短歌・俳句というのは必ずしもリアリズムでなくてはならないわけでは全然ないとおもうことが少なくない。むしろフィクショナルな要素の取り入れを躊躇しないことで読者にとっては逆に情報・状況・環世界がよく伝わることもある。
(1)青空の下で話して別れた(尾崎放哉)
(2)どこ迄も雪の一本道(尾崎放哉)
放哉全集(筑摩書房)の中からまったくランダムに拾ってきた。(1)はそれだけですでにどこか悲しい。フィクショナルな読みとしては、大変身近だった故人の墓の前でその故人(死者)を相手に会話しているシーンであっても断然おかしくはなく、むしろどこにでも見られる風景のひとつとして、これといって誰も気にかけず足ひとつ止めず通り過ぎ去ってはばからないほど、ありふれた日常の中に溶け込んでいる。読者は単純素朴にリアリズムの枠組みにがんじがらめにされてばかりいるだろうか。ありえない。フィクショナルな側の読みを選択する読者も同じほどいるに違いない。
そこでフィクショナルな読みを選択した読者は次にどんなことを考えるだろう。(2)を接続させることは十分可能ではとおもえる。墓前を離れればもうひとりだ。もう冬の真っ只中だ。誰一人助けてなどくれない。
そういうことなら、詠み手の置かれた現在地について、読者は、手の混み入ったリアリズム抜きに、すっと入っていけそうな場合も「ままある」。鬱病、心臓病、統合失調症などの生々しい専門用語を用いずともこちらのほうが詠み手の心模様を伝えるに当たってはるかにエコノミカルでもある。もったいぶった句読点やわざとらしい改行を持ってくる手間も省ける。現在はまだその人が死んでいない場合、しかしその人が死んでしまったとしたらもう詠み手の行先はーーー。という意味がすいすい読者の頭に侵入してきそうでわかりやすいことが少なくないし何より「くどくない」と言うことは可能だろうとおもうのだが。
(3)よく笑ふ女と日まはりのあかるさ(尾崎放哉)
ある種の「狂気」に触れたい場合、こんな方法もあるだろうとおもう。「日まはり」=「あかるさ」なら、「よく笑ふ」は定型俳句でいう「季重なり」と同じことになってしまい無意味。こんな無意味を避けるためには最後に「あかるさ」が出てくるや否や「よく笑ふ女」は「あかるさ」に跳ね返されて「逸脱」あるいは「狂気」へ始めて豹変して収まるのだろうとおもう。