コジェーヴによるヘーゲル読解。再び強調される「否定性」の意味。さらに以下では、ヘーゲルの著作はヘーゲル自身の記述において転倒する。ヘーゲルの「神学」はその実「無神論」へ転化することが立証される。どこかパロディ。しかしこのパロディ的な論考の流れは、決してコジェーヴによる悪戯でもなければ、単なる「揚げ足取り」でもない。論証を追っていこう。
「したがって、人間的な実在である《自我》は、自然的或いは『直接的』な実在ではなく、弁証法的或いは『媒介された』実在である。したがって、《絶対者》を《主体》として捉えること(これがヘーゲルによれば本質的な点である)は、絶対者を《否定性》を含むものとして捉えることであり、単に《自然》としてばかりか《自我》ないし《人間》としても、すなわち創造的、歴史的な生成としても自己を実現して行くものとして絶対者を捉えることである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.365」国文社)
「このことは(新たな注解の後)上記の一節に続く文章の中でもヘーゲルが述べていることである。──†媒介するとは、〔弁証法的に〕自己を運動せしめながら自己自身との同等性を失わないことにほかならない。或いは〔また〕、それは自己自身へ帰着する反省のことであり、対自的に現存在する《自我》という契機であり、純粋の《否定性》であり、〔これを〕まったくの抽象に引き下して〔表現するならば〕──《単純・不可分な生成》である。†──(さらに新たな注解の後に)ヘーゲルはこれを敷衍して次のように述べる。──†今しがた述べたことを、《理性》は《合目的に働くもの》である、と言い表わすことも可能である。†──」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.365」国文社)
「《絶対者》が単に《実体》であるばかりか《主体》でもあると述べること、これは《総体的》には、《同一性》に加え《否定性》が含まれていると述べることである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.366」国文社)
「同一性」といってもみても、まったくの物ではない生きている人間は、常に既に「同一性」・プラス・「否定性」であるほかない。時間とともに時間として加速度的に「自然的存在或いは様々な物」に対してどんな些細な言動であっても働き掛けないでは生存し得ない。この場合の「否定性」は差し当たり労働であり、また最も巨大な形態を取るとしても労働形態を逃れることはできない。資本主義的労働過程の産物「核爆弾」はそうして誕生した。現状に甘んじることなく自然的所与の環境に対してどんどんずばずば働き掛けて自然的所与の環境を自らの思うがままに改変してきた人間と人間社会は遂に人間と人間社会を一瞬にして破滅させることができる最終兵器を完成させるに至った。
「それはまた《存在》は単に《自然》としてばかりか《人間》としても実在化されると述べることであり、結局、《理性》(=《ロゴス》)ないし《存在》を開示する意味を賦与された理路整然とした《言説》である限りで本質的に《自然》と異なるにすぎぬ《人間》は、所与《存在》ではなく創造的(=所与を否定する)《行動》である、と述べることである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.366」国文社)
人間の否定性が最もはっきり目に見える形態を取るのは「行動」という形式においてである。が、ハイデッガーは戦後、肉体的行動だけでなく、思考すること、ほんの僅かばかり考えるということだけでも、それは「行動」のうちに含まれるばかりか、「思索は、みずからが思索することによって、行為している」(ハイデッガー「『ヒューマニズム』について・P.18」ちくま学芸文庫)と述べている。
「《人間》が《言説》により《存在》を開示する弁証法的或いは歴史的(=すなわち自由な)運動であるのも、それはただ、所与を否定する行動によって実現すべき《企図》或いは『目的』という形で自己に現われる《未来》に基づいて生きるからであり、この行動によって自己を《仕事》として創造する限りで《人間》として実在するものだからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.366」国文社)
「《否定性》或いは《行動》(『《人間》の真の存在』である行為ないし行動)という根本的カテゴリーを存在論に導入したことにヘーゲル哲学(=『弁証法的』哲学)のすべての特徴は由来している」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.366」国文社)
「この事実からは、とりわけ、我々がすでに知っておりヘーゲルが次のような言葉で述べた帰結が得られる。──†これまで述べて来たことから生ずるさまざまな帰結の中で特筆すべきことは、知が《学》として或いは《体系》としてのみ客観的に実在するものであり、そのようなものとしてのみ叙述されうる、ということである。†──『《学》』或いは『《体系》』は、ヘーゲルにおいて、実在する弁証法的運動の仕上げられ《閉じられた》総体を完全に、したがって《円環的》に記述したものを意味する。実際、いったん所与《存在》の中に《否定性》或いは《創造的》《行動》を導入したならば、創造的かつ弁証法的な過程が《仕上げられた》と認めない限り、《絶対的》真理もしくは《総体的》かつ《決定的》な真理を主張することはできない。《仕上げられた》弁証法的過程の記述、すなわちその否定がもはや何ら《新しい》限界を生まぬ限界に帰着する過程の記述は、実際に《円環的》であらざるをえない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.366〜367」国文社)
「結局、自己の《体系》全体の本質的特徴を手短に叙述した一節を終えるに際して、ヘーゲルは、《存在》の弁証法的性格に関する自己の言明すべてを要約するならば、《絶対者》は《精神》である、と言いうると述べる。ヘーゲルは次のように表現する。──†《真なるもの》はただ《体系》としてのみ客観的に実在する、或いは《実体》は本質的に《主体》である〔ということ〕は、《絶対者》を《精神》〔である〕として言明する表象に表現されている。──この精神とは最も崇高な概念であり、本来近代とその宗教〔キリスト教〕とに属する概念である。ただ精神的なもののみが《客観的に実在するもの》である。すなわち、それは〔一方では〕本質的実在ないし《即自的に現存在するもの》であり、〔他方では〕〔それ自身及び他のものに〕《自己を関係させる》ものであり、《特有の仕方で限定されたもの》であり、《他的存在》でありかつ《対自存在》である。〔これは結局、〕このような特有の限定において、言い換えると自己の外に存在しながら、自己自身の内に留まるものである。すなわち精神的なものは《即自かつ対自的に》存在する──。このように《精神》として展開される〔ものとして〕自己を知り認識する《精神》が《学》となる。《学》とは《精神》の客観的実在であり、精神が自己本来の境地において自己に対して打ち建てる王国である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.367」国文社)
さて次の論考辺りから、ヘーゲルはヘーゲルの意図に反してヘーゲル自身を論破していくことになる。コジェーヴはその記述過程を慎重に検討する。
「ヘーゲルは、当初から、非キリスト教的な古典古代には未知であった自由かつ歴史的な《個体性》というユダヤ-キリスト教的な概念を《人間》に適用しようと望んでいた。だが、この『弁証法的』な概念を哲学的に分析しているうちに、この概念には有限性もしくは時間性が含まれていることを彼は見て取った。《人間》は用語本来の強い意味で《死すべきもの》、すなわち時間的に有限であり自己の有限性を意識する存在でなければ、自由かつ歴史的な個体とはなりえないということを把握した。このように人間を把握することによって、ヘーゲルは死後の存続を否定したのであった。すなわち、彼が念頭に置く《人間》とは《自然》の只中で生き行動する限りで実在するにすぎず、《自然的世界》の外では純粋の無なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.372」国文社)
「だが、死後の存続を否定することは、実は《神》自身を否定することである。なぜならば、《人間》は(《行動》により)自然を否定する限りで実際に《自然》を《超越する》のだが、にもかかわらず動物として自然の中で死んでしまうことで、自然の《外に》自己を据えるやいなや自己を《無化してしまう》と述べることは──《自然的世界》を超えては《何物》も存在し《ない》と述べることだからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.372」国文社)
「《非》-自然的《世界》、いわゆる『彼岸の』或いは『神的な』世界とは、実際には、《自然的世界》の時間的、空間的な枠を超えない《人間の》歴史的な現存在の『超越論的』(もしくは話として存在するだけの)《世界》でしかない。したがって《世界》の内に生きる《人間》の外に《精神》は存在せず、『《神》』はこの《自然的世界》の枠内においてのみ客観的に実在するにすぎない。そこにおいて神は《人間》が生み出す神学的な言説という形で現存在しているのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.372」国文社)
「神は《人間》が生み出す神学的な言説という形で現存在している」、とある。マルクスなら言うだろう。「神は《人間》が生み出す神学的な言説という形でのみ、またその限りでしか、現存在できない」、と。これは何も神に対する誹謗中傷ではない。むしろ人間の立場によりけりで、手前勝手に様々な神々(複数形)をどんどん創造して、そこから教えられる言葉は差し当たり暗記しておくだけの教材に過ぎず、実際の貨幣による施しなしには、ごく当り前の生計を立てて暮らしていくことすらままならない人間という生に対する真面目な批判であり皮肉である。しかし貨幣による施しを信徒に向けて与えるためには貯蓄並びに投資のための銀行を始めとする諸機構を経由するほかない。その意味で近代以降の宗教、なかでも世界最大を誇るユダヤ-キリスト教は銀行なしには存在できない。そのことは同時に世界最大を誇るユダヤ-キリスト教団体であっても、資本主義に隷属しており、貨幣を「神」として讃える資本主義に隷属する限りで、その金庫も貨幣も通帳も有効であると見なされているに過ぎない事情を自己暴露している。そして資本が大資本となり増々大規模な金融機構ができ上がればでき上がるほど、中流階級から貧困層に属している人々は資本主義的生産様式に縛り付けられずにはおれなくなり、従って自動的にいよいよ貧困の度を増していく。そのような中流以下から貧困層に属する人々は、なぜか軍事産業に投資して膨大な利益を上げている大資本と親密な関係を保つことでどんどん肥大化する宗教団体のおこぼれにすがり付かねば生きていけない構造になっている。皮肉といえば余りにも皮肉だが。とはいえ、どんなメガバンクであっても、その最大の顧客は個別的な大企業や大型宗教ではない。むしろ逆に圧倒的大多数を占める社会的存在としての一般大衆から預かっている預金の集積である。どれほど巨大なメガバンクであっても、それが銀行/金融機関である以上、その弱点の一つとしても強みの一つとしても、現実的には一般大衆から預かっている預金の集積が何より物を言っている事実があり、一般大衆を裏切るような行為は決してできないという限界がある。
「このように、ヘーゲルは徹底的に世俗化或いは無神論化された形でしかユダヤ-キリスト教的人間学の伝統を受け容れない。ヘーゲルが語る《絶対-精神》もしくは《実体-主体》は《神》ではない。ヘーゲルの《精神》とは、《自然的世界》の時間的-空間的な総体、しかもこの《世界》と自己自身とを開示する人間の《言説》を含む《自然的世界》の総体である。或いは同じことであるが、《精神》とは《世界-内-人間》である、すなわち《神》なき《世界》に生き、自己自身を含め現存在するものすべて及び人間がみずから創造するものすべてについて語る死すべき《人間》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.372~373」国文社)
「死すべき《人間》」、とある。「死ぬべき人間」あるいは「死刑囚」という意味ではまったくない。そうではなく、どうあがいてみても、いずれ死を迎えることが決定している人間、死ぬことから逃れることのできない存在者としての人間、ということを意味している。要するに世界中の「人間全員」。
「これが引用節の末尾において言外にヘーゲルの述べているものである。『《精神》』とは『《学》』《であり》、『《学》』とは《精神》の唯一の『客観的実在』である、と彼はそこで述べる。だがしかし、この『《学》』は《人間》の歴史的生成の果てに《自然的世界》の只中に現われるヘーゲル哲学以外の何物でもない。したがって、《精神》とは、完全な(=充足した)人間もしくは《賢者》の言説によってあまねく開示される限りでの《自然的世界》の時間的-空間的な総体以外の何物でもなく、そしてこの言説そのものはもっぱら《歴史》の中で人間によって発せられたすべての言説の真実の意味を統合したものにほかならない。或いはこれは次のようにも言えよう。ユダヤ-キリスト教徒が『《神》』と呼んでいた《精神》とは、実は、絶対的に《真》である限りでの、つまりかつて存在したもの、現在存在するもの、及び将来存在するであろうもの《すべて》を細大洩らさず正確に開示する限りでのヘーゲル哲学である、と」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.373」国文社)
「さて、ヘーゲルによれば、《存在》の言説による開示は、開示する存在者或いは言葉を話す存在者が本質的に有限的、死すべきものでなければ不可能である。したがって、ヘーゲルの《精神》とは実のところ『神的な』《精神》ではない(《死すべき》神々なぞは存在しないからである)。すなわち、《自然的世界》に内在し時間と空間とによって現存在の中に制限された自然的存在者をその『支え』とする《言説》であるという意味で、この精神は《人間的》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.373」国文社)
「自己の全哲学の本質的内容を要約するならば、《実体》を《主体》として解釈する、或いは《絶対者》を《精神》として捉えると述べればよかろうとヘーゲルが語るとき、それは、この哲学が何よりも《存在》と《実在するもの》との総体を完全かつ十全に開示する《言説》として己れ自身を哲学的に説明せねばならない、ということを意味している。この哲学は、《人間》がなぜどのようにして自己自身と自己が生きみずから創造する《世界》とについて理路整然と語るに至るかを解明することによってそれに到達する。しかもこの解明は、自由かつ歴史的な《個体》として捉えられた《人間》の現象学的、形而上学的、そして存在論的な記述である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.373~374」国文社)
いわゆる「世界精神」は、信仰対象としての神秘的存在ではあっても、実際に万能の「救う神」がどこかに本当に存在するわけでは全然ない。どれほど「神」に祈った人々であるにせよ、最終的にナチス・ドイツの絶滅収容所で遂行された大量殺戮の歴史を否定することはできない。ガス室の壁には死の苦痛に耐え切れず、密室の壁に爪で「神よ!」と掘り刻まれた後が残っている。この時、実際のキリスト教会は彼ら彼女らを救うことができたか?できなかった。むしろ逆にナチス・ドイツの圧倒的勢力の前にひれ伏して、否応なくナチス党を支持する側に回っていたことはキリスト教の歴史の中でも特筆に値する忘れてはならない過去であろう。
「だがしかし、《人間》を自由かつ歴史的な《個体》として記述することは、存在論的次元においては、人間を自己自身において、そして自己自身によって『有限』なものとして記述することであり、形而上学的次元においては、『現世』的もしくは時間的、空間的なものとして記述することである。現象学的次元において、それは人間を『死すべきもの』として記述することになる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.374」国文社)
「この最期の次元において、《人間》はつねに自己の死を意識し、しばしば自由にそれを受け容れ、時に知悉した上でみずからの意志で死を選ぶ存在者として『現われる』。このように、へーゲルの『弁証法的』或いは人間学的な哲学は、究極において、死の哲学(或いは同じことであるが、無神論の哲学)となるのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.374」国文社)
「レッテル貼り」。そのために死んだり殺されたりした人間は数知れない。だが同時に「レッテル貼り」なしに歴史が転回していくかどうか。少し考えてみたい。ナチス・ドイツにも旧ソ連にも新自由主義的アメリカにも抵抗したアドルノによる次の言葉は余りにも痛ましい現実を率直に述べてはいないだろうか。
「レッテル自身が一つの歯車なのだ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.419」岩波文庫)
二〇一七年三月十八日作。
(1)居心地が良過ぎる不気味だ
(2)解けないまま眠ってしまった机が固い
(3)でかでかと多数派の怪しい
(4)電子レンジで子宮こんがり浮気を味わう
(5)遅刻電車の酒臭さ求人誌を売る
(6)世慣れた声で新学期が近い
☞「《飽和》──システムの飽和は一つの転回点を示すと言うとき、われわれはシステム内に正反対の二つの傾向を区別できるだろうか。できない。飽和そのものが相対的なものでしかないからだ。マルクスが資本主義の機能を公理系として説明していたとすれば、それは特に、よく知られた利潤率の低下傾向についての章においてである。資本主義は、内在的な法則しか持たないからこそ、公理系なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226」河出文庫)
公理系についての論考を続けて見ていこう。
「資本主義は、宇宙の限界、資源やエネルギーの限界に直面するような振りをする。しかし資本主義はみずからの限界(既存資本の周期的な価値低下)に衝突するだけであり、資本主義が押しもどし移動させるのは、それに固有の限界だけである(利潤率の高い新しい産業における新しい資本の形成)。石油と原子力の場合がこれにあたり、二つが一諸になっている」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226~227」河出文庫)
「資本主義がその限界に衝突するのと。限界を遠くに押し退け、より遠くに設置し直すのは同時にである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「公理の数を制限しようとする全体主義的傾向が限界との対決であるとすれば、限界を移動させる傾向は社会民主主義的なものといえよう。ところがこの二つは他方なしでは進行しない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「異なった場所で同時に、または緊密に繋がり継起する時期に、他方が一方の上、さらには他方の中でというふうに、つねに同一の公理系を形成しながら進行するのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「典型的な例は、『全体主義と社会民主主義』とのあいだで曖昧な交代を繰り返す現在のブラジルだろう。一般に、公理系内の一つの場所から公理が除去され、別の場所に公理が付加されるとき、限界はより容易に移動する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「限界」は「移動する」、とある。限界であるにもかかわらず、境界線は常に既に移動可能/可動的である。カフカ読解で見てきた通り、この点は十分注目するに値する。
「公理レベルでの闘争を切り捨ててしまうのは誤りだろう。資本主義内、あるいは一つの資本主義国家内におけるすべての公理は、『回収』を意味すると言われることがある。しかしこの幻滅に満ちた概念はあまりよい概念とはいえない。資本主義という公理系のたえまない手直し、つまり付加(新しい公理の言表行為)と除去(排他的公理の創設)は、決してテクノクラートだけの課題ではない闘争の目標なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227」河出文庫)
「事実どこでも、労働者の闘争は、とりわけ派生的命題にかかわる企業という枠組を逸脱するものだ。闘争は直接、国家の公的支出を決定する公理や、国際組織(たとえば、多国籍企業はある国に置かれた工場の閉鎖を勝手に計画できる)にかかわる公理を対象にする。これらの問題を担当し、世界規模の労働にかかわる官僚機構やテクノクラートたちによる脅威そのものを祓いのけるには、局所的な闘争が国家レベルや国際レベルの公理を直接の標的としつつ、まさに公理が内在性の場に挿入される地点で行なわれなければならない(この観点から注目されるのは農村地帯における闘争の潜在性である)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.227~228」河出文庫)
「公理と、現実の生きた流れのあいだには、基本的な違いがつねに存在している。公理は、制御と決定の中心に流れを従属させ、その一つ一つに切片をあてがって、その量を計測する。しかし生きた流れの圧力、流れが課し、強いてくる問題の圧力は、公理系の内部において作用しなくてはならない。全体主義的縮小に対して闘争するためにも。公理の付加を追い越し、加速し、方向付けてテクノクラートたちの倒錯を妨げるためにも」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.226~228」河出文庫)
思い出そう。カフカ「城」における可動的な「柵」を。境界線は可動的である。資本主義的官僚主義的機構は民間であろうと役所であろうと、役割の分担こそなされてはいても、所詮、資本主義に隷属するほかない。いつも述べているように、民間の官僚主義化と官僚の民間企業化は同時かつ加速度的に浸透し合っていく。
「司法は、むしろたえず伝わって来る音(言表)のようなものである。《法の超越性は、抽象的な機械だった。しかし法は、司法の機械状鎖列の内在性のなかにのみ存在する》。『訴訟』とは、あらゆる先験的な正当化をこなごなにすることである。欲求のなかには裁くべきものは何もない。裁判官自身が欲求で充満している。司法も単に欲求に内在するプロセスにすぎない。プロセスはそれ自体がひとつの連続体であるが、それは隣接性からできている連続体である。隣接したものは、連続したものに対立するのではない。むしろその逆で、前者は後者の部分となる構築物、しかも無限定に延長できる構築物であり、したがってまた分解でもある。──つまりそれはいつでも、隣りにある事務室、隣りの部屋である。バルナバスは《事務局に入って行きます。でもそこはやはり全事務局の一部分でしかなく、さらに柵がいくつもあるし、その先にはまだ別の事務局がいくつもあります。彼はかならずしもさらに先へ行くことを禁じられているというわけではありません──こうした柵をあなたもある決まった境界のように思ってはいけません──だから彼が通りすぎる柵もありますし、そうした柵は彼のまだ通り抜けていない柵と違っているようには見えません》。司法とは、可動的でいつでも位置が動く境界線を持った、欲求のこの連続体である」(ドゥルーズ&ガタリ「カフカ・P.103~104」法政大学出版局)
コジェーヴによるヘーゲル読解。ヘーゲルの「死の観念」について。
「ヘーゲルはみずから考えるところ自己の哲学の本質的にして斬新な内容がどこにあるのか、この点を指摘することから出発する。彼は次のように語る。──†私の見解はただ《体系》そのものの叙述によってのみ正当化せられざるをえないものであるが、その見解によると、一切を左右する要点は、《真なるもの》をただ〔単に〕《実体》として把握し表現するだけではなく、また同様に《主体》としても把握し表現するということにある。†──この一文は、まずシェリング及び彼の『《実体》』としての『《絶対者》』の捉え方に向けられている。だがこのシェリングの捉え方はスピノザの捉え方を甦らせたにすぎず、他方そのスピノザの捉え方は伝統的存在論、すなわちギリシャ的或いは非キリスト教的な存在論の根本形式を代表するものである。したがって、ヘーゲルは自己の哲学を(カント並びにフィヒテの哲学、及びデカルト哲学の一部を唯一の例外として)先行するすべての哲学に対立させていることになる。ヘーゲル以前の哲学者は、タレスとパルメニデスとの後を承け、もっぱら『《実体》』の概念に執し、『《主体》』の概念もまた等しく本源的であり何物にも還元できぬことを忘れてしまっていたのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.360~361」国文社)
「哲学は、単に真理もしくは真なる記述であるだけではなく、さらに《真なるもの》の記述であり、そうあらねばならぬであろう。いったい《真理》が理路整然とした《言説》(=《ロゴス》)による《存在》と《実在するもの》との正確かつ完全な『開示』(=記述)であるならば、《真なるもの》とは、《言説により-その実在性において-開示された-存在》であり、したがって哲学者は、《存在》を記述するだけでは足りず、さらに開示された《存在》を記述し、言説による《存在》の開示という事実を説明せねばならぬことになる。哲学者は、《存在し》かつ現存在するものの《総体》を記述しなければならないのである。この総体は、実際には《言説》をも、とりわけ哲学的な言説をも内に含んでいる。したがって哲学者は、静的-所与-《存在》もしくは、《言説》の《客体》である《実体》のみならず、《言説》及び哲学の《主体》にも関わりをもっていることになる。すなわち、哲学者は自己に与えられた《存在》について語るだけでは不十分であり、自己自身についても語らねばならず、《存在》と自己とについて語る者としての自己を自己自身に解明せねばならないのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.361」国文社)
「換言すれば、哲学はなぜどのようにして《存在》が単に《自然》及び《自然的世界》としてだけでなく、《人間》及び《歴史的世界》としても実在化されるかを解明しなければならない。哲学は《自然哲学》に甘んじていてはならず、さらに人間学とならなければならない。すなわち、自然的実在の存在論的基礎に加え、哲学は《言説》によってのみ開示されうる人間的実在の存在論的基礎をも探求せねばならない」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.361」国文社)
「ヘーゲルは《真なるもの》を《主体》としても記述することを通じて、換言すれば人間的実在に特有の特徴を分析することを通じて、《存在》と《実在するもの》との《弁証法的》構造及びこの弁証法的性格の基礎にある《否定性》という存在論的カテゴリーを見いだす。彼が《真なるもの》と《真理》との《円環性》、したがって彼の哲学そのものの《円環性》を見いだして行くのも実在する《弁証法》の記述を通じてである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.361~362」国文社)
「ヘーゲル自身先ほど引用した文の直後の一節でこの間の事情を次のように語っている。──†さらに言うならば、生ける〔すなわち静的でも所与でもない〕《実体》とは、真実には《主体》である《存在》である、或いは同じことであるが、──実体が自己自身を措定する〔弁証法的〕運動である限りで、すなわち自己以外のものとなる活動を自己自身と媒介する限りで客観的に実在する《存在》である。《主体》としてのこの《実体》は純粋に《単純・不可分》な《否定性》であり、否定性であるがゆえにこの単純・不可分な自己自身を分裂させ、対立的に二重となりながら、再び、かくして生じた相互に没交渉な相違とその対立とを《否定するもの》である。このように分裂とその後の対立とを否定して《再び構成された》同等性、もしくは他的存在となりながら自己自身に環帰している事態が《真なるもの》であり、《本源的》な統一態それ自体、つまり《直接的》〔統一態〕それ自体が《真なるもの》ではない。《真なるもの》とは自己自身の生成であり、自己の終局を自己の目的としてあらかじめ設定し、しかもこの終局を端緒となし、自己を実在化すべく展開しその終局に達することによって初めて客観的に実在するものとなる円環である。†──このきわめて凝縮された一節には、ヘーゲルの『弁証法』がもつ根本概念がすべて含まれており、彼の哲学の本質的かつ真に新しいものがすべて要約されている」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.362」国文社)
「死の観念」といっても特別に難解なわけではまったくない。むしろ逆に、普段から余りにも理解でき過ぎているために、かえって人々は一般的に、常日頃は忘れることにしている。というのも、日常生活をいちいちヘーゲル用語に置き換えて暮らしていては時間が足りなくなって困ってしまうわけだからなのだが。ところがしかし、どんな立場の人間であっても、一般大衆はもちろんのこと、まぎれもなくヘーゲル=コジェーヴが何度も繰り返し強調する「否定性」を抜きにしたところで、人間は生きていくことはできないし、従って死ぬこともできない。ヘーゲルの言う「否定性」は人間生活の、いわば「動力」である。
「自然的な静的-所与-《存在》として捉えられた《実体》が(自己自身との)《同一性》を存在論的基礎とするならば、この《存在》と自己自身とを開示する《言説》の《主体》すなわち《人間》は、《否定性》をその究極の基礎とする」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.362」国文社)
「ところで、自己の存在自体において《否定性》に支配されている《人間》は、静的-所与-《存在》ではなく、自己を措定する、もしくは自己自身を創造する《行動》或いは《活動》である。人間は出発点となる所与《存在》の《否定》により『媒介』されて結果を得る『弁証法的運動』として初めて客観的に実在するものとなる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.362~363」国文社)
「この《否定性》は《存在》の中で《存在》の《同一性》に結び付けられながら、ほかならぬこの《存在》を《主体》と《客体》とに分離し、《自然》に対立する《人間》を創造する。だがしかし、この《否定性》はまた《自然》の只中に人間的現存在としても実在化され、《言説》とそれが開示する《存在》とが『一致する』真の認識において、そしてこの真の認識により、この《主体》と《客体》とを改めて再統一する」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
「したがって、《真なるもの》或いは開示された《存在》は、パルメニデスや彼の熱心な追随者たちが考えていたような存在と思惟との最初の本源的な同一性、つまりは『直接的』或いは所与かつ自然的な同一性ではなく、《自然》に《人間》が《対立する》ことから始まり、そのような自然を人間が語り、自己の行動によって『否定』していく長い活動の過程の《結果》である」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
「《統一》の回復、もしくは『《実体》』と『《主体》』との究極の一致は、『絶対』哲学による《存在》と《実在するもの》との《総体》の十全な記述において遂行される(この哲学の作者つまり《賢者》の人間的現存在は挙げてこの哲学を練り上げることに己れを帰一し、したがって彼は『《実体》』として捉えられた《自然》に『《主体》』として行動的に対立することをやめてしまう)。しかしながら、《実在するもの》の総体には、創造的《運動》としてのみ現存在する人間の実在が含まれている」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
要するに、ただ単に総体を記述することができたとしても、記述する行為そのものが常に既に「主体的=否定性」を含んでいる。時間とともに時間として自然に対して働き掛けながら生存している。時間として自然に対して働き掛ける人間という主体は、「創造的《運動》として」、常にエネルギーを発揮しないわけにはいかない。そして人間が発揮するエネルギーは、おそらく何度かのピークを迎えつつ、しかし遂にはその個体自身の死へ到達していくほかない。だがここで重要なのは、人間はただ単なる人形ではなく人間自身を含めた全環境に働き掛けて環境を改変しつつ生きていく「運動体」であるという理解でなくてはならない。
「したがって、《存在》(=《実体》)と《言説》(=《主体》)との完全かつ決定的な適合が遂行されるのは、時の終わり、《人間》の創造的運動が仕上げられる時でしかない。この仕上りは《人間》がもはや先に進まず、(自己の行動的な現存在において)すでに歩んだ道程を(哲学的思惟において)再び歩むことに甘んずるという事実によって開示される。このようなわけで、用語の強い意味での『絶対』哲学や《真なるもの》が現われうるのは、ただ総体として捉えられた実在する《弁証法》の《円環的》記述という形式においてだけである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363」国文社)
「この哲学は、一方では《存在》(=《自然》)の只中における《言説》(=《人間》)の発生から、自己の《言説》によって《存在》の総体を開示する《人間》の到来に至る道程を記述するが、他方この哲学それ自体が《総体》を開示する《言説》である。だが、開示される《総体》は、ほかならぬこの総体を開示する《言説》に加え、この《言説》が生成する過程を含んでいる」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.363~364」国文社)
「したがって哲学的記述が終局に到達したとき、我々は発端へ、哲学的記述の生成の記述へと投げ返され、この哲学的記述の生成が記述されて『終局』に達したときになって初めて、絶対哲学は到来するのである。だが、この到来は実は追求して来た目的でもある。なぜならば、哲学は、ただ己れ自身の生成を記述することによって己れ自身を把握する限りで絶対的であり、《総体》を記述するものだからである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364」国文社)
「だが他面、この記述は絶対哲学の観点からなされうるのみであり、したがって絶対哲学が十全な記述すべての『端緒』ないしは根源である。これはつまり、絶対哲学もまた、それが記述する《総体》とまったく同じように、ただその『展開』の中で、そして『展開』によって、すなわち実在の完結した弁証法を再現する一体不可分な全一性を形成する円環的言説の《全体》となって客観的に実現されうるだけである、という意味である。乗り超えることも修正も不可能な《総体》を、それゆえに絶対的な《真理》を保証するものはこの哲学的言説の円環性なのである」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364」国文社)
「ヘーゲル自身この間の事情を、(注解を記した後)上記に引用した一節の最期に表明された観念を再び取り上げ、次のように語っている。──†《真なるもの》は《全体》である。だがその全体は自己の展開を通じて初めて己れを仕上げ完成する実在である。《絶対者》について語るならば、それは本質的に《結果》であり、《終局》において初めてそれが真理において在るがままのものとなる、と言わねばならず、まさにこの点に、客観的に実在するものであり、主体であり、自己自身となる活動であるというその本性は存している。†──《真なるもの》、もしくは《言説により-開示された-存在》とは《総体》である、すなわち《存在》の只中に《言説》を生み出す創造的、弁証法的《運動》の全体である。《絶対者》或いは実在するものの《総体》とは、単に《実体》であるばかりか、実在するものを完全に開示する《主体》でもある」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364」国文社)
否定する主体とは何か。一般的な極めて簡略な世俗的用語を用いて喩えてみよう。こんな感じ。「1ページ目を読み終えた→2ページ目を読み始める」=「1ページ目の否定/1ページ目の廃棄→2ページ目の否定に取り掛かりつつある」=「1ページ目は廃棄され否定されてはいるけれども、取り掛かりつつある2ページ目の否定において、取り組み終えて今はもう過ぎ去っている1ページ目の肯定を、2ページ目の否定への取り掛かりのうちに含んでいる」。
「ただそれは、己れ自身の開示に帰着する弁証法的(=歴史的)生成の果てにそうなる。このような開示に帰着する生成が意味するものは、《総体》が《人間的》実在を含んでいる、しかも永遠に自己同一的な《所与》ではなく、時間的に漸次なされていく自己創造の《活動》である《人間的》実在を含んでいる、ということである。《人間》のこの自己創造は(自然的かつ人間的な)所与を《否定する》ことによって遂行される」(コジェーヴ「ヘーゲル読解入門・P.364~365」国文社)
二〇一七年三月十六日作。
(1)世界資本の堪忍袋が真面目になれ日本
(2)ビッグデータの裏へ出てみる
(3)万博辺りが地上波の墓地
(4)庭園も病院の日溜り雨上り
(5)原発よりめった刺しにテレビ釘付け
(6)しっぽ精一杯迎えてくれる人違い
☞「私は私の書物をわずかの人々のために、わずかの年月のために書いている。もしもこれがあとに永く残るような内容のものであったら、もっとしっかりした言語に託すべきであったろう。今日までわがフランス語につきまとった絶えざる変化を考えるならば、現在の形がこれから五十年後も通用すると誰が期待し得よう。フランス語は毎日われわれの手から流れ出てゆき、私が生きている間にもすでに半分も変わった。われわれは、いま、これを完全なものだ、と言う。それぞれの時代にその言葉についてこれと同じことを言っている。しかし、私は、それが現に見るように、たちまちに過ぎ去り、変形してゆく限り、そのとおりには信じられない。言葉を自らに固定するのはすぐれた有益な書物のすることであり、また、その言葉に対する信用はわが国の運命と歩みを共にするであろう」(モンテーニュ「エセー5・P.368」岩波文庫)
ここでモンテーニュを持ち出すつもりはなかった。しかし「関西弁」とその語調について図に乗っている人々に対する疑問はずっと持ってきた。そしてなおさら「関西弁」に対する疑問や疑惑は増々増大するに至った。「関西弁ヴァージョン」問題。従って一応引用した次第である。
何かものを考えることは常に戦争機械たり得る可能性を持っている。だがしかし人間は、広い意味で戦争機械であることから逃れることは不可能であるが、同時に戦争機械としてではなくものを考えたり行動したりすることもまた十分に可能だ。事実上、そうしている。しかしそういう形態を使い分けることができるのはなぜなのか。差し当たり、学問として思想するだけにしても実際の経済活動に従事するにしても、いずれにしてもその前提となる「アレンジメント」抜きには、戦争機械として活動する可能性を常に持っている人間は人間自身を鏡に映して自己反省を加えつつ考え直すことはできない。もしそうでなければ戦争機械として行動しなければ生き残ることが許されないような状況下ですら、何をどのような基準で思考すればよいのか、決してわかりなどしない。この両方の状態のいずれにでも移行する可能性を常に持つ人間として、人間自身のためにできる考察は、ほんの初歩的な道具の製作の時点から関係してくる。
「変化は次の二大項目に類別することができよう──第一は、さまざまな次元の《時間的空間的特異性あるいは此性》と、それらに結びついた変形や変容の過程としての諸操作であり、第二は、こうした特異性と操作に対応する、さまざまなレベルの《情動的性質》すなわち《表現特徴》である。再び刀の例に、というよりもむしろ鋳鋼の例に戻ろう。鋳鋼は、高温による鉄の溶融という第一の特異性の現実化と次に第二の特異性すなわち継起的脱炭素化によって作られる。表現特徴は、繰り返し行なわれるこの脱炭操作に対応するのであり、硬さ、切れ味、光沢だけでなく、鋳鋼の内部構造の結果として結晶作用によって現われる波や模様もまた表現特徴である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.118」河出文庫)
「鉄剣はまったく別の特異性にかかわっている──なぜならそれは、融かされるのではなく鍛造されるからであり、大気中で冷まされるのではなく鋳型にはめられ焼きを入れられるからであり、大量生産ではなく一本ずつ製造されるからである。鉄剣は、斬るのではなく刺すのであり、斜めからではなく正面から攻撃するのであるから、その表現特徴は必然的に刀と非常に異なっている。表現的な模様も鉄剣ではまったく別のやり方で、すなわち象眼によって作られるのである。《一連の特異性があり、それがもろもろの操作によって延長可能であり、それらの特異性が、そのような操作とともに、一つないしいくつかの指定可能な表現特徴に収束することを確認できれば》、一つの《機械状系統流》あるいは一つの技術の系統があると考えられる。もし特異性または操作が、異なる素材においてあるいは同じ素材において発散するならば、その場合には二つの異なる系統流を区別しなければならない。たとえば、短剣から発達した鉄剣と、短刀から発達した刀の場合はまさにこれにあたる。おのおのの系統流には特異性と操作、性質と特徴があり、これらが剣や刀といった技術的要素と欲望の関係を決定しているのである(刀の情動は剣の情動と同じではない)」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.118~119」河出文庫)
「しかし、ある系統流から他の系統流へ延長可能な特異性のレベルに身を置いて両者を統一することはつねに可能である。結局のところ、唯一の同じ系統発生の系譜、理念上は連続する唯一の同じ機械状系統流しか存在しないと考えることができるであろう──つまり、運動-物質の流れ、特異性と表現特徴をになって連続変化する物質流である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.118~119」河出文庫)
「この操作的かつ表現的流れは自然的であるとともに人工的であって、いわば人間と<自然>の統一体である。しかし、同時に、この流れは自己分裂し自己分割することなくしては、今ここに現実化することはない。この流れから抽出された集合、つまり人工的かつ自然的に収束するように(存立性)、選択され組織され地層化された特異性と表現特徴の集合を、アレンジメントと呼ぶことにしよう。アレンジメントとは、この意味で、真の発明なのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.119~120」河出文庫)
次のセンテンスは「アレンジメントという無意識的諸条件」並びに「アレンジメントに関する思考」について、一旦まとめとして目を通しておくのが便利かと思われる。
「さまざまなアレンジメントは集まって非常に大きな集合になり、『文化』や、あるいは『時代』さえも構成することもあるが、各アレンジメントはその場合でもやはり系統流または流れを分化させ、さまざまな種類、さまざまなレベルの系統流に分割し、運動-物質の理念的連続性のなかに選択的非連続性を導入するのである。つまり、アレンジメントが系統流をさまざまに分化した諸系統に切り取ると同時に、機械状系統流はそれらのアレンジメントのすべてを貫流し、あるアレンジメントを去って別のアレンジメントに移動したり、すべてのアレンジメントを共存させたりするのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.120」河出文庫)
石器から金属へ。この移行は人間のものの考え方を変容させる。その意味で大変重要な論考だと言える。
「金属と冶金術は、その他の物質や操作において隠され、あるいは埋もれていた何かを意識せざるをえないようにするらしいのだ。なぜなら、その他の物質においては、どんな操作も、操作のために準備された物質を構成する閾と、具体化すべき形相を構成する閾という二つの閾(たとえば粘土と鋳型)のあいだで行なわれるからである。質料形相モデルが一般に通用するのはこの事実によるのだ。操作の終了を告げる具体化された形相は新しい操作のための質料として、しかも継起する閾を示す固定した順序にしたがって役立ちうるからである。しかし冶金術において、もろもろの操作はさまざまな閾のあいだに跨がっているために、エネルギーを孕んだ物質性は準備された質料をはみ出し、質的な変形ないし変容は形相をはみ出すのである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.127」河出文庫)
「たとえば焼き入れは型取りを飛び越えて鍛造と連鎖している。別な例としては、鋳型による型取りの場合には、冶金術師はいわば鋳型の内部で操作するのである。さらに別な例をあげれば、溶けて鋳られる鋼は一連の継起する脱炭操作を受けるのである。最後の例として、冶金術は物質を再び溶融して再利用する可能性をもっていて、そのため物質に《鋳塊という形式》を与える──金属の歴史は、ストックとも商品とも異なるこの特別な形式と不可分であり、貨幣価値はここから生まれるのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.127~128」河出文庫)
「貨幣価値はここから生まれる」、とある。マルクス「資本論」参照。
「より一般的に言って、『還元的』という冶金術の観念は準備された物質からの物質性の解放と、具体化すべき形相からの変形の解放という二重の解放を表現している。冶金術の場合ほど形相と物質が硬く固定したものにみえることはない。しかしながらそこではさまざまな物質の変化に、連続変化する物質がとって代わろうとする。冶金術が音楽と本質的な関係にあるのは、ただ単に鍛冶屋のたてる騒音のためではなく、両者を貫く傾向、つまりたがいに分離された形相を超えて形相の連続展開を際立たせ、変化するさまざまな物質を超えて物質の連続変化を優先させるという傾向のためである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.128」河出文庫)
「拡大された半音階法が音楽と冶金術を同時に突き動かしている。音楽家としての鍛冶屋は最初の『変形者』(単にもろもろの神話だけでなく、実証的な歴史も考慮にいれる必要がある──たとえば、音楽形式の進化に『銅』〔金管楽器〕の果たした役割、あるいはまた電子音楽における『金属的合成』の構成の問題(リシャール・ピナス)など)である。要するに、金属と冶金術によって日の目を見るのは、物質に特有の生命であり、物質そのものの生命的状態であって、おそらくいたるところに存在しているにしても、普通は質料形相モデルによって分離され、隠されるか覆われるかして認めがたいものになっている物質的生命性なのである。冶金術は『物質-流れ』の意識ないし思考であり、金属はこの意識の相関物である。汎金属主義が表明しているように、すべての物質は金属と見なしうるのであり、すべての物質は冶金術の対象となりうる。水や草や木や獣ですら塩や鉱物的元素にみちている。すべてが金属ではないが、金属はいたるところに存在する。金属は物質全体を導くものなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.128~129」河出文庫)
「機械状系統流は冶金術にかかわるものである、あるいは少なくとも金属の頭、移動する自動誘導弾頭(ヘッド)を備えている。そして思考は石よりもむしろ金属とともに生まれる」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.129」河出文庫)
ただちに思い出しておこう。「武器が速度を発明する、あるいは速度の発見が武器を発明する」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.99」河出文庫)。金属とともに金属を前提として思考するだけでなく、「プラス」、加速される速度の武装化を前提に考える。そして「核爆弾」は誕生した。
「最初の根本的移住者は職人である。しかし職人とは、狩人でも農民でも牧人でもなく、また二次的にしか職人的活動に携わることのない陶工や籠作りでもなく、純粋な生産性としての物質-流れに随う人であり、それゆえに植物や動物ではなく鉱物的形態に随うのである。それは大地や土地の上で活動する者ではなく地下生活者である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.129」河出文庫)
「金属は物質の純粋生産性にあたり、金属に随う者は生産者の典型であると言ってよい。ゴードン・チャイルドが示したように、冶金術師は最初の専門的職人であり、職人としての《団体》(秘密結社、ギルド、職人組合)を形成したのである。職人としての冶金術師は、地下の物質-流れに随うゆえに移動者である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.129~130」河出文庫)
「もちろん冶金術師が『他の者たち』、すなわち土地や大地や天上の者たちとさえ関係を持っているということ、言い換えれば、定住する共同体に属する農民やそうした共同体を超コード化している帝国の雲上人たち〔官僚たち〕と関係を持っていることは確かである。冶金術師は生きるために彼らを必要としているし、生きのびるために帝国の貯蔵農産物に依存しているからである」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.130」河出文庫)
「しかし、仕事においては冶金術師は森林生活者たちと関係して、部分的には彼らに依存しており、必要な木炭を得るために森林の近くに作業場を設けなければならない。また空間においては、地下は平滑空間の土地を条理空間の大地に結合しているのだから、冶金術師は遊牧民たちと関係している──帝国の住民となった農耕民の耕す沖積平野には鉱脈は存在せず、砂漠を横断し山に入らなければならないし、鉱山の管理にはつねに遊牧民が絡んでいるからだ。《あらゆる鉱脈は逃走線であり》、平滑空間と通底している──現在では石油をめぐって同じ問題が見られるであろう」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.130」河出文庫)
キーワード「移動者」。様々な呼び方がなされてきた。「浮浪者、(さまよっていた頃の)ユダヤ人、遊女、行商人、山水、、、(古代〜近世にかけての)芸能民、など」。それぞれ被差別者ではあるが、注目すべき点は「移動者」あるいは「移動民」という点で共通していることだろう。定住していない。だからといって定住していないことがなぜ差別の根拠となるのかは判然としない。また同時に言えることは、彼ら彼女らが社会の最底辺を構成するためには同じ社会の最上層に位置する存在者がなくては最底辺もまた存在し得ないということだ。古代から中世、さらには近世(江戸時代)にかけては最上層に天皇が位置していたため、最底辺に位置する被差別者らは最も深い部分から逆に最上層を支える形態を取っており、その限りで、彼ら彼女らは天皇とのただならぬ深い繋がりで結び合わされた一つの世界を形成していた。この独特の体制は明治国家による近代資本主義の導入によって大きく変化した。移動する民としての行商人や遊女や能役者は、近代資本主義的生産様式に組み込まれた天皇との繋がりを断ち切られ、改めて資本主義的「商人・売春婦・芸人」という職業の体現者として再編・再出現することとなったのである。近世(江戸時代)には存続していた両者の関係は近代資本主義的搾取の全面的導入によってただひたすら激烈な階級間格差増殖装置の中で様々な役割を与えられ加工された上で、そのために奉仕する各部品として配置された。
「犠牲者たちも、状況に応じて浮浪者、ユダヤ人、プロテスタント、カトリック教徒というふうに、つぎつぎに入れかわることがあるのと同様に、そのうちのどれかが、自分こそ規範としての力を持つと感じるようになれば、今度は、同じやみくもの殺人への欲求へとかられて、殺人者の地位にとってかわることもありうるのだ。天性の反ユダヤ主義というものはありえず、生れつきの反ユダヤ主義者などはもちろん存在しない。ユダヤ人の血を求める呼び声が第二の天性になってしまった大人たちは、ユダヤ人の血を流すことを命じられている若者同様に、なぜにユダヤ人を血祭にあげなければならないか、ほとんどわかっていない。それを弁えている上層部の黒幕たちは、もちろんユダヤ人を憎んでもいないし、彼らの命令に従うものを愛しているわけでもない。しかし経済的にも性的にも満足できない追随者たちははてしなく憎み続ける。彼らは充足を知らないが故に、緊張を解くことを耐えがたく思うのだ。こう見てくれば、じっさいこの組織的な殺人強盗の輩を鼓舞しているのは、一種の動的な理想主義なのである。彼らは掠奪するために出かけて行くくせに、それにごりっぱなイデオロギーを結びつけ、家族や祖国や人類を救うためなどと駄弁を弄する。しかししょせん彼らは欺かれた者にすぎないので──そしてこのことを彼らはすでにうすうす感づいてはいたのだが──、彼らの哀れな合理的動機、つまり合理化がそれに奉仕するはずの掠奪〔という目的〕は、結局はまったく抜け落ちてしまい、〔正当化の手段だった〕合理化自体が本来の意志に反して大真面目なものになってゆく。この合理化がはじめから理性によりも親近性を持っていた暗い衝動が彼らをあます所なく占有する」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.357~358」岩波文庫)
「合理性の島は水没する。そうして自暴自棄の輩が、ただ一人なお、真理の守護者として、すみずみまであます所なく改革せずにおかない地表の革新者として立ち現れる。すべての生き生きした生は、彼らの恐るべき義務の素材となり、いかなる自然な心の動きも、その義務の命令を妨げることはできなくなる。行為そのものがじっさいに自律的な自己目的と化し、それ本来の無目的性を蔽い隠してしまう。いつだって反ユダヤ主義は、全力をあげた仕事を呼びかけてやまない。反ユダヤ主義と全体性との間には、当初から緊密な内的連関があったのだ。盲目性は何ものをも明確に把握しないが故に、すべてを包みこむ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.358~359」岩波文庫)
「自由主義はユダヤ人に経済的な所有は許していたが、命令する権力は与えなかった。何の力もないところでも幸福を約束するというのが、人権というものの本質なのだ。欺かれた大衆といえども、階級差が存在するかぎり、この約束がたんに一般的なものであり、しょせん空手形にすぎないことをうすうすと感じとっているから、こういう約束は彼らの憤激を呼びおこす。馬鹿にされていると彼らは感じるのだ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.359」岩波文庫)
「ボルシェヴィズムに金を出す強欲なユダヤ人銀行家の陰謀という妄想は、彼らの生れつきの無力さの徴しであり、優雅な暮しは幸福の徴しである。これにさらにインテリのイメージがつけ加わる。インテリは他の人々には恵まれていない高尚なことを考えているように見え、しかし汗水流して苦労し体を使って働くことはない。銀行家とインテリ、貨幣と知性、この二つは流通の指数であり、支配によって傷つき、歪められた者たちの否定された願望像である。そして支配者はこの願望像を、支配の永遠化のために利用しているのだ」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.360」岩波文庫)
「現代社会、そこでは宗教的な原始感情やその再生品が、諸革命の遺産と同様に、市場に売りに出される。そこではファシストの指導者たちが密室の奥で国土や国民の生命を取引する。他方抜け目のない聴衆はラジオにかじりついて相場の研究に余念がない。こういう社会、そこではさらに、この社会の仮面をあばく言葉は、まさしくそれ故に、政治的結社への加入を勧める勧誘の辞として正当化される。こういう社会では、たんに政治も商売だというだけでなく、商売が政治全体を蔽う」(ホルクハイマー&アドルノ「啓蒙の弁証法・P.360」岩波文庫)
「『そう、たぶん、卑劣漢でもあるでしょうね。そんなのは言葉だけの問題だと、きみだって知っているじゃないですか』『ぼくは一生涯、これが言葉だけであってはならないと思ってきた。そうあってはならないと思うから、生きてきた。ぼくはいまでも毎日、言葉だけに終わらせまいと念じている』『まあ、だれもがよりよい場所を捜しているんだから。魚は──いや、だれにしても、それなりの快適さを求めているわけで、それだけのことさ。とうの昔からわかりきったことですね』『快適さというのかね?』『まあ、言葉で争っても仕方がない』『いや、うまい言葉だ、快適さでいい。神は必要だから、存在するはずだ』『じゃ、それでいいでしょう』『ところがぼくは、神は存在しないし、存在しえないことを知っている』『そのほうが正しいかな』『きみにはわからないのかな、人間はそんな二種の思想をもちながら生きていけないことが?』『それで、自殺すべきだというわけですか?』『きみにはわからないのかな、これ一つだけでも自殺に値するということが?何十億というきみたちのような人のなかに、それを望まない、それに耐えられない人間が一人、一人だけは存在することがわからないのかな』『ぼくにわかるのは、きみが動揺しているらしいということだけですね──これは実によくない』『スタヴローギンも思想にくいつくされた』陰鬱(いんうつ)な顔で部屋の中を歩きまわっていたキリーロフは、その言葉に気づきもしなかった。『なんです?』ピョートルは耳をそばだてた。『思想って、どんな?彼が何かきみに言ったんですか?』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.433~434」新潮文庫)
「『いや、ぼく自身の推察ですね。スタヴローギンは、たとえ信仰をもっていても、自分が信仰をもっていることを信じようとしない。信仰をもっていないとしたら、信仰をもっていないことを信じようとしない』『いや、スタヴローギンにはもっとちがったものがあるな、もっと気のきいたものが』話の成行きとキリーロフの青ざめた顔を不安げに追っていたピョートルが、喧嘩腰(けんかごし)につぶやいた。<畜生、こりゃ自殺しないぞ>と彼は考えた。<思ったとおりさ。頭の体操、それだけさ。なんというろくでなしだ!>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.434~435」新潮文庫)
「『きみは、ぼくといっしょにいる最後の人間だ。きみとは気まずい別れ方をしたくない』ふいにキリーロフが期待に答えた。ピョートルはすぐには答えなかった。<畜生、またどういうことだ?>彼はふたたび考えた。『信じてくれたまえ、キリーロフ、ぼくは個人としてのきみにはなんの悪意ももっていない、そしていつも──』『きみは卑劣漢で、偽(にせ)の才知の持主だ。ところがぼくはきみと同じような人間なのに、自殺して、きみは生き残る』『というと、ぼくはおめおめと生きながらえるのを望むような下劣な人間というわけですか』彼は、いまのような場合にこういう会話をつづけることが得策か否かをまだ決しかねていたので、<成行きにまかせる>ことに決心した。しかし、以前からいつも彼をいらだたせずにおかなかったキリーロフの優越意識と、いつもながらのあらわな軽蔑(けいべつ)の調子が、いまはなぜかふだんより気にさわった。それは、おそらく、あと一時間もすれば死ぬことになっているキリーロフが(ピョートルはまだそのことを念頭に置いていた)、いまの彼には、何か『半人』のようなものに、もうとうてい傲慢(ごうまん)な態度など許せるはずもない存在に思えたからであろう。『きみは、なんだか、ぼくに対して自殺するのを自慢しているみたいですね?』『ぼくはいつも、みながおめおめと生きながらえているのをふしぎに思っていた』キリーロフには彼の言葉など耳にはいらなかった。『ふむ、それも一つの見識だが──』『猿だ、ぼくを手に入れようとして、きみは相槌(あいづち)ばかり打っている。何もわかりゃしないのなら、黙りたまえ。もし神がないとしたら、ぼくが神だ』『そこですね、きみの説でどうしてもぼくにわからないのは、なぜきみが神なんです?』『もし神があるとすれば、すべての意志はぼくのもので、ぼくは我意を主張する義務がある』『我意?でも、どうして義務なんです?』『なぜなら、すべての意志がぼくの意志になったから。この地上に、神を滅ぼして我意を信じ、最も完全なる点まで我意を主張する人間は一人もいないではないか。ちょうど貧乏人に遺産がころげこんだが、それを自分のものにする力はないと思いこんで、金袋に近寄る勇気が出ないのと同じで。ぼくは我意を主張したい。たとえ一人きりだろうと、ぼくはやってみせる』『まあ、やってください』『ぼくには自殺の義務がある。なぜなら、ぼくの我意の頂点は、自分で自分を殺すことだから』『しかし、きみだけが自殺するわけじゃない。自殺者はたくさんいますよ』『理由がある。ところが、なんの理由もなく、ただ我意のためのみに自殺するのは、ぼく一人なのだ』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.435~437」新潮文庫)
「<自殺しないな>ピョートルはまたちらと考えた。『いいですか』彼はいらだたしげに口を入れた。『ぼくがきみの立場だったら、我意を示すためには、自分じゃない、だれかほかの人間を殺しますね。それなら役に立てますよ。もし怖気(おじけ)づかないようなら、だれを殺せばいいか教えましょうか。それなら、きょう自殺しなくてもいい。相談に乗ってもいいですよ』『他人を殺すのは、ぼくの我意の最低点だし、そこにきみのすべてがある。ぼくはきみじゃない。だから最頂点を欲して、自分を殺す』<思弁そのものだ>ピョートルは心中、憎々しげにつぶやいた。『ぼくは自分の不信を宣言する義務がある』キリーロフは部屋を歩きまわった。『ぼくにとって、神がないという思想以上に高いものはない。人類の歴史がぼくに味方している。人間がしてきたことといえば、自分を殺さず生きていけるように、神を考え出すことにつきた。これまでの世界史はそれだけのことだった。ぼくひとりが、世界史上はじめて神を考え出そうとしない。永遠に記憶にとどめるがいい』<自殺しないな>ピョートルは不安になった。『だれが記憶にとどめるんですね?』彼はそそのかした。『ここにはぼくときみしかいない。リプーチンですか?』『だれもが記憶にとどめるのだ。だれもが知るのだ。顕(あら)わるるためならで、隠るるものなし(マルコ福音書・第四章・二十二節)。これは《あの人》の言葉だ』そう言うと彼は、熱に浮かされたような歓喜の面持で、救世主の聖像を指さした。その前には燈明がともっていた。ピョートルはすっかり怒ってしまった。『すると、きみはまだあの人を信じていて、燈明なんぞともしているんですか。《万一にそなえて》とちがいますか?』相手は黙っていた。『どうです、ぼくに言わせると、きみは坊主以上に信じているようだな』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.437~438」新潮文庫)
「『だれを?あの人を?聞きたまえ』キリーロフは足を止め、じっと動かぬ、狂信的な眼差(まなざ)しで前方を見据えた。『偉大な思想を聞きたまえ。この地上にある一日があり、大地の中央に三本の十字架が立っていた。十字架にかけられていた一人が、その強い信仰ゆえに、他の一人に向って、<おまえはきょう私といっしょに天国へ行くだろう>と言った。一日が終り、二人は死んで、旅路についたが、天国も復活も見いだすことができなかった。予言は当らなかったのだ。いいかね、この人は地上における最高の人間で、この大地の存在の目的をなすほどの人だった。全地球が、その上のいっさいを含めて、この人なしには、狂気そのものでしかないほどだった。後にも先にも、これほどの人物は現われなかったし、今後も現われないだろうという点が、奇蹟だったのだ。ところで、もしそうなら、つまらい自然の法則が<この人>にさえ憐(あわ)れみをかけず、自身の生み出した奇蹟をさえいつくしむことなく、この人をも虚偽のうちに生き、虚偽のうちに死なしめたとするなら、当然、全地球が虚偽であって、虚偽の上に、愚かな嘲笑(ちょうしょう)の上にこそ成り立っているということになる。つまりは、この地球の法則そのものが虚偽であり、悪魔の茶番劇だということになる。なんのために生きるのか、きみが人間であるなら、答えてみたまえ』『それは問題の局面がちがう。きみは二つの原因を混同しているように思うし、それは心もとない話ですよ。でも、失礼だが、きみが神であるとしたら?虚偽が終りを告げて、もしきみが、いっさいの虚偽の根原は旧(ふる)き神の存在にあることを悟ったとしたら』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.438~439」新潮文庫)
「『とうとうきみにもわかったな!』キリーロフは有頂天になって叫んだ。『してみれば、きみのような男にもわかる以上、これは理解可能なわけだ!さあ、これでわかったろう、万人にとっての救いは一つ──この思想を万人に証明することにこそあることが。だれが証明する?ぼくだ!どうしてこれまでの無神論者が、神はないことを知りながら、同時に自分を殺さないでこられたのか、ぼくにはわからない。神がないことを知りながら、同時に自身が神になったことを意識しないのは──不条理そのものだし、でなければ、かならず自分で自分を殺すはずだ。もし意識すれば──きみは皇帝で、もはや自分を殺すどころか、最大の栄光のうちに生きればよい。しかし一人は、つまり最初の一人は、どうあっても自分で自分を殺してみせなければならない。でなければ、だれがそれをはじめ、だれが証明するんだ。ぼくがどうあっても自分で自分を殺すのは、それをはじめ、それを証明するためなんだ。ぼくはまだ余儀なくされた神にすぎないから、ぼくは不幸だ。なぜって、我意を宣言する《義務》があるからだ。万人が不幸であるのは、彼らがすべて我意を宣言するのを恐れているからだ。人間がこれまで不幸であり、貧しくあったのは、我意の最頂点を宣言することを恐れて、小学生のように、隅(すみ)っこのほうでちょっぴり我意を張っていたからだ。ぼくはおそろしく不幸だよ。なぜなら、おそろしく恐れているから。恐怖は人間の呪(のろ)いなんだ──しかし、ぼくは我意を宣言するぞ、ぼくには、自分が信仰をもっていないことを信ずる義務があるのだ。ぼくは自分ではじめ、自分で結末をつけ、扉(とびら)を開いてやるのだ。そして救ってやるのだ。このことだけがすべての人を救い、つぎの世代を肉体的に生れ変らせることができる方法なんだ。なぜって、ぼくの考えだと、いまの肉体の有様では人間は旧い神なしにはとてもやっていけないからね。ぼくは三年間自分の神の属性を捜し求めて、それを発見した。ぼくの神の属性は──《我意》だよ!これこそ、ぼくの不服従と新しい恐ろしい自由をその頂点において示すことのできるすべてなのだ。なぜって、この自由は実に恐ろしいものだからね。ぼくが自殺するのは、ぼくの不服従と新しい恐ろしい自由を示そうためなんだ』」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.439~440」新潮文庫)
「彼の顔色は不自然なほど青白く、彼の目は耐えがたいほど重苦しかった。彼は熱に浮かされてでもいるようだった。ピョートルは、彼がいまにも倒れるのではないかと思った。『ペンをよこせ!』ふいにキリーロフが強く霊感に打たれでもしたように、まったく思いがけなく叫んだ。『口述したまえ、なんでも書いてやる。シャートフを殺したとも書いてやる。おれが滑稽(こっけい)がっているうちに、口述するがいい。高慢ちきな奴隷(どれい)の思想なんぞこわくないぞ!隠れたるものがすべて顕われることが、きさまにもわかるだろうさ!それできさまは圧(お)しつぶされるんだ──信ずるぞ!おれは信ずるぞ!』ピョートルはさっと踊りあがって、あっという間にインク壷(つぼ)と紙を手渡し、この機会をのがすまいと、成功を念じておののきながら、口述に取りかかった。《余、アレクセイ・キリーロフは、宣言する──》『待て!いやだ!だれに宣言するんだ!』キリーロフは熱病にかかったようにふるえていた。この宣言ということと、それにまつわる一種独特の思いがけない考えとが、ふいに彼の全存在を呑(の)みつくしてしまったようだった。それは、疲れ果てた彼の魂が、ほんの一瞬にせよ、そこへまっしぐらに突き進んでいくための目標となった観があった」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.440~441」新潮文庫)
「『だれに宣言するんだ?だれにだか知りたい?』『だれにでもない、万人ですよ、最初にこれを読む人間。そんなことを決めてかかる必要はないでしょう?全世界にでもいい!』『全世界にか?ブラヴォー!それから後悔めいたことはいっさい抜きだ。後悔なんかいやだし、当局宛(あて)もごめんだ!』『とんでもない、当局なんぞ糞(くそ)くらえだ!さあ、本気なのなら、書いてくれたまえ!』ピョートルはヒステリックに叫んだ。『待て!おれは上のほうに、舌をべろりと出した面(つら)を描きたい』『ええ、くだらない!』ピョートルは怒った。『絵なんて添えなくても、そんなことはみんな調子一つで表現できる』『調子だと?そいつはいい。そう、調子だ、調子だ!調子でもって口述してくれ』《余、アレクセイ・キリーロフは》ピョートルはキリーロフの肩口にかがみこんで、彼が興奮にふるえる手で記(しる)していく一字一字を注視しながら、しっかりした命令的な口調で口述した。《余、キリーロフは、宣言する。本日、十月X日、夕刻、七時過ぎ、大学生シャートフを、その裏切りのゆえに、公園において、殺害せり。檄文(げきぶん)に関し、また、われわれ両名の居住せしフィリッポフ館に十日間逗留(とうりゅう)せるフェージカに関し、密告を行いたることもその理由なり。本日、余がピストル自殺をとげるは、後悔のため、ないし諸君を恐れるがゆえにあらず。すでに国外において、わが生命を絶たん意図をもちたるがゆえなり》『これだけ?』キリーロフが驚きと憤りの口調で叫んだ。『これ以上は一言も要らない!』ピョートルは、相手の手からこの書類を奪い取ろうと隙(すき)をうかがいながら、片手を振った」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.441~442」新潮文庫)
「『待て』キリーロフは片手をしっかりと紙の上に置いた。『待て、そんなばかな!おれはだれとやったか書きたい。なんだってフェージカのことを?で、火事は?おれは全部書きたいし、罵倒(ばとう)してやりたいんだ、その調子というやつで!』『もういいんです、キリーロフ、ほんとうにこれで十分なんですよ!』ピョートルは、相手が紙を引裂きはしないかとひやひやしながら、ほとんど哀願せんばかりに言った。『ほんとうらしく思わせるには、できるだけ曖昧(あいまい)に書く必要があるんです、つまり、これですよ、こんなふうにちらとほのめかすんです。真実というやつは、端のほうをちらと垣間見(かいまみ)せて、人の気持をそそるのが手なんですよ。人間というやつは、他人に欺かれるよりは、いつも自分で自分を欺くものでね、むろん、他人よりは自分の嘘のほうをよけいに信ずるものなんですよ、これがいちばん、これがいちばんなんですね!さあ、およこしなさい、それで申し分なし、およこしなさいよ、さあ!』こう言いながら、彼は紙をもぎ取ろうとねらっていた。キリーロフは目をむきだして、何やら一心に会得しようとするふうだったが、どうやら、もう理解力を失っているように見えた。『ちょっ、畜生!』ふいにピョートルがかっとなった。『まだ署名をしてないじゃないか!なんだってそう目をむきだすんです。署名してくださいな!』『ぼくは悪態をつきたい──』キリーロフはつぶやいたが、それでもペンを取って、署名をした。『ぼくは悪態をつきたい──』『共和国万歳とでも書いておおきなさいな、それで十分ですよ』『ブラヴォー!』キリーロフは歓喜のあまり吼(ほ)えるような声で叫んだ。『民主的、社会的、世界的共和国バンザイ、シカラズンバ、死ダ──いや、いや、そうじゃない。自由、平等、友愛、シカラズンバ、死ダ!このほうがいい、このほうが』彼は、さも楽しそうに、自分の署名の下にこう書き添えた。『それでけっこう、もう十分ですよ』ピョートルはなおもくり返した。『待て、もうすこしある──そうだ、もう一度、フランス語で署名しておこう。《ロシアの貴族にして世界の市民なるド・キリーロ》とね。は、は、は!』彼は笑いくずれた。『いや、いや、いや、待てよ、もっといいのを見つけたぞ、これだ。《ロシアの貴族・神学生にして文明世界の市民なる》だ!これがいちばんいい──』彼はソファから跳(は)ね起き、ふいにすばやい動作で窓のピストルを手にすると、それを持って別の部屋へ駆けこみ、ぴったりとドアを閉ざしてしまった。ピョートルはドアを見つめながら、一分ほどその場に立っていた。<いまだったら、たぶん、射つだろう。だが、考えはじめたら、何も起きるまい>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.442~443」新潮文庫)
「彼はともかく紙片を手にして、腰をおろすと、もう一度それを読み返した。宣言の書き方は今度も彼の気に入った。<当面、何が必要かだ。必要なのは、一時的にせよ、連中をすっかり混乱させて、横道へ連れこむことだ。公園?町には公園がないが、まあ、なんとか考えて、スクヴォレーシニキと気がつくだろう。それを考えつくまでに時間がかかるし、捜すまでに、また時間がかかる。で、死体が見つかって、遺書はほんとうだったということになる。そこで、全部がほんとうで、フェージカのこともほんとうだとなる。ところでフェージカとは何だ?フェージカ──こいつは火事だ、レビャートキン殺しだ。すると、すべてのもとは、このフィリッポフ館で、連中は何も気づかず、見落としていたということになる──これでもう連中はすっかり大混乱だ!《同志たち》のことなど、頭にもうかんでこない。シャートフとキリーロフ、それにフェージカとレビャートキンだ。で、この連中がなぜおたがいに殺し合ったのか──これがまたちょっとした疑問の種になる。ええ、畜生、ピストルがさっぱり聞こえないな!──>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.443~444」新潮文庫)
「彼は遺書を読みなおして悦に入っていたが、その間もたえず不安にかれら、一瞬ごとに耳を澄ましていた。そして──ふいにかっとなった。彼は心配そうに時計を眺(なが)めた。すこし遅すぎた。彼が出ていってから、十分ほどもたっていた──蠟燭(ろうそく)を手にすると、彼はキリーロフが閉じこもった部屋の戸口へ向った。ドアのすぐ前まで来たとき、ちょうど、蠟燭がもう燃えつきそうで、二十分もすれば燃えつきてしまうこと、そして代りの蠟燭がないことをひょっくりと思いうかべた。彼はドアのハンドルに手をかけて、注意深く耳を澄ました。ことりという物音も聞えなかった。彼はだしぬけにドアをあけて、蠟燭をかかげた。何かが吼(ほ)えたけりながら、彼にとびかかってきた。彼は力まかせにドアをばたんとしめると、ふたたびドアに体をもたせた。しかし、もうあたりは静まり──ふたたび死のような静寂がたちこめていた。彼は蠟燭を手にしたまま、長いこと決心をつけかねて立っていた。ドアをあけた一瞬の間に見分けられたものは、ほんのわずかでしかなかったが、それでも、部屋の奥の窓ぎわに立っていたキリーロフの顔と、彼が突然とびかかってきたときのすさまじい形相だけは目に映じた。ピョートルはびくりとふるえて、手早く蠟燭をテーブルの上に置き、ピストルを用意して、爪先立(つまさきだ)ちで部屋の反対側の隅へとびのいた。こうすれば、たとえキリーロフがドアをあけ、ピストルを構えてテーブルのほうへ突進してきたとしても、彼は狙(ねら)いをつけて、キリーロフより先に発射できるはずであった」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.444~445」新潮文庫)
「もういまとなっては、相手が自殺するだろうなどとピョートルは信じてもいなかった。<部屋のまんなかに突っ立って、考えていたな>──ピョートルの頭を、旋風のように、こんな考えが駆け抜けた。<おまけに暗くて、恐ろしい部屋だ──あいつは吼えるような声を立ててとびかかってきたが──これには二つの可能性がある。つまり、あいつが引き金を引こうとした瞬間におれが邪魔を入れたか、でなければ──でなければ、あいつは突っ立ったまま、どうやっておれを殺そうかと思案していたわけだ──そうだ、それにきまっている、やつは思案していたんだ──あいつは、もし自分が弱気を起したら、おれがあいつを殺さずには帰らないことを知っている、──してみれば、あいつは、おれがやつを殺す前に、おれを殺さなくちゃならない──それにしても、またぞろ、またぞろ静まり返ったな!恐ろしいぐらいだ。いきなりドアをあけてやるか──何より頭にくるのは、あいつが坊主より熱心に神を信じていることだ──絶対に自殺なんかしっこない!──ああいう、《思弁だけの》やつらが、このところやけに増(ふ)えてきたな。ならず者め!ちぇっ、畜生、蠟燭が、蠟燭が!十五分で確実に燃えつきるな──けりをつけなくちゃ、なんとしたってけりをつけなくっちゃ──ところで、いまなら殺してもいいな──この遺書があれば、だれもおれが殺したとは思うまい。発射したピストルを手に握らせて、床の上にうまいこところがしておけば、だれだって、自分でやったと思うさ──ええ、畜生、どうやって殺すかな?おれがあけると、やつはまたとびかかってきて、おれより先に射つだろう。ええ、畜生、これじゃしくじるにきまってらあ!>」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.445~446」新潮文庫)
「こうして彼は、この計画がもう避けられないこと、そのくせ自分の決心が定まらないことにおののきながら、ひとり悩んでいた。とうとう彼は蠟燭を取りあげ、いつでも射てるようにピストルを構えながら、ふたたびドアのそばに近寄った。そして、蠟燭を持っている左の手をドアのハンドルにかけた。しかし、それはうまくいかなかった。ハンドルがかちりと鳴って、ぎいっという音がひびいた。<狙い射ちだ!>──ピョートルはちらと思った。彼は足で力まかせにドアを蹴(け)って蠟燭をかかげ、ピストルを突き出した。しかし、ピストルの音も、叫び声もなかった──部屋の中にはだれもいなかった。彼はびくりとふるえた。部屋は行きどまりで、ほかに出口はなく、どこへも逃げ道はなかった。彼は蠟燭をさらに高くかざして、注意深く部屋をのぞきこんだ。人っ子一人いない。彼は小声でキリーロフを呼び、もう一度、すこし声を高めて呼んだ。だれも答えない」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.446」新潮文庫)
「<まさか窓から逃げたわけでもあるまい?>事実、一つの窓の通風口があけ放されていた。<ばかな、通風口から逃げられるわけもない>ピョートルはずっと部屋を横切って、まっすぐ窓のほうへ近寄った。<どうしたって無理だ>ふいに彼はすばやくうしろを振向いた。すると、何か異常な気配に彼はぎょっとなった。窓と向かい合った壁の、ドアの右手に、戸棚(とだな)が一つ立っていた。この戸棚の右側の、壁と戸棚でできた凹み(くぼ)に、キリーロフが立っていた。それも実に奇妙な立ち方だった。身動きひとつせず、体をぴんと伸ばし、両手をズボンの縫目に当てがい、頭を起して、後頭部を壁にぴったりと押しつけ、その凹(くぼ)みの中におさまっている様子は、そのまま全身をかき消してかくれてしまいたいとでも思っているようだった。あらゆる兆候から見て、彼はかかうれているのにちがいなかったが、どうもそれが本気にできなかった。ピョートルはその隅(すみ)からはいくぶん斜めの位置にいたので、彼に見えたのは、体のはみ出ている部分だけであった。彼にはまだ、左のほうへ体を動かして、キリーロフの全身を目にし、謎(なぞ)を解こうという決心がつかなかった。彼の心臓ははげしく鼓動しはじめた──と、突然、彼は凶暴な怒りの発作にかられた。彼は身をひるがえすと、大声をあげ、足を踏み鳴らしながら、猛然とその恐ろしい場所へ突き進んだ」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.446~447」新潮文庫)
「しかし、ぴたりとそばまで近寄ると、彼はふたたび釘(くぎ)づけにされたように立ちどまり、さらにはげしい恐怖におそわれた。何より彼を驚かせたのは、彼の叫び声と気違いじみた剣幕にもかかわらず、相手の姿が、まるで化石したか、蠟人形ででもあるかのように、びくりと動くでもなく、手足ひとる動かそうとしないことだった。彼の顔の青白さは不自然なほどえ、黒い目はまばたきひとつせず、虚空の一点を凝視していた。ピョートルは蠟燭を上から下へ、さらにまた上へと移しながら、あらゆる角度からこの顔を照らして眺めまわした。ふいに彼は、キリーロフがどこやら前方を見ていながら、同時に横目で彼のほうを見ているばかりか、観察までしていることに気づいた。すると、ふと彼の頭に、蠟燭の火を<この人>の顔にじかに近づけて、火傷(やけど)をさせ、相手が何をするか見てやろうという考えが浮んだ。と、ふいにまた、キリーロフの顎(あご)がわずかに動いて、人をあざ笑うような微笑がつと口もとを走ったように感じた──まるでこちらの肚の中を読み取りでもしたようだった。彼はがたがたとふるえだし、われを忘れて、むずとばかりキリーロフの肩をつかんだ」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.447」新潮文庫)
「それにつづいて起ったことは、あまりにも無茶苦茶な、とっさの間の出来事で、ピョートルもその記憶をあとから秩序立った形にまとめることがどうしてもできなかった。彼がキリーロフに触れるか触れないうちに、相手はふいに頭を沈め、その頭で彼の手から蠟燭を叩(たた)き落してしまった。燭台(しょくだい)ががらんがらんと音を立てて床にころがり、灯は消えた。その同じ瞬間に、彼は自分の左手の小指にはげしい痛みを感じた。彼は悲鳴をあげた。そして、彼が記憶していたのは、自分がもう前後も忘れて力まかせに三度、自分に襲いかかってきて指に噛(か)みついたキリーロフの頭をピストルでなぐりつけたことだけであった。ようやくのことで彼は指をもぎ放すと、暗闇(くらやみ)の中を手で探りながら、後も見ずに外へ駆けだした。その後を追って、恐ろしい叫び声が部屋の中からとんできた。『いますぐ、いますぐ、いますぐ、いますぐ──』十度ほども立てつづけだった。しかし彼はいっさんに走りつづけ、もう玄関口まで走り出たとき、ふいに高らかな銃声が聞えた。彼は玄関の暗闇で足を止め、五分ほどあれこれ考えていたが、ようやく、もう一度部屋に取って返した。しかし、まず蠟燭を見つけなければならなかった。戸棚の右手の床の上を捜して、叩き落された燭台を見つければよいわけだったが、それにしても、燃えさしにどうやって灯をともしたものか?ふと彼の頭に、あるぼんやりとした記憶がよみがえった。きのう、フェージカにつかみかかろうと台所へ降りていったとき、片隅の棚の上にマッチの大きな赤い箱をちらと目にしたような気がしたのである。彼は手探りで、左手の台所のドアのほうへ進み、ドアを見つけると、小部屋を抜けて台所へ降りていった。棚の上の、彼がたったいま思い出したちょうどその場所に、暗闇を手探りしながら、まだあけてない、ぎっしり詰ったマッチの箱を見つけた。彼は火をともさずに、そのままいそいで上に戻り、そしてなんとか戸棚のそばの、噛みついたキリーロフをピストルでなぐったあの場所まで来たとき、ふいに指を噛まれたことを思い出し、それと同時にほとんど耐えがたい痛みを感じた。歯を食いしばって、彼はなんとか燃えさしに火をつけ、またそれを燭台にさして、あたりを見まわした」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.448~449」新潮文庫)
「風口をあけ放してある窓のそばに、足を部屋の右側に向けて、キリーロフの死体が横たわっていた。弾丸は右のこめかみに射ちこまれ、頭蓋骨(ずがいこつ)を貫通して、左の上端から抜けていた。血と脳味噌のしぶきが散っていた。ピストルは床の上に投げ出された自殺者の手に握られていた。瞬間的な即死であったらしかった。いっさいの模様を綿密に調べあげると、ピョートルは体を起して、爪先歩きで部屋を出た。ドアをしめ、蠟燭を元の部屋のテーブルの上に立て、ちょっと思案したが、火事を起す心配もないと考えて、火は消さずにおくことにした。テーブルの上の遺書のほうをもう一度ちらと見て、反射的ににやりとすると、なぜかあいかわらず爪先立ちで、この家を出ていった。またフェージカの通路をくぐって、そのあとをまたきちんとふさいでおいた」(ドストエフスキー「悪霊・下・P.449」新潮文庫)