3/11の20時にはすでに三キロまでは避難指示が出たという。10キロまでは屋外退避で、それも翌日の早朝に避難指示に変わる。これは後に町長が激怒したほど何も知らされていなかったのだ。ましてコンパスで書いた円で区切られた20キロ地点、避難した場所は実は一番後に線量が高くなる地区だったのだ。私たち家族は3/12に避難をした。最初はちょっとだけだと思っていたので何も持たなかった。着替えも持たず、布団も持たず、犬はつないだまま、猫だけ後で探すのが面倒だとキャリーバッグに詰めた。買い出しの後だったのでお菓子類やジュースを持ってちょっとしピクニック気分だった。避難した場所は津島地区。すでに満杯で路駐の車も多かった。つまりはすぐに解除になると思っていたのだ。夜になって急に人が減った。寒いので体育館にでも入ったのかと思ったら、原発が危ないという情報が飛び交い、もっと遠くへ逃げた人が出てきたのだ。開いたスペースに身を寄せる。ストーブはついていたし、毛布は貰えたので寒さは感じなかったが、煩くまぶしく眠れなかった。翌朝朝食が配られたが近隣の農家から提供された米で作った塩結びで、三人に一個という状態。我が家は子供二人。困っていたら目の前に陣取っていた男性二人組がくれた。彼らは何も口にせずに外に出た。大人は何も食べる物が無かった。それでも持って出た菓子類を食べてなんとかごまかした。ちょうど給料日の後で財布には現金があったし、なぜかキャッシュカードもクレジットカードも持っていた。保険証や免許証もバッグにあった。持病の薬も持っていた。ツレに近くの町まで買い物に行ってもらう。男性では気が付かない物だけをメモにして渡して、後は適当に手に入れられる物をと頼んだ。近くの店ではもう売るものがないという。やっと買えたのは「麩」と「ポン酢しょうゆ」だったと友人が笑う。別の友人は缶コーヒーしかないと嘆く。
その頃はまだDoCoMoの携帯も繋がっていたので社員と連絡をとり、全員無事だと確認できた。しかしその後充電器が無いため使えなくなる。ツレが子供のゲーム機の充電器を探してくる。避難するには退屈だろうからとゲーム機は持たせた。しかしやはりあわてていたのか充電器は忘れてしまった。私はPCと電子書籍端末を持っていたが、山間部なので役には立たなかった。避難の前にツレの実家と連絡がついていたので取りあえず安心してもらったのが良かった。友人との最後のメールも残っている。
しかし翌日になると状況はどんどん悪い方向へ変わっていく。水素爆発した三号機。四号機は定検中なので稼働していないのに水温が高くなってきたという。地区ごとに避難していた人はどんどんいなくなっていく。代わりに津波からやっと逃れたという人がたどり着いたり、新たに別の避難所から移動した人もいて体育館は混乱していた。食事は相変わらず塩結び。夜になって新潟からの支援物資で海苔付きの普通の御握りが配られた。お茶もあったし水もあった。水洗トイレだったので、給水車が来ると男性陣はバケツリレーが始まる。女性はごみの片づけやトイレ掃除をした。それも班ごとに班長を決めて順番も決められた。エコノミー症候群予防のためにストレッチの先生も来た。朝はラジオ体操もした。秩序はあったと思う。
しかし、流れるラジオやテレビからの情報は津波からの救助から原発の事故へと移っていく。
津波でやられるのと放射能から逃げるのとどっちが楽だろうかと考えた。地震に津波に原発。おまけに空腹と騒音と余震が続いたために起こった地震酔いによる不快感。
それでも残して来た犬が心配だったし、少しでも自宅から離れたくなかったので情報の入る体育館に居ることを決めた。しかし避難指示が30キロになったらどうするのかだけは考えておいてくれとツレがいう。ツレは他県出身なので地理的に詳しくはない。親戚もいないのでさて今後はどうしようかと思っていたところに、持病の薬が底をついた。
診療所に行くと薬はある分は出せるというので貰えた。それを抱えて小雨の降る中体育館へ戻ると、すぐに30キロに避難指示が拡大されたとの情報が入る。
その時が来てしまったのだ。