気まぐれ猫と音楽だらけの暮らし

マイフェバレット満載!好きなことしかしない気まま気まぐれでもちょっとセンチメンタルな、お話ばかりですが、聞いて!

見えない物から逃げる?

2011-07-04 20:38:04 | 日記・エッセイ・コラム

 3/11の20時にはすでに三キロまでは避難指示が出たという。10キロまでは屋外退避で、それも翌日の早朝に避難指示に変わる。これは後に町長が激怒したほど何も知らされていなかったのだ。ましてコンパスで書いた円で区切られた20キロ地点、避難した場所は実は一番後に線量が高くなる地区だったのだ。私たち家族は3/12に避難をした。最初はちょっとだけだと思っていたので何も持たなかった。着替えも持たず、布団も持たず、犬はつないだまま、猫だけ後で探すのが面倒だとキャリーバッグに詰めた。買い出しの後だったのでお菓子類やジュースを持ってちょっとしピクニック気分だった。避難した場所は津島地区。すでに満杯で路駐の車も多かった。つまりはすぐに解除になると思っていたのだ。夜になって急に人が減った。寒いので体育館にでも入ったのかと思ったら、原発が危ないという情報が飛び交い、もっと遠くへ逃げた人が出てきたのだ。開いたスペースに身を寄せる。ストーブはついていたし、毛布は貰えたので寒さは感じなかったが、煩くまぶしく眠れなかった。翌朝朝食が配られたが近隣の農家から提供された米で作った塩結びで、三人に一個という状態。我が家は子供二人。困っていたら目の前に陣取っていた男性二人組がくれた。彼らは何も口にせずに外に出た。大人は何も食べる物が無かった。それでも持って出た菓子類を食べてなんとかごまかした。ちょうど給料日の後で財布には現金があったし、なぜかキャッシュカードもクレジットカードも持っていた。保険証や免許証もバッグにあった。持病の薬も持っていた。ツレに近くの町まで買い物に行ってもらう。男性では気が付かない物だけをメモにして渡して、後は適当に手に入れられる物をと頼んだ。近くの店ではもう売るものがないという。やっと買えたのは「麩」と「ポン酢しょうゆ」だったと友人が笑う。別の友人は缶コーヒーしかないと嘆く。

 その頃はまだDoCoMoの携帯も繋がっていたので社員と連絡をとり、全員無事だと確認できた。しかしその後充電器が無いため使えなくなる。ツレが子供のゲーム機の充電器を探してくる。避難するには退屈だろうからとゲーム機は持たせた。しかしやはりあわてていたのか充電器は忘れてしまった。私はPCと電子書籍端末を持っていたが、山間部なので役には立たなかった。避難の前にツレの実家と連絡がついていたので取りあえず安心してもらったのが良かった。友人との最後のメールも残っている。

 しかし翌日になると状況はどんどん悪い方向へ変わっていく。水素爆発した三号機。四号機は定検中なので稼働していないのに水温が高くなってきたという。地区ごとに避難していた人はどんどんいなくなっていく。代わりに津波からやっと逃れたという人がたどり着いたり、新たに別の避難所から移動した人もいて体育館は混乱していた。食事は相変わらず塩結び。夜になって新潟からの支援物資で海苔付きの普通の御握りが配られた。お茶もあったし水もあった。水洗トイレだったので、給水車が来ると男性陣はバケツリレーが始まる。女性はごみの片づけやトイレ掃除をした。それも班ごとに班長を決めて順番も決められた。エコノミー症候群予防のためにストレッチの先生も来た。朝はラジオ体操もした。秩序はあったと思う。

 しかし、流れるラジオやテレビからの情報は津波からの救助から原発の事故へと移っていく。

 津波でやられるのと放射能から逃げるのとどっちが楽だろうかと考えた。地震に津波に原発。おまけに空腹と騒音と余震が続いたために起こった地震酔いによる不快感。

 それでも残して来た犬が心配だったし、少しでも自宅から離れたくなかったので情報の入る体育館に居ることを決めた。しかし避難指示が30キロになったらどうするのかだけは考えておいてくれとツレがいう。ツレは他県出身なので地理的に詳しくはない。親戚もいないのでさて今後はどうしようかと思っていたところに、持病の薬が底をついた。

 診療所に行くと薬はある分は出せるというので貰えた。それを抱えて小雨の降る中体育館へ戻ると、すぐに30キロに避難指示が拡大されたとの情報が入る。

 その時が来てしまったのだ。


青天の霹靂

2011-07-04 16:45:18 | 日記・エッセイ・コラム

 私がここまで生きていられたのは実は原子力発電所が相双地区にあったからだ。両親が離婚した昭和40年代に建設が始まり街は賑わった。母親が水商売を始めて店は繁盛した。だから高校も大学も不自由なく行かせてもらった。客は大半が原子力関係者だったし、反対だと声高に言うのはいつも一部の党の人々のみで表だって「原発はいらない」という人は少なかった。ただ、東北電力が町に7号機・8号機を作ろうとした土地の買収に時間がかかったのは確かだ。おかげで町は衰退し建設が始まればまた潤うからそれまでの辛抱だと言っていた。東京電力の数々の不祥事も「めんどくさいことを」とメディアを批判したほどだ。県知事にも建設着工の許可を求めて相双地区市町村長が談判に行ったこともある。そのくらい浜通りは原子力なくしては成り立たない。産業も少なく大手の紡績工場も電子部品会社も撤退したからだ。多くの若者が流出し若干名が原子力の子会社・孫会社・ひ孫会社に就職した。作業服だけは「東電」や「東芝」、「日立」など付けているが実は日雇いと一緒だ。社会保険にすら入っていない派遣会社も多く、入社して結婚してからあわてて社会保険加入の会社を探すほどだった。

 ここまで詳しいのは私が大手の協力会社の下請け会社の社員だからだ。

 しかし、避難所ではひた隠しにしていた人が多かった。ツレも同じ会社だし避難所にはたくさんの顔見知りがいたが口には出さなかった。テレビで水素爆発した映像を見てもなにか別世界の物を見せられている気がしてまさに「他人事」だったように思っていた。

 見えない放射能におびえている人々を見て、大丈夫だと言ってあげたかったがどうやって説得すればいいのかすらわからない。というよりも何をどう「大丈夫」だといえるのか今となってはわからない。誰も「長期間放射能を少しずつ浴びたらどうなるか」なんて研究はしていないのだから。

 今まではやけどを負うような被爆の事しか語られなかった。被曝と被爆は違う。しかしどんな言葉も気休めにしかならない今となっては、知識も役には立たない。

 だから避難所の片隅でじっと「なぜ?」と繰り返すばかりだった。安全神話なんてなかったのか?本当に?

 それよりもこの震災自体が夢のような出来事で、ふと目を覚ませばいつもの日常になっているのではないかと思いたかった。