4月16日しんぶん赤旗主張『戦争立法与党協議「平和支援」の名でごまかせぬ』から
「国際平和支援法」と名付けられる新たな海外派兵恒久法の危険性は、再開された与党協議会に政府が示した資料で一層明らかになりました。
米軍など他国軍に対して自衛隊が実施する支援は、補給、輸送、修理・整備、医療など多岐にわたります。従来の海外派兵法では禁じられていた弾薬の提供や戦闘作戦行動のため発進準備をしている航空機への給油や整備なども可能にします。「平和支援」どころか戦争支援にほかなりません。
米軍など他国軍に対して自衛隊が実施する支援は、補給、輸送、修理・整備、医療など多岐にわたります。従来の海外派兵法では禁じられていた弾薬の提供や戦闘作戦行動のため発進準備をしている航空機への給油や整備なども可能にします。「平和支援」どころか戦争支援にほかなりません。
上記の「補給、輸送、修理、整備」を受け持つ部隊で陸上自衛隊の場合は、職種の「施設科」「武器科」「需品科」「輸送科」と考えられます。「米軍など他国軍」を支援する陸上、海上、航空の各自衛隊補給部隊に「戦傷病者」と「戦死者・戦傷病死者」が続出することになるでしょう。
旧陸軍では「輜重兵部隊」になります。輜重兵は明治、大正時代に「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶々トンボも鳥のうち、電信柱に花が咲く」といわれたときがありました。
亡父は石川県金沢市高尾町が本籍でしたので1937年(昭和12年)9月に第九師団輜重兵第九連隊に応召し、第二次上海事変の上海、蘇州、、南京、太湖、瑞昌、徐州、武漢、岳州等の戦闘・追撃・警備に参加しました、1939年に招集解除となり復員しました。二回目の応召は関特演(関東軍特種演習)で工兵第二連隊に編入されました。写真は34歳の時で東満州牡丹江付近だろうと思われます。(第二次上海事変当時の写真は一枚もありません)
書棚にある、聯隊史「追憶・金澤輜重兵聯隊」(昭和51年11月金澤輜重兵会刊)から戦場における補給部隊(輜重)がどのような死傷者数であったのかを調べてみましたが、全体の死傷者数は分かりませんが「徐州会戦」の弾薬出納一覧表、糧秣(食料等)交付合計一覧表、戦闘参加人馬および死傷表がありましたのでアップし、補給部隊といえども、戦闘になれば敵(国民党軍・八路軍・ゲリラ)から侵略軍として攻撃されたことを知って頂きたいと思います。尚「馬匹の死傷」数字がありますが、旧陸軍は運搬用貨物自動車が圧倒的に少なく、軍馬による運搬でした。
『1に衛生、2にラッパ。、輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょトンボも鳥のうち。』
衛生兵だった父の、少し自慢げなボソボソ話す、笑顔が思い出されます。
広島の原爆の10日前に東京に戻ってきた。と。もっと、戦争のときのこと、聞いておけば良かった!今更ながら、思いました。
亡父は16歳の病死しましたので、兵隊のことは一切聞いていません。但し敬礼のやり方は厳しく教えられました。
お父上の軍歴照会はされましたか?