十二月十日エントリ。「皆」とは何か。
Blog21・「皆」とは何か - 白鑞金’s 湖庵
ネット上での乱闘はある種の「ガス抜き」としては許されていいと思っている。一方。ともすればイデオロギー的「全体主義」に陥ってしまわないと誰に言えよう。気にかかるこ...
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その続編。(1)で述べた女性のブログ上の見解について。
日本がまだ世界に冠たる「未開地帯」でしかなかった江戸時代、すでにヘーゲルは「主観」という精神の動きについて、「主観」は何をするかについて、輪郭鮮明にこう述べている。
「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」『ヘーゲル全集7・P.75』岩波書店 一九六〇年)
力としての「主観」。それは他者をあますところなく侵略し尽くす。「精神的レイプ」とはこのことをいう。そう聞くや慌てて「強弱」という概念を持ち込もうとしても無駄。調整できるものでない。筋違いにもほどがある。危険なほどの力というものは速やかに「置き換える」ほか方法がない。ヨーロッパでは第二次世界戦前夜すでにそこまで判明していた。
にもかかわらず近代以降に日本に輸入されたあれこれのイデオロギーを幾つかの仏教とこれまた怖ろしく古い神道とをせっせとパッチワークして見せた上でこう言い出したカルト団体が出現した。「善悪」の判断を行うのは個々人の「主観次第である」。なぜ受けたか。「霊的なもの」を押し立てる天皇主義的国家神道や徳川幕府の黒幕と化して長い巨大仏教教団にありがちな絶対主義的教義とは微妙に異なる教義を打ち立て、それまで取り残されていた人々の人気をつかむのにまんまと成功した。
明治維新前後の日本で産声を上げた数々の新興宗教。それまでの神道と仏教に加えヨーロッパ産各種イデオロギーを手前勝手にブレンドしたつぎはぎだらけの「まがいもの」。百歩譲ったとしてもなお「ヘーゲルを知らない」とは死んでも口にできない新思想家たちの系譜。かれら教祖の発言は絶対主義的「神」が何もかもを決めるとは必ずしも限らず、善悪の判断において個々人の「主観」の動きが決定のポイントとなるとされている点に新しさがあり、明治時代にたいそう流行った「個人主義」の潮流を取り込んでいることが多くの、とりわけ名ばかりでしかない「市民層」の気持ちを急速に吸い寄せた。だからといって「神」を背後へ隠したとしても、むしろ見えない「神」に代わって教祖(メシア)の絶対性を全面に押し出したというのは「神」と「教祖」との「受肉」という世界の宗教(特にキリスト教)では極めて重要な概念をいとも容易かつ軽々しく宣伝しだしたのはのちのち深刻な問題を惹起させないではおかなかった。
話を戻してみる。「善悪」の判断を行うのは個々人の「主観次第である」。しかし「主観」をフリーとし「主観」に丸投げしていいかどうか。すでにヘーゲルから引いたように、さらに明治維新前後に外来の思想にいち早く触れる機会をもち雨後の筍のように出現した新興宗教の教祖たちが最も熟知しているように、「主観次第」という考え方は「他者をあますところなく侵略し尽くす」という点でその善悪判断が「精神的レイプ」と化しても「構わない」と宣言したに等しい。
第二次世界大戦後。そこそこ名のある新興宗教教団の幾つかは軍国主義を支援したことでいったん爆破解体された。ところが今度は「被害者」を名乗り出した。あれほど軍国主義を煽りに煽って止まなかったカルト教団が。被害者の権力意志についてニーチェはいう。
「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)
軍国主義万歳を連呼して止まなかった中規模カルト教団が喚き立て始めた。「被害者だ」と。おそれいる。とはいえ、なるほど無自覚かそうでないかにかかわらず結果的に自分が引き受けざるを得なくなってきた「不幸」をあちこちで吹聴し他人の「同情」を買ってこっそりうれしがっている劣悪な人間もいるにはいる。それは特にカルトでなくても、今の裏金問題が表面化して居心地がわるくなった政治家らをさんざんテレビ画面が映し上げているように認めなくてはいけない。ところが維新前後から全国各地で道の真ん中を平気でのし歩くような新興宗教カルト教団がなぜそんな転倒した権力意志、「同情」を集めるという「自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望」を「自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだ」すという醜態へ立ち至ったのか。
「善悪の判断」は「主観」によって異なるのは当たり前だ。しかしその「主観」の動きがどれほど暴力的かの認識がごっそり欠落している。「主観」は「客体」に対して全面的かつ無制限に「浸透する」。他者をあますところなく侵略し尽くす。繰り返し「精神的レイプ」におよぶ。少しは「言葉の暴力」について、もう一度振り返ってみる必要があるだろう。
例えば昨今運良く就職することができ、そして始まったキャリア=「職歴」を自分の主観的主体性として考えたがる人々の場合。女性ならそのキャリアが「淑女」の証明になりうるだろうか。「淑女」とは何か。「職歴」を手に入れた「主観的主体性」が「客体」に対して全面的かつ無制限に「浸透する」。他者をあますところなく侵略し尽くす。繰り返し「精神的レイプ」におよぶ。女性発の内閣広報官を務めた山田真紀子などは記憶に新しい。女性の中でも最も悪質とされる。同性異性同僚問わず次々と陰湿この上ない手法で踏み倒し他人の生涯を地獄へ送り込む女の皮をかぶった「男性性」の問題とぴたりと一致する。こんなことは今や中学生にでもわかることだ。