白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・通天閣は見ていた

2023年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

酒井隆史「通天閣」の一節で幸徳秋水のアメリカ行きについて触れた箇所がある。

 

「自由民権運動左派からマルクス主義、それから革命的サンジカリズムないしアナルコ・サンジカリズムへと向かった幸徳秋水の思想的転回についいてはすでにくどくどとふれるまでもない。筆禍事件の責を問われての獄中生活のあいだに、すでに萌芽をみせていたが、決定的な契機が、一九〇五(明治三十八)年十一月二十九日からおよそ半年間にわたるアメリカ訪問であった」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.415」青土社 二〇一一年)

 

その注釈に注目したい。

 

「この社会の核には『悲しみ、懊悩、神経症、無力感』などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある。日本近代史のある時点で、統治がうまく活用することを学んだ技法である。左派の側もこの技法をしばしば無批判にみずからのうちに導きいれ、ときには誇張したかたちで同化してしまっていた。もし『古い外皮のなかに新しい社会』というサンジカリズムの標語になにがしかの手がかりを求めるとすれば、この『新しい社会』は、私たちがいまここでさまざまな知恵や工夫によって、決して私たちが逃れることのできぬ『陰性』をたえず遠ざけることから出発しなければならない。これは主要には心がまえとか道徳の問題ではない。これは制度の問題であり、社会を変えることそのものの問題なのである」(酒井隆史「通天閣・第四章・P.541」青土社 二〇一一年)

 

わけても注目したいのはこの部分。

 

「この社会の核には『悲しみ、懊悩、神経症、無力感』などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある」

 

この統治の技法をいつも巧妙狡猾に用いるのは政府=行政の側だが反対勢力の側もこの技法に繰り返し陥る。原因=結果の因果論を無批判に信じてしまうと「体制/反体制」を問わず誰もがそうなる。その錯覚に。しかしなぜ錯覚だといえるのか。はるか昔にニーチェがいった。

 

「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)

 

当然それは「運命論」としてすべての人間をニヒリズムへ陥らせてしまう。もう何をしても無駄だと。決まってしまっているのだと。このまったくの錯覚を利用してその都度の支配層が巧みに利用するのが酒井隆史のいう新しい統治法である。

 

「この社会の核には『悲しみ、懊悩、神経症、無力感』などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある」

 

ニーチェ、フーコー、ドゥルーズに目を通したことがあれば今さら騙されるような人間はいないに違いない。ところがニーチェ、フーコー、ドゥルーズに関する参考書が山のようにうず高く書店に並んでいた時代を過ぎて多くの人々が忘れ去ってしまっているであろうと思われるこの時期に立ち至り、なぜか「大阪万博」というありえない大博打が打たれた。

 

さらにその話の内容はといえば、採算が取れるか取れないかという話にまで早くも突き進んでしまっている。どのみち「中止」はないらしいという「悲しみ、懊悩、神経症、無力感」にばかり日に日に「伝染させ」られ、各種報道を通して「人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法」にまんまと引っかかっている主に大阪人を見かけない日はないくらいだ。

 

しかしこの「この社会の核には『悲しみ、懊悩、神経症、無力感』などを伝染させ、人間を常態として萎縮させつづけるという統治の技法がある」という一節をもう一度読み返してみる必要があるのでないだろうか。酒井隆史の文章はなるほどこのような「統治方法」がまたしても用いられている、けれども、当事者たる市民は果たしてそれでいいのか?という問いかけでもある。それを見逃してしまってはせっかくの読書もそのために用いた時間も書籍代もまるで無駄になってしまうのでは、とかなり強い危惧を抱かずにはおれない。

 

「大阪万博」報道がなされているまさにその時、テレビカメラが回っていないそのあいだ、大阪府市民の目の届かないところで吉村維新は何をやらせていたか。釜ヶ崎ノ「あいりん労働福祉センター」のほかに行くところのないたった四、五人の無力かつ高齢なホームレスを機動隊まで動員して徹底的に暴力的強制排除していた。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ212

2023年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十二月十四日(木)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日もエアコンの効いた部屋のソファ。気晴らしにテレビを見ている母のそばで勝手にのびのび。行儀はわるいがとても気分はよさそうで何よりだった。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。セイ・シー・シー。年末年始にディスコ-ダンスというのも忘れがたい。その1。

後期高齢者が増えてきた日本のプログレ愛好家の年末を締めくくるこの一曲。その9。


Blog21・性的同意サービス「キロク」と「デジタル管理」

2023年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

意味不明というよりますます問題をいたずらに複雑化させていくばかりのように感じる。問題は「暴力」ではないのか。

 

そこで思い出した。消えそうで消えない報道。

 

宝塚歌劇団だけの問題かということがささやかれている。日大はどうなのかというもっともな話とともに。ニュース報道を見ると宝塚歌劇団ほどには見かけない。急にしぼんだ感じがする。ちなみに「日本 暴力」で検索してみよう。 

 

(1)映画「日本暴力列島 京阪神殺しの軍団」。むむ。

 

(2)「日本はなぜ性暴力被害者に冷たいのか」。これはつい先日判決があったばかりのニュースのひとつ。

 

(3)「スポーツ界における暴力行為」。根絶しがたいからといって放置しておくわけにはいかない。さらにこれ、大学生ともなるとスポーツ推薦で入ってきた体育会系学生に対する気配りひとつ取っても疲れ果てる。歩く「成長株」のようで常に距離を取っておかないと万が一怪我などさせてしまった日にはどんな目に遭わされるか知れたものでない。「日大が全力で潰しにいく」発言は生々しかった。

 

(4)「植民暴力」。旧植民地が舞台。その傷跡は今なお世界の至るところに残っている。

 

(5)「災害と性暴力」。現場を目撃したとしよう。そのとき「あなた」はどうするか何もしないか。「泣き寝入り」している被害者はいまもたくさんいるわけだが。

 

(6)「日本企業 職場内暴力」。PTSD被害者多数。「泣き寝入り」もこれまた多い。

 

(7)「宗教と暴力」。というよりパレスチナ報道に接するたびに思う。「信仰の暴力/暴力の信仰」。

 

(8)「悪党・ヤクザ・ナショナリスト」。書籍名。それにしても大雑把というか、なんともはやステレオタイプなタイトル。

 

次々出てくるのだが、とにかく多いのは「パートナーや恋人からの暴力」といった系列。さらに「家庭内暴力」。今もなおというほかない。

 

「キロク」に戻れば、その導入以前にこの問題があるだろう。

 

「間違いなくわたしたちは、デジタル警察国家の時代に突入している。デジタル機械はあの手この手でわたしたちの私的な事実や行動を、健康から買い物の習慣、政治的意見から娯楽、仕事上の決定から性行為にいたるまで、すべて記録しているのだ。今日のスーパーコンピューターがあれば、この莫大な量のデータを各個人のファイルにきれいに仕分け整理し、すべてのデータに国家機関や私企業がアクセスできるようにすることが可能である。しかし事態を真に一変させてしまうのは、デジタル管理そのものではなく、脳科学者お気に入りのプロジェクトだ。デジタル機械がわたしたちの心を直接読み取れるようにする(もちろんわたしたちには知られずに)のである」(ジジェク「あえて左翼と名乗ろう・6・P.114」青土社 二〇二二年)

 

何も知らされていないに等しいわけだが。

 

常に揺れ幅の激しい領域にあまりに安易にデジタル警察国家が介入するというそのこと自体がまず問題だ。


Blog21(ささやかな読書)・論理にやすらう

2023年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

秩序だって考えないとかえって遅れる。できることはできるうちに片付けておかないと後で嫌な目に合う。考えるまでもなく論理的態度というのは日常生活を送っていく上でとても大事だ。少なくとも重度うつ病を患う身であれば。後になって見上げるような大量の宿題らしきものが山積している机の前に座らなくてはならないのは避けたい。しかしどれほど大量であろうとちっとも苦しく感じない作業というものもなくはない。古川日出男のいう「休める仕事」。自身に当てはめてみた場合、それが最も近いようにおもえる。

 

「休める仕事とはなにか。『それをしている最中にも拘束されない自分(自己)が現われる』仕事だ」(古川日出男「問いの立て方が間違っているのではないか?」『群像・2024・1・P.147』講談社 二〇二三年)

 

「群像」(一月号)の特集は「休むヒント。」。執筆陣は三十二人。一日ひとつずつなら一ヶ月は持つ。けれどもそれだけではとうてい持たない。物足りない。気分的には。ぱらぱら見ていて最初に目に止まったのがこのエッセイのこの部分。

 

「休める仕事とはなにか。『それをしている最中にも拘束されない自分(自己)が現われる』仕事だ」

 

もっとも、作者自身がいうようにそんな仕事ばかりほいほい舞い込んでくるような恵まれた人間はほとんどいないだろう。この世に生を受けた時すでにかなり有利な立場に置かれた人間でさえ生きていれば生きているほど思いもよらぬ方向へ進路を向けていたと気づいた時点があにはからんや座礁地点それ自体だったという人間は無数にいる。

 

「休む」という漠然たるテーマよりもどちらかといえば不安材料が減少しているある種の「状態」を模索する。いつものことだが。「くらげ」のようでありたいなどとひとつも思わない。逆に「『それをしている最中にも拘束されない自分(自己)が現われる』仕事」に就ければどんなにいいだろうとおもう。秩序だって、論理的に、できれば苦しそうな課題から順番に、前もってとっととこなしておけば後はずいぶん楽しい時間を分割享受することができる。夏休みの宿題とほとんど変わらない。

 

ところが「うつ病」の場合、世間の声というのは、何かといえば「休め、休め」とやかまし過ぎる。なるほどそれで症状が改善してくれるのならとっくの昔に回復し職場も見つけ仕事も順調にこなしているに違いない。しかし実態はどうか。それで救われる患者はまだまだずっと恵まれているとしか言いようがないと映って見えることがしばしばだ。そんな感覚がもう何十年もつづいている。

 

趣味を持て。やりたいことを見つけろ。適度な休憩を。馬鹿馬鹿しい。そんなことはこれまで何度もやってきた。にもかかわらず悪化の一途をたどるか、まずまずの状態の「現状維持」がやっとだ。気づけば「うつ病」治療に専念してはや二十年以上が経っていた。これからどうなるかはわからない。

 

「休める仕事」を定義したあと「休めない仕事」について書かれている。読み進めるとなるほどとおもう。あっという間もないエッセイだが、そのあいだは気持ちがよかった。


Blog21・「アンチ全体主義」入門(仮)へ向けて3

2023年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム

 

Blog21・「アンチ全体主義」入門(仮)へ向けて3 - 白鑞金’s 湖庵

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この二、三日でupした書き込みについて。「アンチ全体主義」入門(仮)というまでも行かない。そのまたほんのごく一部について触れてみたという程度。ネット普及以前より劣...

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