白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

夜の居場所1

2020年04月19日 | 日記・エッセイ・コラム
ゴッホは「やり直そうとしている」とアルトーはいう。

「信じがたい人であるヴァン・ゴッホ以上に、問題の驚くべき点を理解した画家がいるであろうか、彼にあってはどんなほんものの風景も、いわば坩堝における可能態のうちにあって、その坩堝のなかで彼はいまからやり直そうとしている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.158』河出文庫)

ところでの「坩堝」(るつぼ)とはなんなのか。ゴッホの書簡を見てみる。たとえば次のような認識と関係がある。

「家の装飾にすっかり夢中になっている。それは君が描くものとは全然別のものだが、君の趣味に合うんじゃないかと思う。以前、《花》と《樹》と《畑》という絵のことを僕に話していたが、ここに《詩人の庭》(二枚)がある。見取図のなかに習作から描いた最初の着想が入れてある、小さい方は既に弟の手元へ届いているはずだ。次に《夜の星空》、それから《葡萄畑》、《畝》、そして街路とでもよべる人家の眺めと、みんな無意識的にある関連性をもっている」(ゴッホ「ゴッホの手紙・上・P.173」岩波文庫)

無意識かどうかはわからないとしても、すべては「関連性をもって」流動していると述べる。ニーチェがいっていることもまた別のことではない。

「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)

ゴッホは何度でも「やり直す」ことができる。実際、いつも「やり直そう」としていた。世界の新しい形態の発見者だったからだ。それは場合によりけりで、実際の地理的な意味での(オランダから南フランスへの)単なる移動だけでなく、たとえば異なる分野(文学、肉体労働)への、あるいは異なる時代に属する絵画(ミレーなど)への、また、他の画家の手による「他者としての絵画」の《翻訳》への、といった既成の価値の価値転換をもたらす「場所移動」を条件として生じる。次のように。

「ゾラとバルザックはその作品のなかで画家のようにある時代の社会や自然を描写して不思議な芸術的衝動を起させ、読者に話しかける、それによって、描かれたその時代に触れさせるのだ」(ゴッホ「ゴッホの手紙・上・P.146」岩波文庫)

「絵かきのような汚い職業には、労働者の手と胃袋を持つ人間が一番適しているのだと以前から感じていた。破滅した頽廃的なパリのブルヴァールの常連よりも、もっと野性的な好みと、愛情ゆたかな、温かい性格が必要なのだ」(ゴッホ「ゴッホの手紙・上・P.180」岩波文庫)

「ミレーの複製を送ってくれてとてもうれしかった。熱心に製作中だ。芸術的なものを見ないと、僕はたるんでしまう、元気が出た。《夜なべ》を仕上げ、《土を掘る人》、《上着をきる男》はいずれも三十号画布だが、《種まき》はもっと小さい。《夜なべ》は紫色と柔らかいリラ色の色調だし、薄いレモン色のランプの光、それにオレンジ色の炎と、赤茶色(オークル・ルージュ)の男がいる。君にも見せたい。ミレーの素描から油絵にするのは、模写するというよりも他国の言葉に翻訳するようだ」(ゴッホ「ゴッホの手紙・下・P.216」岩波文庫)

「既にもう気づいたが、南仏へ行ったお蔭で北方のことがよく分るようになった。僕が想像していたとおり紫がいっそう目立つようになった」(ゴッホ「ゴッホの手紙・下・P.261」岩波文庫)

というように様々な面での絶えざる「場所移動」がゴッホに次々と新しい発見をもたらした。

「生に関しては、人類は芸術家の天才のなかにそれを探しに行くことを習慣としている」(アルトー「ヴァン・ゴッホ」『神の裁きと訣別するため・P.159』河出文庫)

芸術家の作品は両義的に作用する。人間はそれら芸術作品の中に自分の姿を探し求め見つけ出そうとする。小説、絵画、音楽、等々。そして実際見つかることは少なくない。ところがゴッホの絵画の中に自分の姿を見る人々はそれほど多くない。「創作活動」と「狂気」との関係にその困難がある。

「狂気の最初の声がニーチェの傲慢、ヴァン・ゴッホの卑下のなかに、いつ忍びこんだかを知ることは重要ではない。狂気は創作活動の最終的な瞬間としてしか存在しない。創作活動こそは狂気をそのぎりぎりの境界にまで際限なく追いやっているのであり、《創作活動が存在するところには、狂気は存在しない》、けれども、狂気は創作活動と同時期のものである、それこそは創作活動の真実の時間を始めるのだから。創作活動と狂気がともに生れ完了する瞬間、それは、世界がこの創作活動によって設定された自分を、またこの創作活動の全面にあるものに責任を感じている自分を見出す、そうした時間の始まりである。狂気の術策と新たな勝利である。すなわち、狂気を測定し、心理学によって狂気を正当化していると信じている世界のほうが狂気の正面で自分を正当化しなければならないのである。というのは、努力と論争によって世界は、創作活動の、ニーチェやヴァン・ゴッホやアルトーのそれのような度はずれた尺度をもとにして自分を測っているのだから」(フーコー「狂気の歴史・P.559~550」新潮社)

なぜ困難なのか。フーコーのいうように「ニーチェやヴァン・ゴッホやアルトーのそれのような度はずれた尺度をもとにして自分を測」ろうと試みるからにほかならない。しかし人々はむきになって彼らの作品を尺度にしたがる。こうして「理性/狂気」の分割にもかかわらず両者の関係はかえってますます不明瞭になっていくのだ。

ところでゴッホの「生」というところでいえば、近代社会の到来以来、十七世紀以来、だんだん拡がりを持ってきた「生きさせられることの耐え難さ」という転倒にある。以前は「殺されること」が耐え難かったのだが、イギリス産業革命以来、不意打ちを受けて殺されたり司法によって死刑にされたりすることよりも、何がなんでも「生きさせられる」必要性の中に叩き込まれたことと、その生には実のところ何らの「目的、目標、確固たる存在」も本当は《ない》という認識に気づき始めたからである。それも、徐々に教養の獲得を実現させてきた市民社会自身によってである。「生」は生きられるものというより、遥かに、計測され、管理され、政治的秩序の規律化に活用されるようになる。大きく二つ。

「その極の一つは最初に形成されたと思われるものだが、機械としての身体に中心を定めていた。身体の調教、身体の適性の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、効果的で経済的な管理システムへの身体の組み込み、こういったすべてを保証したのは、《規律》を特徴づけている権力の手続き、すなわち《人間の身体の解剖-政治学》〔解剖学的政治学〕であった」(フーコー「知への意志・P.176」新潮社)

さらに。

「第二の極は、やや遅れて、十八世紀中葉に形成されたが、種(しゅ)である身体、生物の力学に貫かれ、生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。それらを引き受けたのは、一連の介入と、《調整する管理》であり、すなわち《人口の生-政治学》〔生に基づく政治学〕である」(フーコー「知への意志・P.176」新潮社)

人間の客体化に成功した国家による巨怪な作業。第一に「《人間の身体の解剖-政治学》〔解剖学的政治学〕」。第二に「《人口の生-政治学》〔生に基づく政治学〕」。共通するのはどちらも医学を通していながらそのじつ極めて「国家-政治的」行為だったことだ。この変化はすでに専制君主制=王権の無要性を物語る。国王が死刑を命じる必要性はない、というよりむしろ禁じられる。新興ブルジョワ階級は「殺す」のではなく逆に「生かす」こととその中央集権的管理調整に全力を上げるようになるからである。

「古典主義時代において、このような二重の顔立ちをもつ巨大テクノロジーがーーー解剖学的でかつ生物学的であり、個別化すると同時に概念に従って分類する、身体の技能的成果へ向かうと同時に生のプロセスそのものを見ようとするものとしてーーー設置されたという事実、それは至高の機能が爾後はおそらくもはや殺すことにはなく、隈なく生を取り込むためにあるような一つの権力の特徴を雄弁に物語る」(フーコー「知への意志・P.176~177」新潮社)

そのような転倒についてレーニンもまた気づいている。

「たとえば、われわれがすでにその深遠な意見を知っている新『イスクラ』の例の『一実践家』は、私が党を、中央委員会という支配人をいただく『巨大工場』と考えているといって告発している(第57号、付録)。この『一実践家』は、彼のもちだしたこのおどし文句が、プロレタリア組織の実践にも理論にもつうじていないブルジョア・インテリゲンツィアの心理を一挙にさらけだしていることに、気づいてもいない。ある人にはおどし道具としかみえない工場こそ、まさにプロレタリアートを結合し、訓練し、彼らに組織を教え、彼らをその他すべての勤労・被搾取人民層の先頭にたたせた資本主義的協業の最高形態である。資本主義によって訓練されたプロレタリアートのイデオロギーとしてのマルクス主義こそ、浮動的なインテリゲンチャに、工場がそなえている搾取者としての側面(餓死の恐怖にもとづく規律)と、その組織者としての側面(技術的に高度に発達した生産の諸条件によって結合された共同労働にもとづく規律)との相違を教えたし、いまも教えている。ブルジョア・インテリゲンツィアには服しにくい規律と組織を、プロレタリアートは、ほかならぬ工場というこの『学校』のおかげで、とくにやすやすとわがものにする」(レーニン「一歩前進二歩後退・P.261」国民文庫)

フーコーの言葉へ変換すればこうだ。

「監獄が工場や学校や兵営や病院に似かよい、こうしたすべてが監獄に似かよっても何にも不思議はないのである」(フーコー「監獄の誕生・P.227」新潮社)

専制君主制の没落。

「君主の権力がそこに象徴されていた死に基づく古き権力は、今や身体の行政管理と生の勘定高い経営によって注意深く覆われてしまった」(フーコー「知への意志・P.177」新潮社)

人間の「生」は注意深く監視され計測され集中管理され、人間は国家による「経営学」の中へ再編されるようになった。やがて帝国主義の時代がやって来るのだが、それは資本主義にもかかわらず平坦な過程を描いてはいない。周期的に訪れる恐慌に必ず見舞われる制度だからだ。そのようなときには労働時間の「短縮」が行われる。

「恐慌のときには生産が中断されて、ただ『短時間』しか、週にわずかな日数しか作業が行われないのであるが、その恐慌も、もちろん、労働日を延長しようとする衝動を少しも変えるものではない。なされる仕事が少なければ少ないほど、なされた仕事についての利得は大きくなければならない。作業のできる時間が少なければ少ないほど、それだけ多く剰余労働時間が作業されなければならない」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.26」国民文庫)

恐慌の時期に行われる労働の「時間短縮」という操作。失業率は飛躍的に上昇する。二〇二〇年の世界でいう「合理化」あるいは「時短」である。そしてそれを可能にするのは新しいテクノロジーの導入である。

「作業機が、原料の加工に必要なすべての運動を人間の助力なしで行なうようになり、ただ人間の付き添いを必要とするだけになるとき、そこに機械の自動体系が現われる。といっても、細部では絶えず改良を求める余地のあるものではあるが。たとえば、たった一本の糸が切れても紡績機をひとりでに止める装置や、梭(ひ)の糸巻きの横糸がなくなればすぐに改良蒸気織機を止めてしまう自動停止器は、まったく近代的な発明である」(マルクス「資本論・第一部・第四篇・第十三章・P.261」国民文庫)

ただ、機械が導入されればされるほど必要労働と剰余労働との境界線は覆い隠される。両者は同時に融合しながら押し進められるほかないからである。

「1労働日は6時間の必要労働と6時間の剰余労働とから成っていると仮定しよう。そうすれば、一人の自由な労働者は毎週6×6すなわち36時間の剰余労働を資本家に提供するわけである。それは、彼が1週のうち3日は自分のために労働し、3日は無償で資本家のために労働するのと同じである。だが、これは目には見えない。剰余労働と必要労働とは融合している」(マルクス「資本論・第一部・第三篇・第八章・P.18」国民文庫)

さらに。

「労賃という形態は、労働日が必要労働と剰余労働とに分かれ、支払労働と不払労働とに分かれることのいっさいの痕跡を消し去るのである。すべての労働が支払労働として現われるのである。夫役では、夫役民が自分のために行なう労働と彼が領主のために行なう強制労働とは、空間的にも時間的にもはっきりと感覚的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するだけの部分、つまり彼が事実上自分のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。賃労働では、反対に、剰余労働または不払労働でさえも、支払われるものとして現われる。前のほうの場合には奴隷が自分のために労働することを所有関係がおおい隠すのであり、あとのほうの場合には賃金労働者が無償で労働することを貨幣関係がおおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第六篇・第十七章・P.61~62」国民文庫)

ところが、小さな資本はいつもいつも最新機器を購入する資金を持っていない。だから小さな資本は真っ先に淘汰される。巨大な資本も順次倒産していく。しかし大手多国籍企業は一次下請け、二次下請け、三次下請けというふうに、そのリスクを世界各地に分散しているため、そう簡単に潰れるということはない。その代わりに本拠地を潰さないために下層の下請け部分を潰すことから始める。だがまさしくその点で問題は残されるのである。

「理性は、痴愚を受け入れることによって、こっそりとそれをとり囲み、それを自覚し、それを位置づけることができる。しかも、この痴愚(フオリー)〔=狂気〕をどこに位置づけるべきかというと、理性じたいのなかに、理性の諸形態の一つとして、恐らくは理性の支えの一つとして位置づけるほかはあるまい。多分、理性の諸形態とこの痴愚の諸形態のあいだでは、類似点は大きいであろう。しかもその点が人に不安をあたえる。たとえば、ごく賢明な行為が馬鹿(フウー)〔=狂人〕によっておこなわれた場合と、きわめて気違いじみた狂気の沙汰(フオリー)が普通は賢明で節度のある人間によっておこなわれた場合とを、どのようにして識別するのか?」(フーコー「狂気の歴史・P.50」新潮社)

という問題が。
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さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。昨今の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

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