(上)大荒川上流発電所
(上)山倉船場 国鉄羽越線開通までは、米・瓦・木炭・薪などの産物や、都市からの生活必需物資の着荷場として重要な役割をしていた。この写真は大荒川発電所の発電機器の荷揚げ風景。この山倉集落の船着き場から人力で勝屋(畑江)にある大荒川発電所まで機材を運んだ。写真は大正4年(1915年)撮影。 (下、2枚)発電機を畑江まで運んでいる写真。2枚目の拡大写真には女性も写っています。
(下)大荒川上流発電所 建築工事現場 「笹神村史 発行・笹神村」の写真を借用
新潟市 新潟電燈会社の中野平弥は明治40年(1907年)11月、資本金30万円で大荒川の水力発電による新潟水電株式会社(新潟市新島通り4)を創立した。出湯に出張所を設け、技師長・技手・書記を常駐。起工式は同年7月17日に出湯温泉の華報寺境内で行い、工事に着手。地元から多くの住民が人夫として採用される。
(上)発電所工事に従事した地元住民(山ノ神付近) 発電用の機材の運搬は山路に道なき道を開き、人間だけが頼りの力仕事だった。3月と9月の新潟大火で資材や人件費が高騰した。さらに社長の佐藤伊左衛門が死亡し、12月に現場監督だった中野平弥の長男が急性肺炎で死亡。工事は苦難を押して敢行された。
明治42年(1908年)、大荒川上流発電所が完成。会社の計画では水力発電443キロワット。電灯電力の供給区域は新潟市・新発田市・外三町六か村、電灯数5117灯、電力50馬力、電力1馬力昼間10円だった。
現在の笹神地域で初めて電灯が灯ったのは、大正元(1912年)年11月、村杉と出湯が最初であった。
大荒川発電所で発電された電気は、発電所から特別高圧送電線によって新潟市の沼垂変圧配電所まで630本の電柱で繋がれ、さらに新潟まで送電された。特に阿賀野川川越の4基の鉄塔と信濃川の3基の鉄塔の工事は、雪解けの増水時と重なり、その工事は難渋を極めた。
さらにこの間、新潟水田会社は明治43年(1910年)に官営八幡製鉄所の赤谷発電所(旧内の倉発電所・出力270キロワット)を借り入れ、新発田町(市)に点灯し、さらに新潟まで送電している。 ※笹神村から新潟市や新発田市に電気を送電していたんですね。
大荒川上流発電所(明治後期)明治42年5月運転開始。所在地 大字勝屋字大荒川山、水量 14個7(1個は約1斗5升)、水路延長897間(1630m)、落差470尺(142m)、出力443KW、電圧11,000V、水車はタービン650馬力1台、油圧式でドイツ社製 発電機540KVA1台アメリカ製。 取壊跡地は、昭和42年(1967年)の集中豪雨で流出したそうです。
明治45年(1912年)5月、大荒川下流にもう一つの大荒川下流発電所 235キロワットが完成した。
写真は無いけれど「大荒川下流発電所」は、所在地 大字勝屋字賽ノ川原、水量 16個、水路延長182m、落差 72m、出力 235KW、電圧 11,000V、運転開始 明治45年5月(上流発電所より3年後)、水車 油圧式スイス製、発電機 250KVA1台アメリカ製。
(上)正確でないけれど、赤い丸印辺りに「大荒川上流発電所」があり、緑の〇印辺りに「下流発電所」があったと思われます。緑の〇印付近は畑江地区ですが、ここは元・大字勝屋。終戦後に開墾し地名が「畑江」になりました。緑の〇印付近を「賽ノ川原」と呼んでいます。
(上)出湯温泉から五頭連峰少年自然の家に向かう「青色の太い線」が「電気山道」と呼ばれ、出湯温泉から大荒川上流発電所への工事人夫達が通った道(約1㎞)です。 (下)2016年7月に撮影した温泉組合が設置した「電気山道」の案内看板
← 案内板(温泉組合の駐車場入り口に設置)
(下左)電気山道の案内板 (下中央)電気山道への入り口案内柱 (下右) 電気山道。作業員は、ここを歩いて仕事に行きました。
県都新潟の電灯を点す初期の目的は達せられたが、発電量が限られていたため、昭和6年に廃止された。かつては電気山として親しまれていたが、昭和42年(1967年)の集中豪雨で魚止の滝一帯が流され、跡地は見る影もなくなった。