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輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く

2015年04月17日 | 憲法・平和・人権・防衛
 
 4月16日しんぶん赤旗主張『戦争立法与党協議「平和支援」の名でごまかせぬ』から
 「国際平和支援法」と名付けられる新たな海外派兵恒久法の危険性は、再開された与党協議会に政府が示した資料で一層明らかになりました。
  米軍など他国軍に対して自衛隊が実施する支援は、補給、輸送、修理・整備、医療など多岐にわたります。従来の海外派兵法では禁じられていた弾薬の提供や戦闘作戦行動のため発進準備をしている航空機への給油や整備なども可能にします。「平和支援」どころか戦争支援にほかなりません。
 
上記の「補給、輸送、修理、整備」を受け持つ部隊で陸上自衛隊の場合は、職種の「施設科」「武器科」「需品科」「輸送科」と考えられます。「米軍など他国軍」を支援する陸上、海上、航空の各自衛隊補給部隊に「戦傷病者」と「戦死者・戦傷病死者」が続出することになるでしょう。
 
 旧陸軍では「輜重兵部隊」になります。輜重兵は明治、大正時代に「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く」といわれたときがありました。
 亡父は石川県金沢市高尾町が本籍でしたので1937年(昭和12年)9月に第九師団輜重兵第九連隊に応召し、第二次上海事変の上海、蘇州、、南京、太湖、瑞昌、徐州、武漢、岳州等の戦闘・追撃・警備に参加しました、1939年に招集解除となり復員しました。二回目の応召は関特演(関東軍特種演習)で工兵第二連隊に編入されました。写真は34歳の時で東満州牡丹江付近だろうと思われます。(第二次上海事変当時の写真は一枚もありません)
 
 書棚にある、聯隊史「追憶・金澤輜重兵聯隊」(昭和51年11月金澤輜重兵会刊)から戦場における補給部隊(輜重)がどのような死傷者数であったのかを調べてみましたが、全体の死傷者数は分かりませんが「徐州会戦」の弾薬出納一覧表、糧秣(食料等)交付合計一覧表、戦闘参加人馬および死傷表がありましたのでアップし、補給部隊といえども、戦闘になれば敵(国民党軍・八路軍・ゲリラ)から侵略軍として攻撃されたことを知って頂きたいと思います。尚「馬匹の死傷」数字がありますが、旧陸軍は運搬用貨物自動車が圧倒的に少なく、軍馬による運搬でした。
 
徐州は軍歌「と兵隊」の歌詞となりました。

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3 コメント

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Unknown (ムラカミ)
2020-08-09 19:46:40
亡き父の介護中、たまに言って笑わせてくれたこと、、思い出しました。
『1に衛生、2にラッパ。、輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょトンボも鳥のうち。』
衛生兵だった父の、少し自慢げなボソボソ話す、笑顔が思い出されます。
広島の原爆の10日前に東京に戻ってきた。と。もっと、戦争のときのこと、聞いておけば良かった!今更ながら、思いました。
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1に衛生、2にラッパ (管理人)
2020-08-09 20:02:55
コメントありがとうございました。「1に衛生、2にラッパ」は「金澤輜重兵連隊史」にはありません。
亡父は16歳の病死しましたので、兵隊のことは一切聞いていません。但し敬礼のやり方は厳しく教えられました。
お父上の軍歴照会はされましたか?
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Unknown (青木)
2021-06-23 01:50:53
輜重兵でした。第五師団。大陸で、甲種幹部候補生になる。その後、南方へ。参謀長の副官となる。23・4歳で、中尉。少尉任官時に、位階従八位。松平宮内大臣より。。馬淵逸雄参謀長付き。参謀長は、後に、旅団長となる。馬淵参謀長の娘さんが、女優でした。自分の内では、輜重輪卒・・・・は、有りません。大陸では、トラック助手席同乗。一様、将校なので、兵隊とは、違います?入隊は、二等兵。数か月後、試験。甲種幹部候補生は、士官。乙種は、下士官です。陸士でなくて、予備士官学校へ。大陸では、輜重の連隊でした。南方では?参謀長に、副官になれ、と、言われる。師団長は、副官が、付くことになっています、規則で。参謀長は、任意で、付けることが、可能。それ故に、師団司令部に、いました。部隊在とは、見聞きすることが、違うと、思います。師団司令部なので・・・・・。日本以外では、兵站は、重要視されていました。話は、違いますが、戦後の進駐軍。物資は、日本で、確保・調達では、ありません。母国から、余る程に、自家用の食糧・物資を、日本へ輸送していました。それだけでなくて、学校、給食の、ミルク。日本の子供の栄養ということで、供給。中華民国は、進駐ならず。理由が、わかりますか。
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