阿賀野市ブログ応援隊

個人・サークル・行事・歴史・頑張っている人などの阿賀野市の情報と、人生の楽しみ(?)をお伝えします。

「大地主・市島邸の物語 6」 福井県の高浜城主・溝口秀勝と市島家

2024年01月18日 | 大地主・市島邸の物語

市島家が高浜に転居した時の城主・溝口秀勝の話

 高浜城は若狭では珍しい平山城。海に突き出した半島に築かれた。

高浜城(福井県高浜町)は1634年に廃城。 

 兵庫県丹波市市島町から福井県高浜町に移住した市島家。  天正6年(1579年)に若狭国大飯郡高浜城の城主・溝口秀勝(32歳。ウイキペディアでは1581年)は、天文17年(1548年)に、溝口勝政の長男として尾張国中島郡西溝口村(現・愛知県稲沢市西溝口町)に生まれた。代々この地の地侍層。幼少期より丹波長秀に仕えたが、天正9年(1581年※1579年の説有り)に織田信長から才能を見出され、直臣として若狭国の高浜城、5,000石を与えられた。市島家の弥惣右衛門はこの年(?)溝口秀勝の家士(かし。家に仕える侍。家臣。もしかして奉公人?)になった。 弥惣右衛門は兵庫県市島町に住んでいた時、鹿集(かたかり)城の吉見氏に豪族として属し、財力を持ち御用達の仕事をしていた。高浜町は市島町の隣国であり、商い等で双方の交流があったはず。財力があれば、高浜町にも知り合いが多くいたはず。そのような関係から、高浜城に転居してきた溝口秀勝には使い勝手の良い人間で、取次側用人となり、帯刀になり、侍の位になったと考えられる。

 天正10年(1582年)6月2日、明智光秀が謀反を起こした本能寺の変で織田信長が死去した後は、丹波長秀が豊臣秀吉方についたことにより、溝口秀勝もその下で柴田勝家攻めに功をたて、天正11年(1583年)賊ヶ岳の戦いの後、越前国北ノ庄城に入封した丹波長秀の与力として、加賀国江沼郡の大聖寺城(現・石川県加賀市大聖寺町)4万4千石を与えられた。溝口秀勝34歳。 この戦いにも弥惣右衛門は同行、溝口秀勝の信用を得る。続いて越中の佐々成政攻めの際は、前田利家の下で奮戦し、また秀吉の親征に従い勝利した。

 

 

コメント

「大地主・市島邸の物語 5」 目次(工事中)

2024年01月17日 | 大地主・市島邸の物語

「大地主・市島邸の物語」のブログ、 ブログの目次(工事中)

「大地主・市島邸の物語 1」 初めに 2024年

「大地主・市島邸の物語 2」 水原町にいた時代の住宅地図(市島家、角市、天朝山公園など) 2024年

「大地主・市島邸の物語 3」 新発田市天王(市島邸)に転居した頃の住宅配置図 2024年

「大地主・市島邸の物語 4」 市島家の移住順の図(兵庫県丹波市・福井県高浜町・石川県加賀市・新潟県新発田市)と

               市島家発祥の地の説明 1578年

「大地主・市島邸の物語 5」 目次(工事中)

「大地主・市島邸の物語 6」 福井県の高浜城主・溝口秀勝と市島家 1579年

「大地主・市島邸の物語 7」 石川県大聖寺城主・溝口秀勝と市島家 1583年

「大地主・市島邸の物語 8」 新発田城主・溝口と市島家 1 1598年

「大地主・市島邸の物語 9」 新発田城主・溝口と市島家 2 新発田城と五十公野城の位置図 1603年

「大地主・市島邸の物語 10」 新発田藩の領地説明図 1833年

「大地主・市島邸の物語 11」 浄念寺との関係 1598年

「大地主・市島邸の物語 12」 水原町の瓢湖造成について 1598年

「大地主・市島邸の物語 13」 2023年資料展の書類、投稿開始 1579年

「大地主・市島邸の物語 14」 資料展の書類2、3  1582年

「大地主・市島邸の物語 16」 1695年の水原町 住宅地図 1695年

「大地主・市島邸の物語 17」 何故、市島は水原に来た? 1695年

「大地主・市島邸の物語 18」 新発田藩主、堀部安兵衛、系図 1706年

「大地主・市島邸の物語 19」 水原に転居した人と、その兄弟

「大地主・市島邸の物語 20」 喜右衛門、45歳頃からの土地集積→南山 1709年

「大地主・市島邸の物語 21」 何故、水田を買い集めたか? 川の位置移動 1736年

「大地主・市島邸の物語 22」 田を蓄積していた時代に享保の改革 1716年

「大地主・市島邸の物語 23」 阿賀野川の洪水、市島喜右衛門(南山)の家系  1752年

「大地主・市島邸の物語 24」 市島喜右衛門(南山)と六之丞の説明

「大地主・市島邸の物語 25」 優婆尊、水原代官所、市島南山・没、永代苗字御免状 1766年

「大地主・市島邸の物語 26」 市島徳次郎(金華)、分家の角市、佐藤伊左衛門 1786年

「大地主・市島邸の物語 27」 水原13人衆、干拓の方法、福島潟検地図 1790年

「大地主・市島邸の物語 28」 市島金華の系図、奥州御手当金、家伝薬方帳 1789年

「大地主・市島邸の物語 29」 水原町の無為信寺、手賀沼開墾、御用金 1800年

「大地主・市島邸の物語 30」 松ヶ崎掘割決壊、水原13人衆、徳次郎(2代・大美)

「大地主・市島邸の物語 31」 市島徳次郎(大美)の系図、角市家の説明、新発田藩領内組分開図 1827年

「大地主・市島邸の物語 32」 天保大飢饉、破免、福島潟開発現況図、近世の干拓図 1833年

「大地主・市島邸の物語 33」 天保大飢饉(1~6年目)、継志園築営開始、江戸城西丸炎上 1834年

「大地主・市島邸の物語 34」 市島家の別邸築造、角市が廻漕船を建造、徳次郎(光広)の系図   1841年

「大地主・市島邸の物語 35」 温古堂、水原首切り場、新潟奉行所 1842年

「大地主・市島邸の物語 36」 長岡藩財政建直し、大船絵馬、角市の千石船と転覆・廃業 1847年

「大地主・市島邸の物語 37」 ×

コメント

「大地主・市島邸の物語 4」 市島家の移住順の図と、発祥の地を説明

2024年01月15日 | 大地主・市島邸の物語

市島家の移住順の図 ①~④ 兵庫県丹波市→福井県高浜町→石川県加賀市→新潟県新発田市

 

① 市島家、発祥の地(兵庫県市島町)の説明

「改定 家廟之紙碑」昭和46年発行 財団法人継志会が発行。 この本は市島宗家の分家・市島成一(明治32年生、1899年生・京都帝国大学法学部卒・東京高裁検察庁検事長・財団法人継志会理事長)が、昭和16年・1941年、41歳の時に自費出版した冊子を改定し、昭和46年・1971年、71歳の時に再度出版(非売品)。昭和16年当時は、市島宗家の分家・角市の市島春城(早稲田大学初代図書館長。80歳)が市島成一から相談を受けて昔話をし、冊子の序文を書いています。成一は昭和14年に岡山県の裁判所に勤務。兵庫県の市島町にも出向いて調査しているので、前記の本の記載が100%正確とは言えないけれど、かなりの確率で正確に近い・・かなと考えます。 以下、本の内容を略記して紹介します。

 市島家、発祥の地丹波国氷上郡吉見町字上田小字市島(現・丹波市市島町。 国鉄福知線市島駅の所在地)である。丹波は昔から未開地の代表とされているくらい辺鄙な土地であるが、氷上郡一帯は都が大和にさだめられ、皇化が山陰に霑うに及んで次第に重要な所となり又、出雲文化東漸の要衛に当たっていたので、比較的早くから開け人煙も繁く、上古、彦座主父子の下向をはじめ皇族の往来も多く、崇神帝の即位10年(120年)には四道将軍として丹波道主命を派遣されて以来次第に開花に向かった。 この地は水清く地味も豊かで、五穀豊穣のため中古以降、後一条・後陽成・光格御歴代の大嘗会には、主基田が設けられ、或いは皇室の直轄、貴族の所領となり、また仏教の興隆と共に、この地方の名山秀麗が多くの傑僧の修行の地ともなった。その後、群雄割拠の時代に入るや興亡盛衰幾変転、暫くは帰趨を知らぬ状態が続いた。

 元来この地は承久3年(1221年)以来、源範頼の次男・吉見資重が氷上郡鹿集城に拠り、その子孫が長くこの辺りを支配していたが、天正10年(1582年)時の城主・吉見式部則重は明智光秀と戦い、利あらず陣歿し遂に落城、城兵ことごとく討死したと伝えられる「※天正6年・1578年という説有り」。市島家の遠祖・弥惣右衛門は氷上郡上田の豪族として吉見氏に属し、その支邑市島に住んでいた。当時すでに相当な財力を擁し、吉見氏の御用達・所謂仕立屋を勤めていたものの如く、市島春城は、その随筆中に吉見氏が亡んだ年にこの地を離れたと記しているが、家史葛陵仲氏伝や氷上郡吉見村史などから恐らく、「この地方の度重なる兵火動乱に耐えかねて、弥惣右衛門は吉見氏の滅亡前の永禄の末(1565~1568年頃※1578年?)丹波に近い隣国・若狭に移り、たまたま高浜城主・辺見駿河守昌経の嗣となって入国(1581年。※1579年という説有り)した溝口秀勝候の家士となり、やがて取次側用人となる機会を得たもの」と推測される。 氷上郡を離れるにあたり、郷土を忘れかねて、地名市島をもって姓としたと考えられる。 ※西暦はウイキペディアや各ホームページで西暦年が違う

 もしかしたら旧姓は「吉見」だったかもしれない。溝口家へ投ずる場合に旧姓を避けた可能性がある。

コメント

「大地主・市島邸の物語 3」 新発田市に転居した頃の住宅配置図

2024年01月12日 | 大地主・市島邸の物語

市島家が新発田市天王に転居した頃の、市島邸の建物配置図。

(下)現在の市島邸に転居した時は、現在の市島邸の南側半分が宅地で、地目は宅地。北側半分は農地で、その後に宅地に地目変更した。 新潟地方法務局新発田支局の和紙図(明治23年6月作成)で確認

コメント

「大地主・市島邸の物語 2」 水原町にいた時代の住宅地図

2024年01月09日 | 大地主・市島邸の物語

大地主・市島家(宗家)が水原町にいた時代の住宅地図

(下)市島家が新発田市から最初に転居した時の住宅位置。 戊辰戦争前に住んでいた住宅位置。別宅として新築・転居した天朝山公園。市島春城の生家(角市)の住宅位置。前原一誠が角市から借家していた住宅位置。市島宗家・徳次郎(8代)の妻の実家(大地主・佐藤家、和泉屋)の住宅位置。水原町編年史をまとめた元・水原町町長、佐藤貞太郎の家の位置。これらの建物位置を記憶していた方が、これから投稿する「水原公民館で発表した片桐さんの資料」を理解するのに役立ちます。

コメント

「大地主・市島邸の物語 1」初めに

2024年01月08日 | 大地主・市島邸の物語

「大地主・市島家が水原にいた時代 ~ 天王・市島邸」の研究発表

2023年9月27日(水)~10月1日(日) 阿賀野市山口町1 水原公民館で研究発表が行われた。

 (下)上記資料展の展示ポスター

調査・発表は、 阿賀野市在住の片桐正英さん。 午前9時~午後5時「最終日は午後2時」 入場無料。

市島宗家は、江戸末期に新潟県一の大地主。 戸主・市島徳次郎(8代)は、第四銀行の初代頭取。水原町に初代頭取がいました。

明治初期に市島家は新発田市(旧豊浦町)天王に転居。最盛期、福島潟の所有権を持ちました。

会場にはA4版で作成した文・図・写真をA3版に拡大カラーコピーしたもの、133ページを展示発表。

新潟市北区・水の駅「ビュー福島潟」の展示図面(水原13人衆の福島潟干拓部分の説明図)や、新発田市の市島邸で展示されている図面や像など多数の写真を添付して説明。会期中、73名が来場。2日、3日と同じ人が連日、数人が閲覧されました。

上の写真は2023年9月26日撮影。27日の展示前の写真です。市島家は浦賀に黒船が来航した時、抗戦する為の大砲作りの経費を水原代官所と江戸幕府に依頼されて出費しています。又、江戸城(現在の皇居)の増築資金も出費しています。市島家は旧水原町にいた普通の大地主でなく、江戸幕府にも協力依頼されていた特別な地主でした。この市島家は水原町生まれの人でなく、新発田市(新発田藩)から転居してきた人。でも、戊辰戦争後に新発田市(旧豊浦町天王)に転居したためか、旧水原町の人は「市島邸」に関心がありません。それは何故か? 

この疑問から片桐さんの調査が始まりました。片桐さんの調査の大部分は水原町役場が発行した「水原町編年史」が主で、そこに他の資料で調査したことが添付されています。ただ、新発田市に転居した後の資料が少なく、「水原町にいた時代」として発表。資料展発表後、運良く資料展来訪者の協力で、新発田市に転居後の「市島徳厚伝」という最後の地主を調査した非売品の本と、市島邸を財団法人継志会が管理運営していた時代に書かれた「改定 家廟の紙碑」という非売品の本を入手・読むことが出来ました。2冊を読むことで、新発田市に移住後の市島家の姿を詳しく知ることが出来ました。ただ、前記の2冊、市島家のことを書いているのに、内容が大きく違います。どちらの記述を採用すべきか? そこに時代背景を考慮。又、同じ時代を生きた新発田市出身の「大倉喜八郎」の経歴も記載。市島家のことが詳しく理解できるようになったのですが、その分、初めて読む人には難しく理解しにくくなりました。そこで水原公民館で発表した資料に最低限の事実を追加して当ブログで発表することにしました。     次回に続きます。

 

コメント