白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・「やせ薬」、もうひとつの問題

2023年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

前に「女性向け」雑誌について触れたことと重なる。バルト「モードの体系」(みすず書房 一九七二年)にあるようにヴィジュアルに何らかの「ナラティブ/ナレーション」が貼り付けられるやそれはただちに同調圧力として作用する。雑誌媒体しかなかった頃でさえ途方もなく多くの痩せた女性を「美」として取り扱ってきた名残りだが、いまやSNSを介してその猛威は留まるところを知らない。痩せていなければ「人間でない」とでも言いたいかのような論調があちこちに見られる。それは市販薬か闇ルートかを問わずずいぶん「儲かる」お安い方法のひとつだ。これまでにさんざん指摘されてきたことでもある。

 

ところで「やせ薬」依存者といえばただ単に、いわゆる「美人」志願者ばかりだとも限らない。かつて覚醒剤がそうであったように常に空腹状態であることが多くなると身体は何を欲するようになるかという点に目を止めない限り、もうひとつ、あるいはそれ以上の重大問題がともすれば見えなくなってしまう。薬物を用いてもたらされる空腹状態というのは、次に服用する薬物の「味」を格段に「美味しい」ものへ次元移動させる効果をもつ。

 

「痩せ方」がへんてこ。だけではない。実にシュールな現代アートのような体型へどんどん「畸形化」していく。本人が止めようと思っても遅い。「やせ薬」がもたらす特異な空腹状態が呼び寄せるさらなる薬物の「うまみ」を手放すことがもはや無理になっていることからやって来るべくしてやって来た完全な薬物依存にほかならない。

 

返還前の香港。増改築を重ねに重ねた「九龍城」と呼ばれる巨大住宅があった。内部のあちこちに「阿片窟」があった。そこを訪れる阿片依存者はこれでもかといわんばかりに痩せていた。とことん痩せて空腹状態であること。最も「美味しい」阿片吸引方法の前提条件がまずもって自分の身体をそのような「畸形」状態に置くことだった。フランスのヘロイン常習者たちも同様。とにかく痩せること、そして食事を摂らないこと。ヘヴィ級の薬物を「至高の美味」として味わうための礼儀作法のようなものだ。

 

とはいえ、日本ではタバコ、アルコール、その他の医薬品市場が巨大な既得権益として長年立ちはだかってきたため、今回の市販薬問題にしても結局は既得権益の圧倒的勝利を確認するにとどまった。しかし海外に目を向けると、日本では違法とされているドラッグ(アムステルダムのマリファナ・カフェの類種、ハワイの観光名所を一日中行ったり来たりしている各種ドラック販売人の商品の類種など)で、ある種の加工を施せば日本でも今後医療用薬物として解禁される見込みのものが候補として幾つか研究中ではある。

 

アメリカの場合はもっと複雑であって、これまでの違法薬物を少しずつ解禁していくことでちょっとでも税収を上げていかないと国が持たないという側面もあるといえる。


Blog21(番外編)・二代目タマ’s ライフ213

2023年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

二〇二三年十二月十五日(金)。

 

早朝(午前五時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

朝食(午前八時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

昼食(午後一時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

夕食(午後六時)。ピュリナワン(子猫用)その他の混合適量。

 

今日もソファで大あくび。のびのびしてくれているのでひとまず安心ではある。ソファの背もたれの上には常温を保つために柿を乗せている。この温度がいいというのはそもそも末期癌闘病中の母。一方タマは柿にはぜんぜん関心がない。タマの関心はどこか。もっぱら調理済みの人間向け食事。飼い主が食卓へ向かおうとしたらその向こう側へぬっと顔を出す。その顔がなぜかコミカルなので怒る気になれない。猫だな、とつくづく。

 

黒猫繋がりの楽曲はノン・ジャンルな世界へ。セイ・シー・シー。年末年始にディスコ-ダンスというのも忘れがたい。その2。

後期高齢者が増えてきた日本のプログレ愛好家の年末を締めくくるこの一曲。その10。


Blog21(ささやかな読書)・悦ばしい休息

2023年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

今月号の特集で目に止まったエッセイを先に古川日出男から引用した。つづ井が書いているものも内容は同じだと感じる。「休む」というのは周りからどんなに忙しく映って見えていようとそんなことは二の次三の次であり、本人がそれこそ「猿」ででもあるかのように「うきうき夢中に打ち込めて」いれば、それは十分「休み」でありうる。お金になろうとなるまいと。

 

「友人たちにも舞台をおすすめして一緒に観に行ったり、『推し』と呼びたい俳優さんについて語ったり、お互いの新しい趣味についてもおすすめしあったりーーー気付けば、まるっきり学生時代のままというわけにはもちろんいきませんが、私が大好きだった『休息』がまたできるようになったと感じました」(つづ井「ご自愛しまくろう」『群像・2024・1・P.133~134』講談社 二〇二三年)

 

こういう生活環境を手にいれることができたらどんなにいいだろうと思わない日はない。つづ井は同じページでいう。

 

「これからも息継ぎしまくってご自愛しまくって、楽しく長生きするので、各位よろしくーーー」(つづ井「ご自愛しまくろう」『群像・2024・1・P.134』講談社 二〇二三年)

 

そこでふと思い出した。最近のことだ。パレスチナ問題について多くのマス-コミ評論家が口を揃えていっている。

 

「他人事ではなく自分事として考えよう」

 

一方、こんな話を見かけた。

 

「人間、どのみち自分のことしか考えていない。極論と言われても構わない」

 

読者視聴者としては残酷と思えぬでもない冷笑がふいに湧き起こる気持ちを抑えられなかった。「自分のこと」ばかり突き詰めて考えれば考えるほど一見「他人事」に見えることも「自分事」としてどんどん考え突き詰めていくほかなくなってくる。ゆえに後者は「極論」でもなんでもない。どこにでもごろごろ転がっているありふれた言葉遊びの域をひとつも出ない。

 

その意味で後者は「自分のこと《だけ》しか考えていない」とはとてもではないが言いがたい。しかし心配は無用だ。大丈夫。後者から入ったとすれば必ず前者へ出てしまう。前者から入ってもなお後者と同じ過程をなぞらないではいられない。なぜそうなるか。おそろしく古く、すでにカント「アンチノミー」で論じられた、もはやその後でしかないのでここでは省略してもいいだろう。知っている人々はたいへん多い。知らない人はただ単に知らなかったというに過ぎない。どちらの位置から始めるにせよいまからでも遅いということは決してない。

 

そしてもしこの作業に「《夢中で》打ち込む」ことができているあいだは少なくとも「休息」といっていいに等しい、とても貴重な時間を有意義かつ「休息」を兼ねて過ごすことができたと十分にいいうる。


Blog21・周庭「報道」をめぐる二、三の疑問

2023年12月15日 | 日記・エッセイ・コラム

朝刊をちらほら。

 

「周庭」。

 

香港民主化運動「報道」の目玉だった。アメリカへ行ったきり二度と戻らないつもりのようだ。しかし、果たしてそれでいいのかという気がする。アメリカ行きの是非が問題なのではなく、「天安門事件」の際もそうだったが、一度アメリカへ政治亡命した人々はその後どうなったか。アメリカの広告塔をやっている。自らが望む望まないを越えた次元でばんばん利用されていた。

 

周庭もそれで構わないという覚悟なのだろう。しかし周庭をそこまで追いやったものは何かという研究はなされねばならないだろう。一方中国で事業展開を図る日本企業は数多い。減少傾向が見え出しはしているがそれは香港民主化運動とはさしあたり関係が「ないとされる」市場原理的土壌においての話だ。この割り切り型がもっと問題にされないのはなぜかと首を傾げざるをえない。周庭が嫌がる中国共産党。一方中国でのシェア拡大を押し進めることが「許される」数々の日本企業。

 

日本企業が中国進出への意欲減少傾向を見せてきたのはインド市場が射程に入ってきたからだと言われているが、それならしかしインドに今なお残るアンタッチャブル(不可触民)差別問題はどうなのか。無視してくれれば市場に入れてやってもいいと言われればどう答えるつもりなのか。謎だらけだ。

 

ところでしかし、香港にいた頃の周庭に関する報道には最初から奇妙な違和感がまとわりついていた。覚えている視聴者はいまだに多いとおもわれる。「村上春樹」の小説の愛読者で日本の「アニメ」が好きだ。そういうイメージ。この時点ですでに引っかかりを感じた批評家が日本でも何人かいた。というのは、もし周庭がそんなふうに伝えて欲しいと言うとすればそれこそ日本に対する安易安直かつ露骨すぎる単なるアピールに過ぎないというほかないからだ。そう言えば日本全土がころりと周庭支持に傾くとでも考えているかのようだ。まさか。

 

「周庭」=<「村上春樹」の小説の愛読者で日本の「アニメ」好き>。この等式を作り上げたのは香港民主化運動でも中国共産党でもなく日本のマス-コミ。はじめから「演出家・脚本家」がいた。露骨な誘導報道についてどうも何ともおかしいと指摘したひとりに斎藤美奈子がいる。何年も前の時点から検証し直さないといけないだろう。