことが人間の「性」についても言える。「性」は自由でない。すでに先取られ義務化されている。
「性という自律的な決定機関があって、それが権力との接触面において性的欲望という多様な作用を二次的に産み出すのだ、と想像してはならない。性は反対に、性的欲望の装置の中で最も思弁的かつ最も観念的で、最も内面的ですらある要素なのであり、そのような性的欲望を、権力が、身体や身体の物質的現実、身体の力のエネルギー、身体の感覚や快楽に対するその掌握・支配の中で組織していくのである」(フーコー「知への意志・P.196」新潮社)
だから性的欲望というものは医学界を牛耳った国家による大々的な演出であり策略のための装置なのだ。<性>は以前より遥かに自由になったと言えるだろうか。<性>は解放されただろうか。むしろ成果主義の名の下に以前より遥かに強力に資本と接続されたのではなかろうか。男女平等どころかLGBTをも成果主義的観点からのみ短絡的に承認し、狡猾に資本主義内部へ組み込み、労働力商品としてさらにますます賞賛し、よりいっそう激化する競争戦へ投げ売りのごとく放り込んでいく。もはや人間が自分の<性>を決定するのではなく、あらゆる権力、とりわけ国家と多国籍大資本とによって、「性的欲望という装置(メカニズム)」を用いて<性>は無化されると同時に「性的欲望」へ変換され、何かと滑稽な様相でうまうまと動員され立ち働かされているに過ぎないのではないだろうか。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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