「断薬の勧め」について。断薬時に出現あるいはその後も引き続く重篤なダメージに苦しみ続けている患者とその身近な人々は数多い。一方、主に断薬時に出現する途方もないダメージおよび副作用について公にされたくない製薬会社、医師、薬剤師は数知れない。そのような状況下で自身の実体験をまじえて「断薬の勧め」を説いたとしよう。以下にのべる文章にある(1)の立場はそれに類する。すると(2)の側からもっともな反論が返された。(1)は反-反論を試み、それを「短歌」にしたためた。その「短歌」が今度は誹謗中傷と受け取られた。そう受け取ったのは(2)。なるほど(1)の「短歌」には幾つもの攻撃的言辞が見られる。
だからといって(2)の側が全面的に正しいかといえばそうとも限らない。医師の指示に従って、とあるけれども、その医師の処方がどれほど妥当かどうかはわからない。一見穏やかそうな薬物療法にみえていても実際は巨大製薬業界と持ちつ持たれつの関係を維持継続しながらの処方でしかなく、見た目ばかりが穏当そうなだけに過ぎず、患者とその家族らの側がまんまと穏やかそうに映って見えているに過ぎない薬物療法にころりと騙されている場合が少なからずある。「緩慢な自殺」という言葉は有名だが、その一方で、あまり知られていないけれども「緩慢な殺人」という言葉も実はある。
いかにも「あたり」がよさそうで言葉遣いが丁寧であってもその薬物療法が妥当かどうかは極めてわかりにくい。巨大製薬業界と持ちつ持たれつの関係を維持継続しつつなされる巧妙狡猾な「緩慢な殺人」でないとは容易に判断できない。それがもし裁判所に持ち込まれた場合、ましてや個々の裁判官の立場の正当性をどのような基準で推しはかることができるかなど、もっとあいまいであり、なおかついまだに巨大既得権益の側を支持してはばからないケースが無数にある。もはや「適切」や「妥当」といった次元からますます遠のいているのが現状。
したがって(1)か(2)かという是非判断はひとつも行っていない。問題は「自由化」や「民営化」以後、ますます劣悪化の一途をたどる「表現の自由」に対する政治-行政の怠慢にあると指摘したいのである。政治-行政の怠慢なしに全体主義の蔓延がありうるだろうか。問いたいのはそれだ。とともに(1)(2)ともに巨大既得権益網と政治-行政とから見下された「モルモットたち」のその後にしか見えないのはなぜかも問いたいとおもう。