白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・重症な専門用語を避ける

2023年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

短歌・俳句というのは必ずしもリアリズムでなくてはならないわけでは全然ないとおもうことが少なくない。むしろフィクショナルな要素の取り入れを躊躇しないことで読者にとっては逆に情報・状況・環世界がよく伝わることもある。

 

(1)青空の下で話して別れた(尾崎放哉)

 

(2)どこ迄も雪の一本道(尾崎放哉)

 

放哉全集(筑摩書房)の中からまったくランダムに拾ってきた。(1)はそれだけですでにどこか悲しい。フィクショナルな読みとしては、大変身近だった故人の墓の前でその故人(死者)を相手に会話しているシーンであっても断然おかしくはなく、むしろどこにでも見られる風景のひとつとして、これといって誰も気にかけず足ひとつ止めず通り過ぎ去ってはばからないほど、ありふれた日常の中に溶け込んでいる。読者は単純素朴にリアリズムの枠組みにがんじがらめにされてばかりいるだろうか。ありえない。フィクショナルな側の読みを選択する読者も同じほどいるに違いない。

 

そこでフィクショナルな読みを選択した読者は次にどんなことを考えるだろう。(2)を接続させることは十分可能ではとおもえる。墓前を離れればもうひとりだ。もう冬の真っ只中だ。誰一人助けてなどくれない。

 

そういうことなら、詠み手の置かれた現在地について、読者は、手の混み入ったリアリズム抜きに、すっと入っていけそうな場合も「ままある」。鬱病、心臓病、統合失調症などの生々しい専門用語を用いずともこちらのほうが詠み手の心模様を伝えるに当たってはるかにエコノミカルでもある。もったいぶった句読点やわざとらしい改行を持ってくる手間も省ける。現在はまだその人が死んでいない場合、しかしその人が死んでしまったとしたらもう詠み手の行先はーーー。という意味がすいすい読者の頭に侵入してきそうでわかりやすいことが少なくないし何より「くどくない」と言うことは可能だろうとおもうのだが。

 

(3)よく笑ふ女と日まはりのあかるさ(尾崎放哉)

 

ある種の「狂気」に触れたい場合、こんな方法もあるだろうとおもう。「日まはり」=「あかるさ」なら、「よく笑ふ」は定型俳句でいう「季重なり」と同じことになってしまい無意味。こんな無意味を避けるためには最後に「あかるさ」が出てくるや否や「よく笑ふ女」は「あかるさ」に跳ね返されて「逸脱」あるいは「狂気」へ始めて豹変して収まるのだろうとおもう。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ207

2023年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十二月九日(土)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

癖のない猫はいないといえどもこればっかりは。「遊んでポーズ」をするので近づこうとしたら逃げようとするわけだが、逃げる際、振り向きざまにテーブルの脚で頭を「ごっ」とぶつける。外から大丈夫に見えていても顔周辺の怪我はあわや命取りになるため気が気でないこともしばしば。わんぱくというのはーーー。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。ワクワク・キングダム。ユーモラスというか日本の地方へ行けば近代以前からあり戦後なお残っていた懐かしくも怪しい「民俗」のひとこまに見えなくもない。その1。

後期高齢者が増えてきた日本のプログレ愛好家の年末を締めくくるこの一曲。その4。


Blog21(ささやかな読書)・名前がない

2023年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

ステレオタイプな表現なのだが。

 

「死んでいくものの最後の抵抗の味」(草野理恵子「名前を呼ぶ」『群像・2024・1・P.179』講談社 二〇二三年)

 

だからといって別のフレーズに置き換える必要があるかどうか。あるとすればそれこそ無数のエンタメ系小説のすべてをごっそり総覧して回るほかない。すべきだろうか。必要ない。むしろ取っかかりになる。

 

「かつて防空壕だった洞窟の入り口に水が湧き出て小さな池となった場所に、木で作られた魚籃観音が設置されたのだという。真っ暗で足元は水浸しだったので奥までは行けなかったがよく洞窟を訪れては遊びがてら手を合わせていた。いつも小さな蝋燭が灯っていた」(草野理恵子「名前を呼ぶ」『群像・2024・1・P.179~180』講談社 二〇二三年)

 

「真っ暗」で「水浸し」の「防空壕」に「すっくと」そそり立つ「観音」菩薩像。安易かつあからさまな性的メタファーのように見えもする。だが中原中也の有名な引用に至るまでもなく死への誘惑という命題と打ち重なってくる。「かつて防空壕」では大量の「おんな・こども」が死んだ。そして彼らには今なお「名前がない」。

 

ところが単純に「死への誘惑」とか仏教的観念とは異なる匂いが持ち味だろう。「防空壕」に「すっくと」そそり立つ「観音」菩薩像は死へいざなうのではなくもっと露骨に「死を要求している」としかおもわれないからである。

 

安物のホラーやオカルトとはまるで次元違い。殺された者たち、死の淵へ投げ込まれた者たち。失意のうちに大量消去された者たちの呪詛と残された者たちの側の償いというテーマは世界中のどこにでも見られるテーマ。償いというのは太古の昔からあった人身御供が有名だがその類種は枚挙にいとまがない。フレイザー「金枝篇」(ちくま学芸文庫・岩波文庫など)に幾らでもみえる。

 

殺戮された無数の被害者は次々と生贄(いけにえ)を要求して止まない。パレスチナへ話を持って出かけるとすれば同時に安倍首相射殺事件をも振り返って嫌でも注視させるだろう。失意の被害者は「死を要求する」。どんな古典、少なくとも日本の有名な古典だけでもほんの少しばかり振り返れば、ともすればありふれた話に思えるほど。たかが「短編」という勿れ。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて632

2023年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

末期癌の母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「京の鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。

 

漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。

 

昨日昼食。トマト(一個)。わらびの里「ちらし寿司」(80g)。

 

テレビ「家族法定」を見る。

 

昼寝。

 

昨日夕食。「博多おでん」のうち大根(一個)、ゴボ天(一個)、玉子(一個)、糸コンニャク(二束)。

 

テレビ「フィギュアスケート・女子ショート」を見る。

 

午後十時。就寝はスムーズ。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はジョニー・スミス・クインテット「STARS FELL ON ALABAMA」。