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2024年12月25日追記 市島別邸は、戊辰戦争で茶室以外の建物が焼失した・・ということになっているが、これは誤りの可能性がある。誤りというか、故意に嘘の情報を流したと思われる。市島別邸については、先(大地主・市島邸の物語 40)に載せた会津藩の少年兵が描いたスケッチ絵しか存在していないことになっているが、新潟県立文書館に市島別邸敷地配置図(下)が存在していた。 明治2年(1869年)8月 市島徳次郎 献上地麁絵図。官軍に土地建物を献上(寄贈)した
(下)黄色矢印先は3軒長屋。 緑矢印先は蔵。 赤矢印先は居宅が建っていた場所。火事で全焼したのでなく、建物の一部が焼けたが、他の部分は焼けずに残っていたのだろう。その為に「居宅」と表示していないが、四角い線で囲っている。この図面から推測すると居宅の坪数は150~200坪かと思われる。青矢印先は池。現在の池とは別の場所にある。 焼け残ったとされる「茶室」は描かれていない。茶室は別邸敷地内でなく、本宅敷地内に建っていたかもしれない。 この図面は2018年、東京大学資料編さん所の先生が発見。2023年に運よく私が気付き、2024年12月に某氏から管理番号を聞き、県立文書館で閲覧確認。個人の資格では、この後の行動がしにくいので某役所の資格を持っている人に今後の対応を依頼した。1年以内に行動確定を依頼。うまくいけば新しい歴史的発見になるかもしれない。その時は詳しく報告します。
(下)新潟市中央区にある「みなとぴあ」の展示物から。
天保14年(1843)年 初代新潟奉行は川村修就(ながたか)。弘化2年(1845年)に新潟奉行所が完成。敷地は2,157坪(約7,118㎡)
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