一九二一年二月十四日。中之島中央公会堂「借家人同盟大演説会」。
酒井隆史はいう。
「騒然とするなか、壇上に立った弁士たちの演説は、かたっぱしから中止命令。会場の空気はますます荒れていき、『凶漢を殺せ』『無能警官』といった不穏な怒号が会場に飛び交う。大杉栄からの電報を読み上げると、ようやく興奮は収まった。すでに、あの大杉栄一派がやって来るということで大阪府警の高等課は神経をとがらし各署の高等刑事があちらこちらでうごめいていたという」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.342」青土社 二〇一一年)
このとき大杉栄は腸チフスで来阪していない。にもかかわらず大阪府警はそこに「いない」大杉をなぜそれほど警戒する必要があったのだろう。
大杉の来阪はその八月のこと。警察は尾行を怠らなかった。しかし報告をみるとこれといった記載はない。
「もともと、重大事のさいに決まって大阪にいるといわれる大杉が、この時期にもたまたま大阪に立ち寄っていたことはよく知られている。むろん、警察はピタリと張りつき、九日の来阪から十五日の帰京まで、その一挙手一動をも見逃さずとばかり警戒怠りなかった。その努力の結果、いまにいたるまで残されている尾行巡査の報告によれば、『騒動に関係の有無明らかならず』(『大阪府警察史 第二巻』、七一頁)である。警察によるものだけでなく、運動史においても記述はほとんど変わるところがない」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.365~366」青土社 二〇一一年)
一方、米騒動その他の諸問題をめぐり大量の労働者が詰めかけた八月十一日天王寺公園公会堂演説会場。
大阪府警が重点警戒地区としたのは「新世界」。ここを突破されるとなると大群衆は「郭内」になだれ込むことになってしまう。「郭」というのは「飛田遊郭」。警察は何がしたいのかしたくないのかよくわからない。確かなのは「新世界」から紀州街道をまたぎ「飛田遊郭」まで労働者大衆に占拠されることは絶対に許さないという姿勢である。なぜならそのルートこそ、大阪の大資本が<欲望する下半身>そのものだからである。しっかり包囲しておけばおくほどいくらでも儲けがあがる「利権の温床」をたかだか労働者風情に占拠されるわけにはいかない。一方大杉栄は刑事警察機構の動きよりはるかに冷静沈着だった。
「大杉栄はおおよそ事態の展開がみえたとき、おもむろに腰をあげ、武田伝次郎らのほか、二〇名ほどの尾行巡査をぞろぞろ引きつれ、深夜まで難波や日本橋、あるいは釜ヶ崎を歩いてまわったとされる。運動史の光のもとにあらわれた大杉は、ここからの大杉なのであった。事実の詳細は謎である。しかし次のことは確認できる。すでに大杉栄は、それが悪夢であれ幸福な夢であれ、騒然性の時代にあって、生きたまま夢みられる人であったということだ」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.368」青土社 二〇一一年)
この箇所の注釈にこうある。
「逸見吉三は尾行がそのまま家に入ってこようとしたとき、大杉が『お前たち、下がっておれ!』と一喝すると、ハッとして二〇メートルも飛び下がったという。このときの声の威厳が耳を離れないという。この逸話が知られずにいた理由について、吉三の回想は興味深い。『彼(大杉)は、昨日のひるまの活動について、いっさいふれず、誰にもしゃべらなかった。直造は何どかしゃべりかけては、口をつぐんだ。そしてしばらくして大杉の深謀遠慮、その大胆さと細心な心くばりに感謝する以外になかった。/第一に、大杉は直接その現場をみ、具体的な問題をとらえることによって、状況の核心をにぎり、その対応について判断していた。決して思いつきや、紙上で作品をたてたのではなかった。/第三に、この米騒動の発端での自分の活動について、大杉はまったくふれず語らなかった。/一時のヒロイズムや自己満足のために大言壮語したり、または仲間だけにでも洩らしていたらそれは後日きびしい取締りによって、かならず処罰の対象になっただろう。当夜あつまったものすべてにも塁がおよんだかもしれなかった』(逸見吉三『墓標なきアナキスト像』三一書房 一九七六年 八三~八四頁)」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.535」青土社 二〇一一年)
ニーチェから引こう。日本にとって東京は世界からの筆頭玄関口である。ゆえに都合のよくないものはほとんどすべて「机の下」へ注意深く隠されているのが常だ。
「自己観察に対する不信。或る思想が或る別の思想の原因であるということは、確定されえない。私たちの意識という机の上では、あたかも或る思想がそれに後続する思想の原因であるかのように、諸思想が次々と現われる。事実私たちは、この机の下で演じられている闘争を見ないのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下・二四七・P.147」ちくま学芸文庫 一九九四年)
フーコーやドゥルーズがのべた近現代ヨーロッパの国家的管理技法。「見ない」ように誘導されている。「見たくない」とおもうよう誘導されている。そして誘導されているということに気づかないよう極めて慎重に整理整頓されていく流れの中で常に「監視・管理」されている。
フロイトのいうイド。常は可視化されえず見えもしない<欲望>の暗黒世界。ところがそれが場所を大阪へ置き換えるやいきなり転倒を起こして「丸見え」になることがしばしばある。一九〇三(明治三十六)年「第五回内国勧業博覧会」の際、「クリアランス」さらた人々の多くは日雇労働者、ありとあらゆる貧困層、被差別部落民、在日朝鮮人、心身障害者(児)、障害を持つ大衆芸人ら。ここ数年でいえば「大阪万博」を前にどんどん推し進められてきた排除の論理と諸地域の「クリアランス」。政治的クリアランスというのは「浄化政策・ごみ掃除」などを意味する。この場合の「ごみ」は隠語的に用いられて「人間ごみ」と言われる。
生きていくに値しない人間、使い道のなくなった日雇労働者、重度心身障害を患い大阪の発展の「害」になると目される人々など。そこで大阪市府政が最初に手をつけたのが「あいりん労働福祉センター」閉鎖と強制排除によって最後の行き場を失った四、五人の中高年ホームレスだった。公権力を用いた「殺人」に等しいにもかかわらずマス-コミは報じていない。何十人もの警察官に取り囲まれそれをさらに遠巻きする機動隊車両。決定権を握っているのは今なお吉村維新にほかならない。