一番困るのは「眠れないこと」でした。体育館は避難してくる人への道しるべとして夜中でも煌々と明かりをつけたままでいる。山道を避難してきて明かりが見えたらそれは相当な安堵感があると思う。電燈の真下にいた自分は本当に眠れなかった。明るいだけではない。24時間誰かが起きているので話声もする。トイレに立つので歩く。すると足音がする。日本人のすり足で歩く人はまれだし、体育館は構造的に「太鼓」ににているので良く響くのだ。一応22時くらいには横になる人が多い。しかし5時前になると朝刊がくるので動き出す。トイレの水が少ないので男性はバケツを給水所までもっていき自分の分を確保してトイレをする。それがまた長い。
トイレの苦労はかなり酷い。高校の分校の方では浄化施設があふれて大きな穴をほっているとか。水洗なだけ自分のいる避難所はまだましか。しかし水が出ないのでタンクにバケツで水を入れる。その時にこぼすので水浸しになる。スリッパはあるがこれも水で濡れている。靴下のままでは余計に不潔な気分になる。ペーパーはあったので助かったがそれも流さずにゴミ袋に捨てるようにとの指示だ。二日目には何回か溜めてから流すようにと指示が出た。他人の物は臭い。でも息を止めて入る。給水車が来るまでの我慢だし、一時期は水が復旧したこともあった。
歯磨きをする人もいる。ペットボトルに水を入れて工夫している。化粧水でお肌のお手入れをする人もいる。自分はボディーシートを持っていたので背中や首回りを拭いた。タオルを濡らして顔や足を拭いてあげると子供はほっとした顔になる。
とにかく退屈だった。新聞を何回も読み返し、12時、6時、7時、9時とニュースを見に廊下に立つ。この時期のテレビ番組は連日震災の報道ばかりでいつみても同じようだった。
配給を貰って食べる。あまりの分や食欲が無く食べない物は取っておく癖がついた。今でも「もったいないから」と捨てないで食べる努力をする。買い物も必要最低限だけだ。贅沢をいわずに出されたものは食べた。これは今でも我が家のルールだ。好き嫌いの前に何か栄養をとらないと死ぬからだ。
「使い回しをする」「あるものでまかなう」「贅沢はいわない」「捨てないように食べる」
これだけの事でずいぶん「生ごみ」が減った。ちょっとしたことで変わるんだなと苦笑いだ。
洗濯をきちんとすれば、下着も靴下も一人二組か三組あれば充分だ。ありがたいことに我が家は子供が大きくなったので、男性陣と女性陣は同じサイズに出来る。これも着回しや貸し借りが出来るので助かる。
避難所でワンセグが入ったのでずいぶん情報を得られて助かった。津波で流された知人を探したり、ライフラインの事、生活情報が入るからだ。しかし原発の事故はだんだんアナログ化してきて、最後は人間による特攻しかないのかと愕然とした。線量がオーバーするまでに作業を続け、次の人に引き継ぐ。これを人海戦術でいくのだ。何人必要なんだろう。
避難所では何もできなかった。残して来た犬の事を心配して、何も持たないで出てきた自分を責めていた。そのたびに子供は最初慰めてくれていたが、澄んだことは仕方ないじゃないかというようになった。
生きている。いや、生かされているだけでこれからどうすればいいのだろうと思った。
その後に避難区域が広がるたびに躊躇する人の話を聞くといらいらする。有無をも言わずにあの日必死で逃げた自分たちは考える余裕何てなかったからだ。
車一杯に積んだ家財道具をみてうらやましく思った。何も持たない自分たちはこれからどうするのか?
塩気のない塩結びに手に入れた塩をかけて食べたときはおいしいと感じた。
おにぎりが嫌いになった。たぶんしばらくおにぎりは食べないだろう。特に塩結び。
煩いと言えば、温風機の振動音がうるさかったですね。横になると直接耳に響くので嫌でした。ちょうどヘリコプターの音に似ているんです。本当にヘリコプターも飛んでいましたからかなり煩かったですね。一度耳につくとそれを追いかけてしまうんですね。なので頭痛がひどかったのを覚えています。