白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ209

2023年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十二月十一日(月)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

飼い主の姿が目に入るとまずお腹をみせて「遊んでポーズ」。一日に五回はやるようになった。お腹をさすさすさすってやる。嫌がりながら喜んでいる。しばらくするとふいに我に返って立ち上がり周囲を見渡す。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。キーファー。新作は劇的に変わった様子でもなく、まあ、いつものキーファーに近いようにおもう。ピアノもどこか聴き慣れた風味。その1。

後期高齢者が増えてきた日本のプログレ愛好家の年末を締めくくるこの一曲。その6。


Blog21(ささやかな読書)・アンチ「バ美肉擁護論」

2023年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

第二の問題について。「相手が現実の女性(LGBT等含)ならどれほど苦しめても苦しめられても構わないのか」という問いかけでさしあたり答えになるだろう。ブレディキナの掲げる「バ美肉擁護論」を戸谷洋志は問題視する。「かわいい」とはどういうことか。

 

「第一に、バ美肉において男性ユーザーが演じるのは『かわいい』存在であり、女性ではない。第二に、男性ユーザーは現実世界のなかでジェンダー規範に苦しめられている。第三に、男性ユーザーは『かわいい』存在になることで、男性に課せられるジェンダー規範から解放される」(戸谷洋志「メタバース現象考(7)」『群像・2024・1・P.404』講談社 二〇二三年)

 

第二点については冒頭で述べた。第一点と第三とについて戸谷洋志は「かわいい」という「表象」の消息を述べる。論理的整合性への同意が得られないのはなぜか。

 

「第一の主張には疑問が差し向けられたとしても不思議ではない。なぜなら、ブレディキナ自身が留保する通り、バ美肉において『かわいい』存在としてイメージされるのはあくまで美少女であるからだ。そこには、生物学的な女性と『かわいい』存在を結びつけるまなざしが、つまり女性こそが『かわいい』存在であるべきだ、というジェンダー規範が、依然として機能しているように思える。このことは、第三の主張、すなわちバ美肉がジェンダー規範からの解放であるという主張と、整合しない。なぜなら、もしも『かわいい』存在が依然として女性へのジェンダー規範に基づくものであるなら、バ美肉が意味しているのは、男性ユーザーが男らしさから逃れて女らしさを演じているだけであり、結局のところ、ジェンダー規範から自由になっていないからだ。それは、ジェンダー規範の内部における役割の交代に過ぎず、ジェンダー規範そのものに揺さぶりをかけるものではない」(戸谷洋志「メタバース現象考(7)」『群像・2024・1・P.404』講談社 二〇二三年)

 

つづけて戸谷洋志は《日本で》「バ美肉擁護論」に立つ松浦優が持ち出す論点を整理する。

 

「松浦によれば、メタバース上に存在するアバターの美少女は、現実世界の女性のイメージによって形成されている。この意味において、現実世界はイメージの起点領域であり、メタバースはその目標として位置づけることができる。しかし、起点領域から目標領域へーーーつまり現実世界からメタバースへーーー女性のイメージが流用されるとき、そのイメージのすべてが移されるのではなく、そのイメージを構成する一部や構造だけが移される。それによって、メタバース上の女性は、現実世界の女性と完全には一致しなくなる。松浦はこの事態を『誤配』と呼ぶ。そうである以上、メタバース上で美少女がどのように扱われるのだとしても、それは現実世界のジェンダー規範には抵触しない。松浦の主張はそうしたものとして理解することができる」(戸谷洋志「メタバース現象考(7)」『群像・2024・1・P.405』講談社 二〇二三年)

 

結論はあっけない。

 

「しかしそこには、男性が女性を客体化するという構造そのものが、まったく同じように維持されている。この構造それ自体が女性への抑圧として機能するジェンダー規範に他ならないのではないか」(戸谷洋志「メタバース現象考(7)」『群像・2024・1・P.405』講談社 二〇二三年)

 

しかし「手ぬるい」印象がずいぶん残る。あえて逃げ道を残すような文章ではある。「誤配」の濫発を指摘しつつ、濫発が摘発されればされるほどいいというわけでもないということは確かだろう。「誤配」の「たまたま性」に賭けることはもはや犯罪指南に等しいというリアルを知らしめないと始まらないとおもうからだ。そして「誤配」の濫発をほいほい許してきた見て見ぬ「ふり」のイデオローグらの側が今や取り締まられなくてはならない。さらにデリダ発「誤配」主義者らによる「戦争犯罪人ハイデッガー」への温和すぎる図々しさ。史上稀に見る開き直り「ぶり」。「やったふり」。あからさまな不問。ほとんどスルー。

 

「受肉」という言葉に対する違和感表明。何も今に始まったことではないのだが。

 

「バーチャル美少女受肉という名称そのものに、筆者は違和感を抱く。そもそも、男性ユーザーが女性のアバターを利用することを、受肉という出来事として捉えること自体に、根本的な問題が示唆されているのではないか」(戸谷洋志「メタバース現象考(7)」『群像・2024・1・P.406』講談社 二〇二三年)

 

この「受肉」という言葉を安易に用いた面々のひとりに丸山圭三郎がいる。シニフィアンとシニフィエとの合体の説明に両者の「受肉」と言っていた。一九八〇年代のこと。宗教臭が鼻について仕方なかった。宗教用語を持ってきてソシュール入門書を書くかという根本的疑問に巷は湧いたのだった。

 

しかし宗教を取り除いたとしてもなお残される問題について戸谷洋志はいう。

 

「『バ美肉』という名称は、どう好意的に考えたとしても、女性を『美しい肉』として形容している。それが女性への蔑視でない、と擁護することは、極めて困難であるように思える」(戸谷洋志「メタバース現象考(7)」『群像・2024・1・P.406』講談社 二〇二三年)

 

このあたりは同感するというかもっと深く述べてほしかった気がしなくもない。というのは、「バーチャル美少女受肉」が「バ美肉」へ圧縮省略短縮変換されるのはなぜか、を問うてほしいとおもうからだ。「バ美少女受」もで「B女肉」でもなく、よりによってなぜ「バ美肉」なのか。収まりが「いい」と指示されるのか。日本語が抱える「タブー」のようなものだろうか。あるいはだが、「日本国憲法・第一章」との関連で「ことのは」へ差し向けられうる問いときわどく差し違えてもいると思われるからだ。連載に期待したい、とはいえーーー。


Blog21・「主観」は惜しみなく侵略する(補遺)

2023年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

前回述べた(1)の場合。「職歴」が「淑女であることを証明する」という等式を全面的に肯定する価値観に立った発言を行なって恥ずべきところがない。日本全国に今なお残るソープ街で身を粉にして働く主に女性労働者に対してどれほど残酷な発言であるのか。これっぽっちも頭にない。職業差別発言だと断定せざるをえない。

 

売買春問題一般のついても買う側が売る側の「職業・学歴」(その他の履歴)を重視し目を皿にして漁り回っている点も見逃せないわけだが、選挙には行くと言っている(1)にはその程度の社会性ひとつ見あたら「ない」。またここ数年の東京都内で頻発し出したいわゆる「頂き女子」問題。たいへん多くのコメンテーターが濫発する勘違い発言にもかかわらず、あるいはその影響下に置かれているからかも知れないが、この問題のポイントは多々はずされている。

 

違法か合法かなどという二択は問題外。ホストに「貢ぐことをなぜ反復する」のかと問われない限り問題点はいつになっても棚上げ状態。いたずらに長引かせるばかりだ。なぜ「反復」が「止まらない」のか。「共依存」関係が成り立ってしまっているからにほかならない。「共依存」という言葉が社会的に認知されてからもう三十年以上にはなる。文筆にかかわるすべての人間で「共依存」を知らない人間というのは、さすがに何事も遅い日本とはいえ、ちょっとやそっとで探し出すのは難しかろうとおもうほど。そんな(1)を相手にする(2)もまた同じほど劣悪な差別的観念に取り憑かれて止まないのだろうというふうに見えて仕方がない。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて634

2023年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

末期癌の母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「京の鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。

 

漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。

 

昨日昼食。トマト(一個)。ちくわ(一本)。しじみの味噌汁。

 

テレビ「競馬BEAT」を見る。

 

昼寝。

 

昨日夕食。餃子(四個)。白菜の煮物少々。

 

ナルサス(ヒドロモルフォン)服用で癌の疼痛はほぼ収まっているものの、食材に胡椒やピリ辛風味の香辛料が入っているとすぐ反応して口内に痛みが走り食べられなくなる。

 

午後十時半。就寝はスムーズ。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はジョニー・スミス・クインテット「WHERE  OR WHEN」。


Blog21・「主観」は惜しみなく侵略する

2023年12月11日 | 日記・エッセイ・コラム

十二月十日エントリ。「皆」とは何か。

Blog21・「皆」とは何か - 白鑞金’s 湖庵

Blog21・「皆」とは何か - 白鑞金’s 湖庵

ネット上での乱闘はある種の「ガス抜き」としては許されていいと思っている。一方。ともすればイデオロギー的「全体主義」に陥ってしまわないと誰に言えよう。気にかかるこ...

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その続編。(1)で述べた女性のブログ上の見解について。

 

日本がまだ世界に冠たる「未開地帯」でしかなかった江戸時代、すでにヘーゲルは「主観」という精神の動きについて、「主観」は何をするかについて、輪郭鮮明にこう述べている。

 

「《真理》もまた客体に一致するところの知識として積極者である。しかし、知識が他者〔客体〕に対して否定的に関係し、この客体を浸透するものであり、従って客体の知識に対する否定性を止揚するものであるという意味では、真理はこのような自己同等性である」(ヘーゲル「大論理学・中巻」『ヘーゲル全集7・P.75』岩波書店 一九六〇年)

 

力としての「主観」。それは他者をあますところなく侵略し尽くす。「精神的レイプ」とはこのことをいう。そう聞くや慌てて「強弱」という概念を持ち込もうとしても無駄。調整できるものでない。筋違いにもほどがある。危険なほどの力というものは速やかに「置き換える」ほか方法がない。ヨーロッパでは第二次世界戦前夜すでにそこまで判明していた。

 

にもかかわらず近代以降に日本に輸入されたあれこれのイデオロギーを幾つかの仏教とこれまた怖ろしく古い神道とをせっせとパッチワークして見せた上でこう言い出したカルト団体が出現した。「善悪」の判断を行うのは個々人の「主観次第である」。なぜ受けたか。「霊的なもの」を押し立てる天皇主義的国家神道や徳川幕府の黒幕と化して長い巨大仏教教団にありがちな絶対主義的教義とは微妙に異なる教義を打ち立て、それまで取り残されていた人々の人気をつかむのにまんまと成功した。

 

明治維新前後の日本で産声を上げた数々の新興宗教。それまでの神道と仏教に加えヨーロッパ産各種イデオロギーを手前勝手にブレンドしたつぎはぎだらけの「まがいもの」。百歩譲ったとしてもなお「ヘーゲルを知らない」とは死んでも口にできない新思想家たちの系譜。かれら教祖の発言は絶対主義的「神」が何もかもを決めるとは必ずしも限らず、善悪の判断において個々人の「主観」の動きが決定のポイントとなるとされている点に新しさがあり、明治時代にたいそう流行った「個人主義」の潮流を取り込んでいることが多くの、とりわけ名ばかりでしかない「市民層」の気持ちを急速に吸い寄せた。だからといって「神」を背後へ隠したとしても、むしろ見えない「神」に代わって教祖(メシア)の絶対性を全面に押し出したというのは「神」と「教祖」との「受肉」という世界の宗教(特にキリスト教)では極めて重要な概念をいとも容易かつ軽々しく宣伝しだしたのはのちのち深刻な問題を惹起させないではおかなかった。

 

話を戻してみる。「善悪」の判断を行うのは個々人の「主観次第である」。しかし「主観」をフリーとし「主観」に丸投げしていいかどうか。すでにヘーゲルから引いたように、さらに明治維新前後に外来の思想にいち早く触れる機会をもち雨後の筍のように出現した新興宗教の教祖たちが最も熟知しているように、「主観次第」という考え方は「他者をあますところなく侵略し尽くす」という点でその善悪判断が「精神的レイプ」と化しても「構わない」と宣言したに等しい。

 

第二次世界大戦後。そこそこ名のある新興宗教教団の幾つかは軍国主義を支援したことでいったん爆破解体された。ところが今度は「被害者」を名乗り出した。あれほど軍国主義を煽りに煽って止まなかったカルト教団が。被害者の権力意志についてニーチェはいう。

 

「《同情をそそりたがる》。ーーー病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫 一九九四年)

 

軍国主義万歳を連呼して止まなかった中規模カルト教団が喚き立て始めた。「被害者だ」と。おそれいる。とはいえ、なるほど無自覚かそうでないかにかかわらず結果的に自分が引き受けざるを得なくなってきた「不幸」をあちこちで吹聴し他人の「同情」を買ってこっそりうれしがっている劣悪な人間もいるにはいる。それは特にカルトでなくても、今の裏金問題が表面化して居心地がわるくなった政治家らをさんざんテレビ画面が映し上げているように認めなくてはいけない。ところが維新前後から全国各地で道の真ん中を平気でのし歩くような新興宗教カルト教団がなぜそんな転倒した権力意志、「同情」を集めるという「自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望」を「自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだ」すという醜態へ立ち至ったのか。

 

「善悪の判断」は「主観」によって異なるのは当たり前だ。しかしその「主観」の動きがどれほど暴力的かの認識がごっそり欠落している。「主観」は「客体」に対して全面的かつ無制限に「浸透する」。他者をあますところなく侵略し尽くす。繰り返し「精神的レイプ」におよぶ。少しは「言葉の暴力」について、もう一度振り返ってみる必要があるだろう。

 

例えば昨今運良く就職することができ、そして始まったキャリア=「職歴」を自分の主観的主体性として考えたがる人々の場合。女性ならそのキャリアが「淑女」の証明になりうるだろうか。「淑女」とは何か。「職歴」を手に入れた「主観的主体性」が「客体」に対して全面的かつ無制限に「浸透する」。他者をあますところなく侵略し尽くす。繰り返し「精神的レイプ」におよぶ。女性発の内閣広報官を務めた山田真紀子などは記憶に新しい。女性の中でも最も悪質とされる。同性異性同僚問わず次々と陰湿この上ない手法で踏み倒し他人の生涯を地獄へ送り込む女の皮をかぶった「男性性」の問題とぴたりと一致する。こんなことは今や中学生にでもわかることだ。