新発田市 金升酒造の日本酒 「金升 朱ラベル」
720ml 税込1,155円。 DVDのドラマ「ワカコ酒」(下の写真)で紹介されていました。美味です。
このドラマ、県外で放送。お酒、うまそうに主人公の女性が飲みます。金升、東京でも人気のようです。
←DVD「ワカコ酒」
(上右)(下)漫画「ワカコ酒」著・新久千映 (株)コアミックス 580円+税
(上)のドラマ、新久千映さんの漫画を原作にドラマ化されています。面白いです。
下記は2019年1月27日投稿の記事です
芋焼酎「権兵衛」 25度 美味です。
新発田産の黄金千貫を使用 数量限定焼酎
(上)2023年12月30日、正月の お神酒として購入した1合瓶の酒「麒麟山 伝統辛口 180ml」
アルコール分15度 米は新潟県産米 新潟県東蒲原郡阿賀町 麒麟山酒造(株) 美味でした。
麟辛(りんから)。販売店限定。普通酒。アルコール度数15度
精米歩合60% 超辛口。720mlで990円。 飲むときの推薦温度55度 阿賀町津川 麒麟山酒造(株)
(上)麒麟山・伝統辛口<原酒> アルコール分21度 新潟・奥阿賀産米100%使用 麒麟山酒造(株)
(下)2023年4月購入 麒麟山・伝統辛口<春ラベル> 奥阿賀産米100%使用 期間限定販売
← ラベルが素敵です。
下記は2020年8月26日投稿
家族からの土産 阿賀町津川 麒麟山酒造(株)
15度 吟醸 精米歩合58% 夏の限定酒(よく冷やして) 美味でした。
「はでっぱの香り」 精米歩合65% 美味でした。
アルコール度数15度以上16度未満。 2013年4月購入。 阿賀町津川 麒麟山酒造(株)
村上市の大洋酒造(株)、大洋盛の特別本醸造 精米歩合60% 辛口 720ml 951円(込)
アルコール分15度 全国燗酒コンテスト2022 金賞受賞(2020年も金賞、2012年は最高金賞)吟醸酒に匹敵する味、美味です。
下記は2014年10月21日に投稿した記事です。
2014年10月17日の日本経済新聞新潟版に「新潟県の古酒」の記事が載っていました。記事の写真は、新潟県村上市飯野1丁目の大洋酒造(株)さんの古酒でした。 村上市までは遠いので、阿賀野市水原地区・代官所近くの小林酒店で買いました。 買った酒は 純米吟醸十年古酒「米+水+人十年」という酒で、720ml 2300円。 上の写真の酒です。 ラベルの説明文の一部を転載します。「十年の時が仕上げた円熟味。当社通常品比較で麹歩合を三割以上高めて醸造。十年の熟成により味わいに円が増し、しかも ほのかな黒蜜のような香りをまとっている。冷や・常温がお薦め。 精米歩合55% アルコール分15度」 確かに黒蜜の味がします。 泡盛の十年古酒を飲んだことがあります。 日本酒の十年古酒は飲んだことが無いので買いましたが、貴重な味と酒なので、杯でチビリチビリと飲んでいます。
この酒は3500本の限定で、ボトル(酒瓶)に通し番号を入れています。 私が買ったのは1878号。小林酒店には、まだ数本残っていました(10月18日現在)
「純米大吟醸 たかちよ」 アルコール分16度 精米歩合48% 生原酒
厳選中取り本生 南魚沼市長崎の高千代酒造(株)
「たかちよ うすにごり活性生」 アルコール分16度
扁平精米 無調整活性生原酒 南魚沼市の高千代酒造(株)
「豊醇無盡たかちよ扁平精米無調整おりがらみBLUEラベル」
アルコール分16度 南魚沼市の高千代(株)
「たかちよ 赤ラベル」 アルコール分16度 無調整生原酒
限定扁平精米 南魚沼市の高千代酒造(株)
上記「たかちよ」美味です。 ひらがなで「たかちよ」という酒、新潟市や阿賀野市で買えません。残念。
「たかちよ しぼりたて生原酒」 アルコール分16度 扁平精米おりがらみ
南魚沼市長崎 高千代酒造(株)の日本酒。
家族からの土産の日本酒です。
アルコール分15度以上16度未満。精米歩合53%。原料米 一本〆100% 新潟県開発の優れた酒米好適米。高千代酒造で種子生産管理を行っている希少な酒米。全量契約栽培。
2017年11月、「関東信越国税局酒類鑑評会」の「純米吟醸酒」の部門で入賞。 美味でした。
「雪譜 純米生原酒」 南魚沼産五百万石仕込 要冷蔵
南魚沼市・金沢屋限定の包装。紫外線を遮断する為の新聞紙包装です。
精米歩合55% アルコール分17度 南魚沼市塩沢 青木酒造(株) 美味でした。
「鶴齢 爽酵」 夏の限定酒 精米歩合55% 特別純米酒
アルコール度数14度 青木酒造(株) 美味でした
「鶴齢・純米超辛口」 精米歩合60% アルコール分18度
美山錦100%使用。巻機山(まきはたやま)の伏流水仕込 青木酒造(株)
「鶴齢・生」 精米歩合60% アルコール分15度 青木酒造(株)
「ユキオトコ・サイダー」275ml 炭酸飲料 青木酒造(株)
新潟県新発田市本田戊1851番地(通称 中之通り )牛頭天王宮(ごずてんのうぐう) 2020.11.18撮影
この記事の一番下に案内図あります。
こちらは、福嶋潟総鎮守 牛頭天王宮。疫病退治の神様です(神仏習合の神)。薬や農薬の無い時代、人々はその御利益を求めて参拝。7月4日・5日の大祭には、福島潟周辺をはじめ阿賀野市・横越・新津・五泉・豊栄・新発田・菅谷などからも信者が親戚・縁者を訪ね、泊りがけで参拝に来た。車社会の現代でも、当日 周辺の住民は親戚を呼んで祭りを祝う。4日夜は、多くの花火があがり人々を喜ばせています。
ここで、疑問なのは牛頭天王宮と天王さまと呼ばれる須佐之男神社の関係。両神社は約500m離れた距離にあり、牛頭天王宮の宮司と須佐之男神社の宮司は違います。現在の天王さまの祭りは、屋台などの出店が減少しましたが、30年ほど前は両神社のあいだに屋台や金魚売りの店が連なっていました(現在はスーパーやゲームセンターなどで、子供たちは日常的に遊べる場がありますが、昔は遊び場が少なく縁日は子供たちにとって遊園地のような存在でした)。近隣の農家は、両神社に祭の時に米(紙袋に入れた)をお供えし、田の病気予防や家内安全を祈願しました。
← 神社の額。「天王」と書かれています。
全国にスサノウ(須佐之男)を祀った神社は数多くあるが、これらのほとんどは以前 牛頭天王を祀っていた神社。牛頭天王は疫病を防ぐ絶大な力を発揮する神であり、薬師如来を本地仏とし神道におけるスサノウと同一であるとされる。当時 医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代から中世にかけて日本中にひろまった。牛頭天王を略して「天王(てんのう)」と呼んだ。民衆にとって「てんのう」とは天皇でなく牛頭天王のことであった。
平安時代から近世まで、新たに牛頭天王を祀る神社を作るのみならず、従来祀っていた祭神から牛頭天王を主祭神にするようになった。社名を牛頭天王に変える神社も多くあった。江戸末期・幕末になると国学者や神道家が現れ、彼らにとって神仏習合の牛頭天王は疎ましく目障りな存在だった。さらに「てんのう」と称することは天皇に対する重大な僭称(せんしょう)であり、不敬であると思われた。明治維新後、明治政府は神仏分離を政策とし、牛頭天王を祭神とする神社に対して全ての祭神をスサノウに変えるか、祭神の中から牛頭天王を除外することを求めた。 その為、社名も祭神も牛頭天王と称している神社は全国的にみても少なく、且つ神職が本務を務める神社となると、さらに少なくなり、ごくわずかである。
ここから本題に入ります。牛頭天王宮は、もともと天王集落にある須佐之男神社にありました。前記のように明治政府の神仏分離政策により、天王集落にある神社は「須佐之男神社」に改名しました。神のみの神社になりました。仏の方は、宮司が住んでいた新発田市(旧豊浦町)吉浦にある自坊に本尊を遷座した。しかし、信者が両方を参拝するには遠距離で不便なのと、天王集落内にある神社をご本尊と誤信するものが多くなった。その為に檀信徒多数の勧めに従い、明治12年(1879年)8月、霊地を天王集落の隣集落(通称 中野通り)である、現在の牛頭天王宮の地を霊地として尊像を安置した。
(上の写真)鳥居の写真左側には「牛頭天王」という石柱が。奉納者は「天王 市島氏」とあります。(市島様でしょうか)
牛頭天王宮の御朱印 2020.11.26に宮司さんから頂きました。
御朱印の下側に「佐々木盛綱」の文字と絵が。ウィキペディアによると「佐々木盛綱(ささきもりつな)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。加地盛綱とも呼ばれ、加地氏の祖である。源頼朝に伊豆の流人時代から仕え、その挙兵に従い治承・寿永の乱で活躍。備前国児島の藤戸の戦いでは、島に籠る平行盛を破った。末裔が越後国加地荘を領した「※加地荘は、旧新発田市・旧加治川村・旧豊浦村・聖篭町あたりの地域。阿賀野市は白河荘になります」。この末裔が佐々木義綱(よしつな)で、牛頭天王宮の開祖。以下、下記の「潟端牛頭天王御縁起」をお読みください。
※御朱印は、拝殿横に宮司さんの社務所・自宅があり、玄関横の呼び鈴で宮司さんを呼び、お願いします。留守の時もあるようです。
下の文章は、牛頭天王宮の宮司さんから頂いたものです。当ブログに投稿することを了解して頂いたので、投稿します。
何故、牛頭天王の神社がこの地(福島潟の隣接地)にあるのか。下記の資料に詳しく説明されています。
1060年頃の地図をみると、上の図の中央上部にある「本田」近くまで「越ノ海(東潟)」でした。その後、地図の下部にある福島潟まで陸地になって行きました。」
文明6年(1474年)8月15日、吉浦村に精舎を落成し、松柳山天王寺(しょうりゅうざんてんのうじ)と号す。上の図は、この年から171年後。福島潟が徐々に土砂で堆積し、開墾され陸地になっていきます。文明7年(1475年)6月5日、福島潟湖畔に接する小島に堂を建て牛頭天王を祀ります。疫病の神である牛頭天王を祀ることにより、疫病が減り、米が増収し人が住み始めていきます。御本尊は行基の霊作「牛頭天王」。※阿賀野市羽黒にある優婆尊のご本尊も行基の作。
上の図は、新発田市の清水園に展示されている、正保(しょうほう)2年「1645年」の越後絵図。画面の左端に「新発田田城」があります。新発田藩の時代の絵図です。中央下部に福島潟。福島潟の上に「天王」の文字有り。横の「沖ノ館」は、阿賀野市。沖ノ館の下の「里飯野」や「高森」は、新潟市北区。「天王」の上部に道路の赤い線があり、「本田」の文字が。牛頭天王宮の所在地名も「本田」です。上部にある「本田」の上側に、現在の月岡温泉があります。上部にある「本田」の左斜め下に「吉浦」の文字。
← 文政1年(1818年)の地図
(上)赤い矢印先は福島潟。 黄色い矢印先は阿賀野川。 福島潟周辺が陸地になってきました。
牛頭天王宮は、明治初めの神仏分離により、天王から吉浦に移り、明治12年(1879年)に天王の右横の「本田、通称・中之通り」に移り現在に至ります。
越後福島潟鎮座 潟端牛頭天王御縁起 松柳山
天平17年(745年)
応仁2年(1468年)
慶雲2年(705年)。 英彦山(現・ひこさん) 旧豊前国である福岡県田川郡添田町と大分県津市山国町にまたがる標高1,190mの山。
日本三大修験山のひとつと言われ、英彦山神宮の神体山。
行基(ぎょうき、ぎょうぎ)(668年~749年2月23日亡)仏教僧
文明5年(1473年) 吉浦村(旧豊浦町。現新発田市)
文明7年(1475年)
明治1年は、1868年。
(上左) 須佐之男神社 (上右)須佐之男神社の背面が、天王神社になっている。元々は牛頭天王宮は、この地にあった。明治になり、神仏分離により この地(神社)は須佐之男神社になり、牛頭天王宮は現在の地に移った。
左側が市島邸
(上の写真)市島邸の正面入り口 2022年1月13日撮影 小雪が降っていました。
牛頭天王宮のすぐ近くにある市島邸(新潟県の指定文化財)。市島家は江戸時代初期に福島潟の干拓を中心とする蒲原平野の開墾(新田開発)等に努め、まもなく北陸屈指の豪農になった。当初は新発田市五十公野に住居していたが、福島潟の干拓事業に着手して以降「元禄年間 1688~1703年」は旧水原町に転居。家は戊辰戦争の兵火により焼失し(慶応4年・1868年)、旧豊栄市嘉山の分家宅に転居。明治9年(1876年)に現在の天王集落に新居を完成させ転居した。 市島家は、最幕末時点で約1800町歩の地主。明治21年(1888年)の所有地価は、新潟県1位の大金持ち。
ここからは私の考えです。牛頭天王宮は神仏分離により、自坊のある吉浦集落に移転。その後、檀家等の勧めで明治12年(1879年)現在に地に移転。神主という仕事(職業?)は、今も昔も利益の多い仕事ではありません。その牛頭天王宮は現在の地、54m×43m 約2170㎡(656坪)の敷地に拝殿や本殿、そして社務所などを建てます。明治12年頃は天王や本田(通称 中之通り)にこのような広い空地があったとは考えられません。すぐ近くに豪農・市島邸があり、月岡駅あたりまで市島家の所有地でした。江戸時代、福島潟の開墾事業をしていた市島家は疫病の神様・牛頭天王宮と密接・親しい関係だったでしょう。市島家は戊辰戦争で家を焼かれ、明治9年に須佐之男神社のある天王集落に豪邸を建てて転居。その時、須佐之男神社には神仏分離により、牛頭天王宮の宮司はいませんでした。そこで市島家は自分の家の近くの所有地に、そこに住んでいた小作人たちを転居させ、転居してから3年後の明治12年に牛頭天王宮の境内地として寄付したと思われます。拝殿などの建築費も出したと思われます。なにしろ明治21年には新潟県で所有地価1位の大金持ちです。阿賀野市にあった別宅の地(現在の天朝山公園)を明治政府に寄付した家です。偶然か計算なのか、市島家から見ると家の左端から約200mの地に須佐之男神社があり、家の右端から約200mの地に牛頭天王宮があります。両神社の横に道路があり、両神社が市島家を守っているようにも見えます。7月4~5日の祭りに、両神社の間に出店が出ていたのも、市島家の意見・発案があったかもしれません。 ←牛頭天王宮の鳥居の前に「牛頭天王宮」の門柱が。2つとも昭和12年(1937年)10月建立。左側を市島家が寄贈。昭和12年に神社を改修した記念か、7月に起きた日中戦争の勝利祈願なのか。昭和20年(1945年)の敗戦により豪農・市島家の財力も無くなっていきます。このようのに考えると、ただの神社でなく、歴史としても興味ある存在になります。機会があれば須佐之男神社→牛頭天王宮→市島邸を巡り、「歴史」を考えてみませんか。 ※昭和12年には、川端康成の小説「雪国」が発表。勝ってくるぞと勇ましく・・という古関裕而が作曲した「露営の歌」が発表されました。
2021年1月撮影 牛頭天王宮
← 2022年6月 牛頭天王宮の祭りの祈願供の紙包
下記は2022年7月5日(火)午前11時 天王祭で撮影。牛頭天王宮 3景
(下)下記は2024年7月4日 午後3時、新発田市天王「牛頭天王宮」で撮影。4景
← 牛頭天王宮
参考1 下2枚の写真、赤印は牛頭天王宮。緑印は月岡駅 昭和22年(1947年)の写真。この時の福島潟は434ha
下の写真2枚は、昭和50年(1975年)11月の撮影。赤印が牛頭天王宮。写真左側(日本海側) 福島潟434haの内、192haが水田に干拓された。中央には幹線道路が通っている。 未干拓地は242ha(現在の福島潟)
参考2 牛頭天王(ごずてんのう)とは? 2021年1月15日の新潟日報の記事から → 牛頭天王は疫病をつかさどる神で、一説には古代中国で薬用植物が採れた山が牛頭(牛の頭)の形をしており、疫病に御利益があるとあがめたことに由来するそうです。日本では神仏習合で、スサノオノミコト(須佐之男命)と同一視され、疫病よけの神様として平安時代に信仰が広まった。 インターネットで、グーグルで「牛頭天王像 写真」と検索すると何枚か写真が出てきます。そのうちの一つ、京都府木津川市山城町上狛千両岩にある京都府立山城郷土資料館で高さ約60cmの牛頭天王像を見ることができます。この資料館によると「疫鬼をにらむ顔にも迫力があり、卓越した表現力を感じる。この南山城地域の人々を守る防疫神として大切に祭られてきた」と指摘する。
平安時代は疫病と災害が相次ぎ、特に貞観5年(863年)正月から3月にかけて、「せきの出る病」が猛威を振るった。これはインフルエンザだったとみられ、当時の国は、疫病の流行はタタリが原因として、同年5月に平安京の大内裏に隣接する苑地(えんち)「神泉苑」で御霊会(ごりょうえ)を開催。非業の死を遂げた早良親王(桓武天皇の弟)らを丁重に祭り、タタリを鎮めようとした。御霊会はその後、民間主導でも開かれるようになり、京都市の八坂神社の祭礼「祇園祭」として現在も続いている。牛頭天王は八坂神社の祭神で、かつては全国で信仰されていたが、明治政府の神仏分離令で多くの像や絵画が失われた。新発田市の牛頭天王宮にはどのような牛頭天王像があるのか知らないが、疫病に御利益がある・・・から、水田の疫病にも御利益がある・・と信仰されたのかもしれません。上記で紹介した、京都府立山城郷土資料館の牛頭天王像は、左図の赤印部分(京都府・松尾神社)にあります。この像は顔が4面あり、頭に牛の頭が載っています。又、陰陽道では、天道神と同一視された。
参考3 阿賀野市安田地区、旧山手小学校の校舎を利用した「阿賀野市歴史民俗資料館」で、下記のような「牛頭天王」のお札(ふだ)「木簡」が展示されています。
← 「南无牛頭天王」と書かれている木簡。約30cm。
上のおふだは、阿賀野市の腰廻遺跡・壱本杉遺跡から出土しています。この施設は「写真撮影ご遠慮ください」と書かれた紙が貼ってある部屋が多いのですが、撮影した部屋は撮影禁止になっていなかったので、撮影しました。
← 阿賀野市歴史民俗資料館
参考4 牛頭天王宮に「オーブ」が・・・ 2021年10月12日 PM6:07分撮影
牛頭天王宮の鳥居。 赤い矢印先の拡大が、下左。 緑色の矢印先の拡大が下右。
下は、牛頭天王宮の拝殿。拝殿の上に移動するオーブが写っています。
← オーブの拡大写真。
私の調査によると「オーブ」は意思を持つ未確認生命体。新築・古家の中や寺、神社、祭りの場でよく写ります。
この牛頭天王宮の境内や拝殿の上にオーブが写ると、なにか「ありがたく」思います。
考参5 牛頭天王宮のある地域は、弥生時代中期後半から古代末期まで曽根遺跡として継続した(福島潟に接する天王小学校一帯を含む約東西800mと推定される大遺跡。高床式建物が多い。又、遺物に古墳時代と古代との帰属を特定できないが、13丁の強弓と多数の大型松明がある。また警護の機材でもある。おそらく畿内政権との結びつきがあったものと考えられる。※笹神村史から)
参考6 マンガ「吾妻鏡」1994年初版 中央公論社発行。上巻に半ページ、佐々木盛綱が登場
上記に紹介した「御朱印」の絵の人。胎内市にあった城氏を滅ぼした人。
(上)の佐々木盛綱は、鎌倉殿の命で新発田市加治地区へ。(下)の写真、赤い矢印先の要害山の頂上に加治城を建築します。
(下)新発田市東宮内にある藤戸神社。加治城の左側の山に神社があります。佐々木盛綱が建造(?)。
(下)上の写真・鳥居の右側にある看板。
参考7 (下)「スサノオ命の、化身の牛頭天王も頭に角がある!!」と、本にあります。
(左)失われたユダヤの竜宮城「隠岐」の謎
飛鳥昭雄・三神たける 著、 2022年3月6日(株)ワン・パブリッシング 発行 1,320円(税込)
関心のある方は購入して読んでください。文章と少し漫画(下)が挿入され、理解しやすいように編集されています。
ただ、私のように基礎知識がないと理解するのが大変です。