白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「頂き女子」に対する社会的リンチで儲けまくるテレビコメンテーター

2023年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

「頂き女子」について。問題の焦点をずらして社会的リンチを繰り返すテレビコメンテーター(自称=専門家含)。社会的地位も名誉もお金も《義務》もあるコメンテーターらによる犯罪的報道。しかしなぜそれが「焦点ずらし」であると判断できるのか。以下に上げた後半部分を見てほしい。

Blog21・「主観」は惜しみなく侵略する(補遺) - 白鑞金’s 湖庵

Blog21・「主観」は惜しみなく侵略する(補遺) - 白鑞金’s 湖庵

前回述べた(1)の場合。「職歴」が「淑女であることを証明する」という等式を全面的に肯定する価値観に立った発言を行なって恥ずべきところがない。日本全国に今なお残る...

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そこでもし来年の裁判で裁判官が途方もない判断を下したとしよう。「頂き女子」の側ばかりを断罪するというようなことになったとしよう。全米から見れば完全な「お笑い」。日本の裁判官がどの程度の社会性・学問・知識・偏見しか持ち合わせていないか、丸ごと鷲づかみにすることができるかもしれない。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ210

2023年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十二月十二日(火)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

ソファの背もたれの上に柿を置いて室温を保つようにしている。同じソファで寝そべるタマ。柿には手を出さない。どうしてだろう。梨にも手を出さなかった。なんともだらしのない姿勢でソファで何度ものびをする。エアコンの入った午後の室内を満喫して心地良さそう。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。今年の漢字「税」。といえば今なおこれにとどめを刺す。RCサクセション「ブン・ブン・ブン」。思春期の痛みや卒業さらに大人はわかってくれない系ソングとは次元違い・桁外れのロックを久保講堂で堂々とぶちまけ歌いのけオーディエンスを熱狂の渦に叩き込んだ隠れた名曲。

清志郎のユーモアセンスの幅広さに呆れるほかない「パープルヘイズ音頭」。

後期高齢者が増えてきた日本のプログレ愛好家の年末を締めくくるこの一曲。その7。ふたつのテイク。前者はMV入りのごくふつう。後者は海外でいう“Teacher”と日本語の「先生・教師」との違いをニュアンス的に浮き彫りにするライヴ版。


Blog21・殺す以外の方法は

2023年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

ネットをちらほら。

 

十一月二日の大津地裁。

 

八十四歳男性(夫)が八十二歳女性(妻)の首を絞めて殺した事件。

 

問われたのは「承諾殺人」の罪。

 

殺す以外に方法はなかったのか。ある。複数ある。

 

ところが地方の惨状というのはーーー。

 

「周囲になんとかできなかったのか」とか「一方的」とか早くも様々な色合いの主張で埋め尽くされていくネット画面。家族というのは言うほど単純ではない。ひとくくりにどうこう言えるようなケースでない場合が圧倒的多数。「言うほど~ない」というのは「言葉にできないくらい」とか「言語化不可能」とかを指す。

 

構造的複合性抜きに言語化不可能なのはもっともな話。どんな裁判官が担当するかも大いに問題を左右する。さらに外野の口出しを無制限に許して憚らない悪口雑言の雨あられ。これらの言葉をひとつ残らず懇切丁寧にAIが拾い上げてデータ化していくとすれば、それこそ日本の未来はたいへん暗いとしか言いようがない。東京の真ん中あたりで適当に居眠りしていても「仕事になる」監督官庁の怠慢は言わずもがな。

 

殺す以外の方法は複数ある。というより、ずいぶん前からメニューは用意されていた。ところが周知徹底されるはずはない。官民ともに嫌がった。すべての官民というにはほど遠いわけだが。なぜ「ほど遠い」か。

 

例えば、六と五という目が出たとしよう。たちまち六が世界を圧倒するという不可解な「民主主義」がひとつも変わらない以上、何が起こってくるか。当然のことながら、というほかない事態が続けざまに強行される。といえばわかるに違いない。

 

セーフティ・ネットとして起動しようと準備されていた複数のメニューは次々狙い撃ちされ潰された。それが一九九〇年代以後いわゆる「平成」を通してずっと条件として作用した。そのとき止めに入ってこなかった人々が何をいまさらという気は大いにするものの、周知徹底されたとはとてもではないがいえないことも考慮しないといけないだろうと思う。

 

社会保障「制度」というものは利用されないとばんばん消去される。当たり前。なんと日本は、驚くほうがどうかしているわけだが、利用しない利用されない状況が打ち続いた。大きな原因の、それがひとつ。さらに何でもかんでも「民営化」という日本型「全体主義」が立ちはだかった。それがふたつめ。結果的にやむなく廃止されるに立ち至った機関やじわじわ「統廃合=実質倒産廃業」へほとんど意図的に追い込まれた機関があまりにも数多い。場所を塞いだのは日本型「民主主義」。

 

そのあいだ。「あなたたちはいったいどこで何をしていたのでしょう?」。高笑いが聞こえてきそうだ。

 

少子高齢化の大波が地響き立てて日本全土に襲いかかることは一九七〇年代すでにわかりきっていた。「なのにあなた、どこで何していたの?」。高笑いは限度を忘れる。

 

ただ、例外的なケースが一方であることも事実だ。「民営化」が速度を忘れ「自分をも忘れ去る」まえのこと。

 

幾つもあるといえども、これはプライバシーの観点からなかなかupできない。できるとすればさしあたり自分自身のことについてしか見あたりそうにない。ほんのわずか。ごく一例でしかない。それでよかったら、少しのべたい。

 

舞台:京都。出演:ブログ主とその周辺。

 

夜間救急というシステムがある。当時の京都市内への搬送先は原則ふたつ。(1)京都府医大。(2)大和病院。

 

もし夜間に倒れるようなことがあれば(1)「府医大」(ふいだい)と口にするよう常日頃から念押ししていた。(2)はいけないというわけではなく、ただ単に知らなかっただけの話。

 

ともかく、(1)でアルコール・薬物依存が疑われた場合、何をどうすればいいか、府医大の当直医による指示は決まっていた。伏見区にある開業医への紹介状がすみやかに発行される。休日をはさむ場合、休日に見合う最低限度の薬(主に標準的抗不安薬および睡眠導入剤)が処方される。当時の標準はジアゼパム(抗不安薬)とニトラゼパム(睡眠導入剤)。しかしこれで寝られるとしたら不思議だ。眠れない。眠れないながら休日をはさんで紹介された伏見区の、ある意味有名な、開業医までたどりついた。

 

あとは順調。よく知られている問いに答えるだけ。「毎日通いますか、それとも入院しますか」。一も二もなく入院を選択。翌日くらいには専門病院へささっと入れた。なんと空いているベッドがあった。しかしもしほかの誰かに相談していたとしたらそう上手くことが運んだかどうかははなはだ疑問。うまく行かなかった可能性のほうが途方もなく大きい。夜間の場合、府医大(ふいだい)というたった四個のひらがらが当時の近畿圏最速かつ最短ルートだった。魔法のような実話。

 

入院先の病院の名前。近畿一円でなぜか「悪名高」かった。ところが実は「噂」とはまるで違う。全然違う。はるかに違う。「噂」というのは「噂」を垂れ流しつづける人々がいて始めてあたかも事実のように流通する危険この上ない、根も葉もなく、当てにできうる「十分な根拠」一つない「罪深い」ものに過ぎない。これまた「言葉」の問題。「噂」は常にそうだ。ネット上にあふれかえるデマは実現したポストモダン的巨大化のひとつの現象に過ぎないといえよう。

 

今はかつてより逆にややこしくなった。SNSは一般論ばかり。一般論の山また山。海また海。地方都市の苦悶はその頃すでに始りかけていた。そうでない恵まれた生活環境が今なお残るのは東京都二十三区や大阪市といった大都市のみ。そこでたまたま見られる成功談がマス-コミを通して語り継がれマス-コミを通して流通増殖するような事例ばかり挙げ立ててその気になれるほうがどうかしているというほかない。なおかつインボイスがなんとかしてくれるというのは輪をかけて横着な単なる妄想の域を出ない。

 

なお、もし万が一の際迷わず「京都府医大」を選ぶよう家族に念押ししていた理由のひとつに、学生時代以来の信頼感がある。一九八〇年代後半。京都府医大の学生サークル「新聞会」と自身が所属する関西大学の学生サークル「新聞会」とは年に二度ほど情報交換の場を設けていた。落ち合う場所は京都大学吉田寮。

 

関西の主だった大学で統一教会を始めとするカルト団体がどれくらい霊感商法を始めとする悪質きわまりない勧誘活動を展開しているか、常に情報がスムーズに入ってくる体制を維持継続していた。京都府医大の場合、一学年約百名の医学部生が毎年入学してくる。そのうち何人かの学生は早くも統一教会員かその支持者。ところが六年間も顔をあわせていれば百人のうち誰が統一教会系医学部生かそうでないかはひと目でわかるようになってくる。そして統一教会系学生の場合卒業すると、なぜかはわからないのだがほとんどが府医大に残ろうとはせず、いつの間にかどこか他の都道府県の病院へ勤務して医師の立場を狡猾巧妙に利用しつつ重症患者とその家族らをカルト団体支持者へ洗脳することに励んでいた。京大新聞会の医学部学生もそのことは重々承知しており統一教会と繋がりのある医学部生には気をつけるよう医師になってからも怠らず目を光らせていた。

 

そんなわけでもし自身が夜間に倒れ救急をという事態にもしなればタクシーであれ緊急車両であれ行き先は迷うことなく「府医大」(ふいだい)を指定してくれるよう身近な人間にあらかじめ告知していた。間違っても統一教会と繋がりのある医師やその影響力の強い病院への搬送を避けるため、活かされた知識はすでに学生時代の経験にしたがった。その結果今なおかろうじて生きることができているのは確かである。断言できる。

 

それにしても思うのはいつものことだがマス-コミの罪。

 

どす黒すぎる。


Blog21(ささやかな読書)・ほとんど無視される人々

2023年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

岩川ありさは時折り前提に立ち返ってくれる。

 

「養生とは、必ず、この世界とつながっていることがわかる。私が養生するにはこの世界を養生していかなければならない」(岩川ありさ「養生する言葉(7)」『群像・2024・1・P.376』講談社 二〇二三年)

 

とりわけ今回はパレスチナに触れないわけにはいかない。スーザン・ソンタグが引用される。ソンタグの文章から「反同情論」と呼ばれる実にもっともな箇所のなかで「われわれの特権」というフレーズがあるのだが、この場合の「特権」とは何か。噛み砕いてこう述べる。

 

「ソンタグのいう『特権』を持っている人とは、おそらく、すぐに映像装置のチャンネルを変えたり、スイッチを切ることができる人たちのことだ。あるいは、冷笑的であったり、応答責任を棚上げできる人たちのことを指しているようにも思う。自分とは関係がないことであると言い切れるような意味での『特権』。それはすぐに手放すべきだろう。そして、それはあなたの『特権』だと指摘されたときほど、これは私の『特権』ではないといってしまいそうになる。だが、『特権』と指摘されたことの内実を認め、ひとつひとつを自己欺瞞に陥らないかたちで検討することなしに私は自分の優位を手放せないだろう」(岩川ありさ「養生する言葉(7)」『群像・2024・1・P.379』講談社 二〇二三年)

 

もっともだろう。さてしかし、ここまでは初歩的な話。岩川ありさが思い起こさせようとするのは次の箇所。

 

「ソンタグの言葉は反語法である『人々は明るい展望が開かれると思っている、と考えた人が本当にいたでしょうか(いや、いない)』という用いかただ。『いや、いない』の部分に力点が置かれており、それこそが主張になっている。けれども、岡は、この言葉を、字義どおり、疑問文として読むのである」(岩川ありさ「養生する言葉(7)」『群像・2024・1・P.381』講談社 二〇二三年)

 

いつも「反語に違いない」というステレオタイプな読みしかできなくなっている読者の中の半人前な部分、いわゆる「優等生」的要素を切り捨ててみないとわからない。「反語か、さもなくば」とすれば無数の選択肢が一挙に広がる。けれどもその中から岡真里はあえて「反語法ではなく」《真に受けて》「考えたい」という。

 

だが「《真に受けて》考えたい」という態度がもしデリダまがいの脱構築でしかないとすればどうなるだろう。後期デリダが陥り抜け出せなくなったある種の罠。批評というより「もはやモラル」レベルのものへ向けて卑猥な「まなざし」をもったいぶりつつずらして見せながら、しなくてもいい無駄な動作、「もはやモラル」をさらに「モラルする」態度を取りたがり、いつの間にやら「モラリスト」を演じており、何十年もかけて逆に地域紛争を長引かせたばかりか長引かせることで現在のところ軍事産業を支援するという結果をもたらしている。そしてその信者たちは、ともすればたったひとつの「楽ちん」この上ない知的遊戯への転倒という目も当てられない反ニーチェ的大惨事へ退行して留まるところをしらない。

 

それはそれとして岩川ありさは明確に答える。

 

「文学にできることはあるのか。

私の答えも、Yesだ」(岩川ありさ「養生する言葉(7)」『群像・2024・1・P.383』講談社 二〇二三年)

 

気持ちはよくわかるのだが読者としてはもう少しつづけてみたいと思う。

 

文学で戦争を止めることはできるか。できない。「抑止する」ことへ働きかけることはできる。だが決定権を有するのは文学ではまるでなく政治である。

 

「養生」というテーマへ戻れば、SNSの限界が思いのほか大きい点に言及している。とても重要なポイントだろう。岩川ありさの今回の連載はパレスチナ問題についてなのでここでは触れていない。しかしことと次第によろうがよるまいがSNSの限界に関し今の日本は極めてリアルな問題に直面している。わけても「自殺」。

 

例えば日本には「命の電話」が設置されているけれども、その効果はどうか。あまり期待されなくなった。藁をもつかむ思いで始めて「命の電話」にすがりつく人々の中で、さらにメンタルヘルスの対応について「マニュアル」ひとつ知らないといったケースに限り、一定程度の効果が見られるというくらいでしかない。効果が見られる場合でも賞味期限がある。よく持って「三ヶ月」。マニュアル対応しかできないのならほとんど始めから電気料金の無駄。

 

そこでさらにSNSを踏破しようとしてみても目につくのは一般論ばかり。一般論の山また山。海また海。

 

思い切って精神科や心療内科に飛び込んだとする。東京都二十三区や大阪市内を除くほぼすべての地方都市では精神科や心療内科の開業医の絶対数が絶望的に少ない。紹介状があってなお三ヶ月待ちなどというケースは今やざら。かかりつけ医にかかっている患者はどうかといえば、患者数があまりにも多すぎるのか、一度の診察の持ち時間がきわめて限られてしまっていて患者の側がほとんどいつも遠慮しなくては肩身のせまい思いをしてしまうほど他の患者がわんさと詰めかけているという痛すぎる実態がある。

 

今後、大量増殖した後期高齢者が堰を切ったように押しかけてきそうな雰囲気立ち込める日本の地方のメンタルヘルス。わかりきっていた話。にもかかわらず厚労省はこれまで何一つしてこなかったのだろうか。一度も考えたことがないのだろうか。おぞましいのはこれまた文学ではなく行政・政治である。

 

ところで、ほとんど機能不全に陥りつつある「命の電話」について、その責任がもしどこかにあるとして、ではいったいどこに責任があるのだろう。


Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて635

2023年12月12日 | 日記・エッセイ・コラム

アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

 

末期癌の母の朝食の支度。今朝は母が準備できそうなのでその見守り。

 

午前六時。

 

前夜に炊いておいた固めの粥をレンジで適温へ温め直す。今日の豆腐は藤野「京の鍋とうふ」。1パックの四分の一を椀に盛り、水を椀の三分の一程度入れ、白だしを入れ、レンジで温める。温まったらレンジから出して豆腐の温度が偏らずまんべんなく行き渡るよう豆腐を裏返し出汁を浸み込ませておく。おかずは白菜の漬物。

 

漬物は浅漬けよりさらに塩分をきった程度。タッパーに移して冷蔵庫で保存しておいたもの。

 

昨日昼食。トマト(一個)。ちくわ(一本)。

 

テレビ「家族法廷」を見る。

 

昼寝。

 

昨日夕食。寿司ネタ(七個)。

 

テレビ「ONE DAY」を見る。

 

午後十時。就寝はスムーズ。

 

参考になれば幸いです。

 

今朝の音楽はジョニー・スミス・クインテット「MOONLIGHT IN VERMONT」。