白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ205

2023年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十二月七日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

二〇二三年十月七日(土)の手術からちょうど二ヶ月。しばしば軟便が続くこともあったがここ四日ほどでようやく平均的な固さの便を定期的に排便できるようになった。

 

今日も一日たいへんおとなしい。エアコンの温風を当然のように享受してのびのび。飼い主は高騰する電気料金にひやひや。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ローラ・ミッシュ。作曲だけでなくヴォーカル、サックス、ギターその他の楽器も器用にこなす。オーガニックな音楽の定義というのはとにかくアコースティックであることだという偏見が世界中で蔓延中。YouTubeの見過ぎ。環境にやさしいというキャッチコピーにうっかり騙されてはいけない。オーガニックな音楽はどこにでもありそうなカフェの安物BGMに使われていそうな単なるイージーリスニングとはまた違うということを知ってほしいとおもう。SNSで安易な誤解を拡散させないために。その2。

後期高齢者が増えてきた日本のプログレ愛好家の年末を締めるこの一曲。その2。

もうひとつ。三、四年先のことはどうなるかわからないが、とりあえず年越し間近ということでこの一曲。

 

 


Blog21(ささやかな読書)・「非常時」画像と「官能性」

2023年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

スーザン・ソンタグと漫画「ミステリという勿れ」とを参照しつつ波戸岡景太は「非常時に平時を想うことの大切さと難しさ」について述べる。マルクス・アウレーリウスからの引用。

 

「正気に返って自己を取りもどせ。目を醒まして、君を悩ましていたのは夢であったのに気づき、夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ」(マルクス・アウレーリウス「自省録・第六章・三十一・P.91」岩波文庫 一九五六年)

 

波戸岡景太はいう。

 

「興味深いことに、ここに挙げられた『夢』と『現実』は、決して対立関係にあるわけではない。『夢の中のものを見ていたように、現実のものをながめよ』とは、たとえ『夢』と『現実』がかけ離れていたとしても、人はどちらも同じような心構えで見つめなくてはならないという戒めに他ならないのである」(波戸岡景太「ナラティブという勿れ」『群像・2024・1・P.191』講談社 二〇二三年)

 

なるほどなるほど。常に安易に用いられがちな「目を覚ませ」という意味とは異なるところが大事だ。

 

マルクス・アウレーリウス「自省録」から「ミステリという勿れ」に引用された部分およびそれに続く箇所。

 

「あたかも一万年も生きるかのように行動するな。不可避のものが君の上にかかっている。生きているうちに、許されている間に、善き人たれ」(マルクス・アウレーリウス「自省録・第四章・十七・P.48」岩波文庫 一九五六年)

 

なぜこの箇所を引用したのか。波戸岡景太はこう問うている。

 

「非常時にあって平時を想うこと、その大切さと難しさを知った私たちは、これからも一層、ソンタグのような(ややハードルの高い)知識人や、久能整のような(ともすれば絵空事とされる)キャラクターが口にする『正論』に耳を傾けなくてはならない」(波戸岡景太「ナラティブという勿れ」『群像・2024・1・P.196』講談社 二〇二三年)

 

そうあるための「心構え」として「あたかも一万年も生きるかのように行動するな」が前提になる。

 

少し話題を変えてみよう。

 

マルクス・アウレーリウス「自省録」にはミステリ作家の「心得」のようなアフォリズムもある。(1)は探偵が用いる論理的態度。また議論の作法として。(2)は心理トリックで見かけたりする。だがリアルな社会的問題の当事者の場合、どさくさ紛れに(2)を持ち込んで「泣き寝入りするのがよい」というわけでは「ない」。

 

(1)「粗野な言葉づかいや、文法的にまちがったことや、気にさわるような表現を用いる人にたいしては、とがめだてするような風に非難せず、答のかたちで、あるいは他人の言葉に口ぞえする形で、または言葉づかいではなく問題自体を一緒に議論するという形で、またそのほか同様のつつましやかな注意によって、用うべきであった表現そのものをうまく話の中に持って来ること」(マルクス・アウレーリウス「自省録・第一章・十・P.9」岩波文庫 一九五六年)

 

(2)「『自分は損害を受けた』という意見を取り除くがよい。そうすればそういう感じも取り除かれれしまう。『自分は損害を受けた』という感じを取り除くがよい。そうすればその損害も取り除かれてしまう」(マルクス・アウレーリウス「自省録・第四章・七・P.45~46」岩波文庫 一九五六年)

 

イスラエル極右政権による軍事侵攻についても「自省録」から引いてみたい箇所がある。いまはひとつだけ。

 

「もっともよい復讐の方法は自分まで同じような行為をしないことだ」(マルクス・アウレーリウス「自省録・第六章・六・P.82」岩波文庫 一九五六年)

 

波戸岡景太に再び戻ろう。ソンタグから引用した部分。

 

「ベトナム戦争やボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の現場に(必ずしも取材目的ではなく)身を置き続けたソンタグではあったが、こと非人道的なイメージの鑑賞については、次のような身も蓋もない発言をしている。

 

痛めつけられ、損傷を受けた死体を描写したものは、そのほとんどが淫らな趣味を喚起する(『他者の苦痛へのまなざし』)。

 

写真を『見る』という行為は、道徳的な関心と背徳的な興味が表裏一体となったもの。そうしたソンタグの指摘は、ともすれば純粋無垢な鑑賞者の立場に身をおきがちな私たちに、戦争写真の鑑賞方法に潜む『罠』の在処を教えてくれる」(波戸岡景太「ナラティブという勿れ」『群像・2024・1・P.191』講談社 二〇二三年)

 

この問題は二十世紀からたびたび指摘されてきた。「純粋」とか「無垢」とかいった「鑑賞者の立場」などどこにも「ない」という前提の上で。「痛めつけられ、損傷を受けた死体を描写したものは、そのほとんどが淫らな趣味を喚起する」。一体いつ頃からか知らないが、ちなみに泉鏡花の小説「峠茶屋心中」にこんな描写がある。

 

「唯見(とみ)ると、黒雲(くろくも)をぬつくと破(やぶ)つた其(そ)の二體(たい)の金剛神(こんがうじん)の、脚(あし)、爪先(つまさき)に搦(から)み縺(もつ)れて、大雨(おおあめ)の瀬(せ)に寄(よ)る怪(あや)しき魚(うお)の、蠢(うごめ)き蠢き、異類異形(いるゐいぎやう)なものの數(かず)。おどろの山(やま)を飛(と)ぶと聞(き)く、ーーー一本脚(いつぽんあし)の小坊主(こばうず)、目一(めひと)つ痩法師(やせぼふし)、躄(ゐざり)の親仁(おやぢ)、兩手(りやうて)の落(お)ちた釘貫女郎(くぎぬきぢよろう)、また鼻(はな)なし婆(ばばあ)、鼻(はな)の無(ない)いのは唯一人二人(ただひとりふたり)のみではなかつたーーーあの茣蓙(ござ)を着(き)た、彼奴(きやつ)も交(まじ)る。額(ひたひ)、頭(かしら)、べろりと禿(は)げて、頸窪(ぼんのくぼ)から房々(ふさふさ)と赤髪(あかがみ)の延(の)びた眉毛(まゆげ)のない年増(としま)が見(み)えて、あらう事(こと)か、今日(けふ)が賽日(さいじつ)の晴(はれ)に白粉(おしろい)を頬(ほほ)に塗(ぬ)つた、やがては、非人乞食(ひにんこじき)の輩(やから)が、十六、七人、老若男女(らうにやくなんによ)一團(ひとかたまり)に成(な)つて山門(さんもん)に雨宿(あまやど)りをした、と分(わか)つたが、崩(くづ)れるばかりのもの音(おと)に、意(おも)はず戸(と)に立(た)つて此(こ)の狀(さま)を一目(ひとめ)見(み)た時(とき)、金剛神(こんがうじん)が従(したが)へ給(たま)ふ、五百の夜叉(やしや)に宛然(さながら)なのであつた」(泉鏡花「峠茶屋心中」『鏡花全集・巻十七・P.449〜450』岩波書店 一九四二年)

 

「グロテスク」とか「悪趣味」とか「オリエンタリズム」といった批判の多い「峠茶屋心中」。どれも当てはまるだろう。どう見ても主人公の行方を「阻害する」輩として描き込まれている「異類異形(いるゐいぎやう)なもの」。身体障害者、精神障害者、あるいは露骨に「ハンセン病者」、非人、などがただ単なる舞台装置として動員されており、最後まで救いひとつ与えられることなく終わる。

 

しかしなぜ泉鏡花はただ単なる舞台装置として彼ら被差別民たちを動員したのだろう。きっと「盛り上がる」だろうし「盛り上げたい」という気持ちがあったに違いない。ソンタグのいう「淫らな趣味を喚起する」からだ。直接的な性的描写と等価かあるいはそれ以上に官能を「そそる」からである。興味本位の悪質な「官能」を。しかしなぜ、そうなのか。問題は多岐にわたっている。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて630

2023年12月07日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

末期癌の母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「京の鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。

 

漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。

 

昨日昼食。トマト(一個)。わらびの里「あさりご飯」半分。「あさりご飯」は固くて一個分はちょっと無理なようだ。一ヶ月前なら食べていたかもしれない。

 

昼寝。

 

テレビ「その男、副所長」を見る。昼寝に戻る。

 

昨日夕食。サンマの焼いたの(一尾)。なぜかサンマはまだいける。大根おろしを多めに付ける。

 

午後十時。就寝はスムーズ。

 

舌の痺れもまた増した。ざらざらした感じで味覚もおかしいと母はいう。香辛料の類は口内をひりひりさせるため極力避けるようにしているが、そうでない料理の場合、今度は味を感じられなくなってきたと首を傾げている。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はスタン・ゲッツ「TOOTSIE ROLL」。