3月3日は、ひな祭り
2017年2月25日(土) 南魚沼市浦佐にある 「越後浦佐 毘沙門堂」へ。 この山門は、日光の陽明門を形っている山門です。
上の写真の山門の天井には、江戸下期を代表する絵師・谷文晁師の「八方ニラミの龍」双龍図板絵が描かれています。
長廊下(回廊)。 回廊には外壁がないので雪が吹き込み、通路部分に雪が多く積もっていました。
この日は寒かったので、通路の雪がカチカチに凍っていました。
(左)回廊の奥にある、石像仏としては日本最大の不動明王(明治初年作)。 (右) ご覧のとおり、まだ積雪量がすごいです。
毘沙門堂。 浦佐駅の近くにあります。 一度、来てみたかった御堂です。 807年に坂上田村麻呂将軍が建立。
毘沙門堂。 しっかりとした造りです。
毘沙門堂の本堂。 ここで、国の無形民俗文化財である裸押合大祭が、3月3日に開催されます。この祭りは約1200年前から開催。
毘沙門堂 → 浦佐駅 → 高速道路方面へ1㎞先へ。この地点で標高122m。 毘沙門堂の標高は、130m以上 ?
どおりで寒いわけです。 ← 標高122m地点の積雪。 150センチぐらい。
次回に続きます。 管理人
3月8日追記 → 3月11日(土)BSNテレビ 午前10時30分から
「浦佐 毘沙門堂、裸押合大祭」 の、テレビ番組が放送されます。 録画予約しなくては!
(左)越後府門の図 (右)越後府の矢倉 棟梁の五十嵐徳次郎が作図
前回の続きです。 → 2つあった長持は、明治41年の大火と昭和30年の新潟大火で焼失。 掛け軸などのほか頼山陽や元新潟市長・八木朋直の書簡も入っていたそうで、焼失して残念だと斎藤さんは振り返ったそうです。
図面と写真が大火を奇跡的に免れたのは、新潟市中央区東大畑に住んでいた斎藤さんの実父が調べもので借り出していたから。 焼けなくてよかったですね。 もし、焼けていたら越後府の矢倉などの証拠写真は世に出なかったのですから。
この写真が発見されたのは、現在の水原代官所が再建された翌年でした。 次回に続きます。
2枚見つかった写真の一枚。水原ふるさと歴史農業資料館で撮影。
1996年3月17日の新聞記事から(誌名記録無し) → 明治5年、齋藤忠敬は指導者として水原村の初代戸長として任命された。
水原村で書物のほか化粧品、医薬品などを販売する「紅屋潤身堂」の二代目だったので「紅屋戸長」と言われたという。
越後府の資料は、造営の棟梁に任命された五十嵐徳次郎が部屋の寸法と門の図を描いたといわれる日記帳しかなかっただけに、渡辺勇さんは「探し続けた幻の越後府の証拠。あると知った夜は眠れなかったほど嬉しかった」と話したそうです。
斎藤家に代々引き継がれた6尺(1.82m)の長持には、歴史的に貴重な資料が詰まっており、齋藤さんも小さい時から父に聞いていたそうです。
(大部分が新聞記事の紹介です) 次回に続きます。
平成8年(1996)3月17日の新聞記事から「誌名の記録無し」 上左は越後府の建物平面図。
この図面は、実物の100分の1で縦1m、横1.2mの和紙の描かれている。 びっしりと門、押入れ、風呂などの間取りが書き込まれ、
ふすまや障子の枚数の書かれた付箋(ふせん)も貼られているそうです。
発見された写真は望桜のある越後府の全景とアップの2種類。
写真を納めた木箱には 「故斎藤忠敬造営 越後府図」と書かれているそうです。 写真は明治3年(1870)前後のものと渡辺勇さんは分析。
日本に写真館ができたのは幕末の文久2年(1862)といわれており、県内の写真史上でも貴重な資料になるそうです。
明治3年は1870年。 日本に写真館ができて8年後に撮影されたことになります。 誰が撮影したのでしょうか。新潟市の人 ?
「斎藤忠敬」という人は、持ち主・斎藤敬冶さんの大祖父。 越後府営繕方課長で、敷地約9900㎡(3千坪)、建物1980㎡(600坪)の越後府造営責任者だったそうです。 次回に続きます。
(質問) 上 3枚の「オーブ」の写真ですが、本物でしょうか? ニセモノでしょうか? どれがニセモノでしょうか?
私の「オーブ」の写真を閲覧してくれる方は、かなりいらっしゃいます。 たいていは閲覧のみ・・です。
2名の方が、熱心にコメントしてくれています。 ただ、内容が「オーブの写真投稿やめなさい」と「ニセ写真・オーブを信じない・ニセ写真の撮影方法の説明」です。
私がオーブの写真を投稿しているのは、私と同じオーブを撮影している人と連絡を取りたいから。 今までに2名の方と、その人が運営しているブログのコメント欄で話合っています。2名の方も、私と同じにオーブの写真を投稿し続けています。ブログでお互いの写真を見ながらなので、その人が本物のオーブ撮影者か判断できます。
ただ、オーブを撮影できない人には、ニセモノや合成写真に見えるようです。実際、ネット検索すると、オーブは水滴や塵が写ったもの・・という説明があり、レンズのフレアでの写真がオーブである・・という記述もあります。 撮影したことが無いので本物か判断できないのでしょう。
ところで、「ニセモノのオーブの写真」というものに、私は関心があり、観たいと思っています。 ニセモノのオーブの写真を撮ったというコメントを数回貰いましたが、その写真を見せてもらえません。 実際は、撮影などしていないのでしょう。
そこで、私はニセモノのオーブの写真を見本(?)に撮影してみました。
(質問の答) 上の写真の1枚目と2枚目はニセモノのオーブの写真です。 3枚目は本物のオーブ(私は、エネルギー体)と呼んでいます。
(お願い) 1枚目と2枚目のニセモノ写真の撮影方法の説明をコメントしていただけませんか。 本物のオーブは、ただオートでシャッターを押すだけなので、それ以上の説明はできませんが、ニセモノの撮影方法は説明できます。 ぜひ、皆さんのコメントをお待ちしています。
〇 3枚の写真の撮影は、夜の撮影・カメラはオート(ピント・露出・フラッシュ撮影)で、約4万円で買った小型デジカメで撮影。雨と雪は降っていません。風も吹いていません。星空でなく、曇り空です。大雪の日だったので積雪があります(1枚目は今月の15日。2枚目と3枚目は1月14日に撮影。14日の朝は、大雪で除雪が大変でした。)
〇 1枚目の写真は初級編で、答えは過去の私のブログに書いています。 2枚目の写真は中級編です。3枚目の写真にヒントを写しておきました。2月20日以降に答え(撮影方法)をこのブログに追記します。 それまでに、多くの方のコメントをお待ちしています。
最後に3枚目の部分拡大写真を投稿。 強い光をあてると「白くなる」というコメントをもらった事があります。下の写真、遠く離れたオーブが白く写るには強力な光源が必要でしょう。 この写真も、ただ小型デジカメのシャッターを押しただけです。 コメント、待っています。
2017年2月19日に追記 → ニセモノ写真の撮影方法のコメント投稿を期待していたのですが、何もありませんでした。
そこで、私が説明します。 1枚目の写真は簡単で、画面の端に強い光源を配置します(写真では左下)。オーブの写真はシャッターを切り、液晶画面で確認しないと写っているか わかりませんが、この方法なら液晶画面を見ながらデジカメの角度をいろいろと変更し、一番オーブらしく見える位置でシャッターを切れば写ります。
2枚目の写真は3枚目の左下にある小屋の積雪にフラッシュの光をあてて、撮影します。この日は大雪で、小屋に積雪が多く積もっています。
雪は平面に見えますが、実際は雪の結晶は色々な形状で、ここにフラッシュの光が当たると乱反射して各数多くの白い輪が写ります。
つまり、下の写真を見てください。赤い丸がカメラの位置。 ピンクの矢印はフラッシュの光の方向。 このフラッシュの光の乱反射で2枚目のように写ります。
赤丸がカメラの位置。
この説明の応用編が下の写真です。
丸い輪だけでなく、中央にボワッとした白く長いものが写っています。 この写真は2月4日に撮影。
ヒントは上の写真の上部左側に写っている白い変形した部分。 この白い部分が下の写真。
白い部分は屋根に積もった雪が消えてきて、一部が凍っています。
凍っており、平面でなく変形しています。ここにフラッシュの光が当たると上のような写真になります。
撮影方法は、液晶画面で確認できない(しにくい)ので、カメラの位置を前後左右、上下に、そして角度を変えて数多く撮影。
その中に、上のような写真があるでしょう。 私は7枚撮影しました。
参考に、もいう2枚投稿します。
この写真は、デシカメのダイヤルをPにセットし、夕方 金星を望遠で手持ち撮影。シャッターを切る時、カメラを左右に動かします。
夕方なので、シャッター時間が長い・・この間にカメラを動かすと上のような写真が撮影できます。
ただ、これはニセモノのオーブの写真です。 見る人が見れば、ニセモノと簡単にわかります。
私が「オーブの写真」として投稿しているのは、こういうニセモノではありません。
最後に、小型デジカメで私は撮影していますが、デジカメ一眼やミラーレス一眼では、どのように写るかわかりません。
私は小型デジカメしか持っていないので。 若いころはカメラマニアで、6台のフイルム用一眼カメラや交換レンズ数個に外付けフラッシュなどを持っていましたが、オーブの写真を撮影したことがありませんでした。 もっとも、オーブの存在を知ったのは最近なので、フイルムカメラでオーブが写っていても失敗作だと思っていたでしょうが・・・。 フイルム用一眼のカメラはデジタルカメラがでてきて、現像代やプリント代が不要なので、全て売却してしまい手元に一台も有りません。
平成8年(1996)3月17日の新聞記事から。(誌名の記録無し)。 明治の初めに阿賀野市(旧水原町)にあった新潟県政発祥の地「越後府」。
この越後府の写真が新潟市中央区古町にある北光社会長斎藤敬冶さん(71歳)宅にあるのを水原町の郷土史家渡辺勇さん(69歳)が発見。
渡辺さんが水原町の歴史を調べるため、先祖を水原町に持つ斎藤さん宅を訪れ、家系の話から平面図と写真の存在がわかったそうです。
渡辺さんは旧水原町長で県会議員だった方です。 見つかった平面図と写真は明治2年9月に上棟された越後府のものです。
越後府は旧水原町中央町2丁目にある天朝山公園に新潟府として明治1年(1868)9月に設置。翌2年2月に越後府、同年7月27日に水原県に呼称変更。
そして明治3年(1870)3月に新潟県となり、県庁を新潟市に移すまで約1年半、府庁、県庁がありました。この歴史から新潟県発祥の地と言われています(新聞記事を要約して投稿しました)。 次回に続きます。
2013年2月16日に開設した当ブログ。 今日で満4年。
今まで訪問していただき、ありがとうございました。 おかげで、訪問者数 151,625人。閲覧記事総数 522,649。
まだ 投稿したい記事もあるので、できれば毎日1記事は投稿継続したいと考えています。
これからも、時々 訪問していただければと願っています。 管理人
1 阿賀野市においてのマイナンバー・カードの申請者数は、3,266人で市の人口の7.4%
2 うららの森で毎年2月に開催される「ゆうきの火祭り」は、サイの神を作るためのワラの保管場所が確保できなかったので、今年は中止だそうです。
3 平成28年の阿賀野警察署管内での交通事故死亡者はゼロ。 昭和31年以来、60年振りの快挙だそうです。
4 正月3が日の瓢湖への観光客は、鳥インフルエンザの影響で激減だったそうです。
5 水原地区にある日蓮宗本妙寺が、「本妙寺史 A4版 170ページ」を自費出版されたそうです。 1649年に建立されたそうです。
詳しく知りたい方は、あがの新報さんを お読みください。