聖徳記念繪畫館「六十 廣島大本營軍務親裁」がある。
一般的には「大本営」は「明治26年初めて戦時大本営条例が制定された」となっているが、「五四 陸海軍大演習御統監」には「明治23年3月大本営を名古屋に置いた」との記述がある。
「ピースあいち資料」
その沿革については、松下芳男解題「山縣有朋 陸軍省沿革史」と寺田近雄著「日本軍隊用語集」から下段に抜粋したい。
靖国神社境内に富国徴兵保険相互会社が献納した大灯籠のレリーフに、「明治二七八年戰役 廣島ノ大本營」と題したレリーフがある。
明治天皇が広島城に入城する馬車が描かれている。
広島城は原爆によって消滅したが戦後に復元された。管理人は、2008年2月広島城大本営跡石碑と広島護国神社を見学したことがある。
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昭和17年12月発刊「陸軍省沿革史」解題松下芳男 69~73頁
【注】旧漢字、旧ふりがなは現代漢字と読みに一部直した。原文のママ。
十ニ、戦時大本営條例
戦時大本営條例に関する記述は、本書には全然省路されている。本書が陸軍省の沿革を記述するものたる以上、戦時大本営条例というが如き戦時軍令管掌機関の記述は.素より省路するも不可なきものであろう。併し例言の如く本書を以つて陸軍省を中心とする軍制史と見る限り、戦時大本営條例に関しては、多少の記述があつてもいいと思う。本書例言に、『書中往々彼レニ密二シテ、此レニ疎ナルカ如キ欠点アリ。一部ノ歴史トシテハ、体裁其宜シキヲ得タルモノ二アラズ』と弁解しているものの、戟時大本営条例制定のことぐらいはあつてもいゝのではあるまいか。その意味に於いてここにこの制度に関して若干の説明を試みたい。
明治維新以来の戦乱に於いて、日清戦争までは大本営の設置がなく、征討親司令官に征討に関する統帥権を御委任になつていた.即ち戊辰戦争に於いては、京都方面では『嘉彰親王ヲ拝シテ征討大将軍トナシ』、東北方面では『親裁熾仁親王ヲ拝シテ東征大総督トナシ』、明治七年の佐賀の乱では『二品親王東伏見嘉彰ヲ征討総督-ナシ、陸軍中将山縣有朋ヲ、征討参軍トナシ、尋テ海軍少将伊東祐麿ヲ参軍トナシ』、台湾征討では『陸軍中将西郷従道ヲ以テ台湾事務都督トナシ、陸軍少将谷干城、海軍少将赤絵則艮ヲ以テ参軍トナシ』、又西南戦争では『有楢川熾仁親王ヲ以テ征討総督二任ジ、陸軍中将山縣有朋、海軍中将川村純義ヲ参軍二任ジ』て、征討の事に従はしめ給うたのである。是等の征討総司令部の編制を見るに、総司令官は陸軍将軍であり.その下に陸海軍将軍の参軍が隷していたことになる。嘉彰親王、熾仁親王は共に常時未だ武官名を有せられず、嘉彰親王は明治十三年三月一日に陸軍中将に任じ結い.熾仁親王は明治十年十月十日に陸軍大将に任じ給うてみるが、総司令官を以つて陸軍将軍と解するは、敢へて不当ではないであろう。
斯様な戦時統帥組織を以つて推移して来たたのであるが.予想される作戦規模の拡大及び陸海軍の兵力の増大に鑑みて、天皇の大意下に統帥部を設置するの必要、並びに戦時統帥組織を法文化するの必要が認められ、明治二十六年五月十九日、初めて戦時大本営条例が制定されたのである。そしてそれは既往の戦時状態を大体そのま法文化したものである。尚は大本営という場合、制度としての大本営、本條例に基いて組織された現実の大本営とに区別されるが、その区別はその場合に依つて自ら明かであらう。本條例の主要なる条項は左の如くである。
第一条 天皇ノ大義下ノ統帥部ヲ置キ、之ヲ大本営と称ス
第二条 犬本営二ハ各帷幄ノ機務二参与シ帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス
第三条 幕僚ハ陸海軍ヲ以テ組織シ其ノ人員ハ別二定ムル所二依ル
第四条 大本営二ハ各機関ノ高等部ヲ置キ大作戦ノ計画二基キ其事務ヲ統理セシム
右条例を見るに、戦時大本営を設けられる場合には、参謀総長が大元帥陛下の幕僚長とたなって、帝国陸海軍の大作戦を計画し、又之れを指導する。そして海軍軍令部長の隷下に在つて、その指揮を受けることにたつている。是れ明治七年の台湾征討以来の慣例が、茲に法規となつて確定したものと言うことが出きる。
斯くして日清戦争を迎へたが、明治二十七年六月五日、宣戦布告に先だって大本営の設置が令せられ、時の参謀総長陸軍大将有栖川官熾仁親王には、大本営幕僚長として輔翼の大任に膺らせ給い、陸軍高級参謀として参謀本部陸軍中将川上操六、海軍高級参謀として海軍軍令部長海軍中将中牟田倉之助が、相並んで幕僚長輔佐し奉つた。
七月十七日、中牟田中将は軍令部を免ぜられて枢密顧問官にたり、海軍中将樺山資紀その後任となつた。明治二十八年一月十五日『参謀級長陸軍大将熾仁親王ヲ征清大総督二任ス』、『二十六日近衛師団陸軍大将彰仁親王参謀級長二補セラ』れた。然るに三月十六日、『参謀総長陸軍大将彰仁親王ヲ征清大総督二任ス』、『四月十三日、大総督彰仁親王宇品ヲ発シテ旅順へ向』はせられた。
陸軍高級参謀川上操六陸軍参謀長に任ぜられて旅順に向つたので、大本営には幕僚長を缼いたことにたるが、この缼を如何にして補つたかは、記録に求むべきものがない。
右大本営は約一年十ケ月間設置されて、明治二十九年二月三十一日を以つて解散せしめられた。然るに戦後間もなくその改正問題が海軍側から起された。それは陸主海従的な條例を、陸海平等的な条例に改正せんとする主旨であつた。時の海軍大臣山本権兵衛は、戦時大本営條例第二條を改正し、「参謀総長」とあるを、「特命を受けたる将官」と改めんとし、之れを陸軍大臣桂太郎に示し、その同意を求めた。若しこの改正案どおりになれば、戦時大本営の幕僚長には、参謀総長が当然之れに任ぜられるのではなくて、「特命を受けたる将官」が任ぜられ、参謀総長と海軍軍令部長とは、平等に大本営の高級幕僚になるのである。叉縦令参謀総長或は海軍軍令部長が特命を受けても、それは海軍を超越する幕僚長であつて、陸海軍としては平等にその指揮に服するわけである。
山本海相が右の案を桂陸相に示したところ、桂は之れに同意せず、首相山縣有朋亦之れに同意しないようであった。そこで山本は聖断を仰ぐこととなり、改正意見を閣下に上奏し、桂陸相も亦その反対意見を上奏した。然るに聖慮無限にして、明治天皇は何とも御裁可あらせられず、元帥府には御諮訽になったが、そのまま御手許に留め置かれた。
やがて星去り、霜移ると共に日露戦争の問題に直面し、この問題をそのままに放置出来ず、又この上聖慮を煩わし奉ることは堪へないので、陸海軍部は改めて慎重協議の上、大体海軍側の意見を容れ、海軍軍令部長の地位を上げることにして改正案を作り上奏したるところ、直ちに御裁可あり、明治三十六年十二月二十八日に条例は公布された。改正の第三条(旧第二條)であって、左の如くである。
第三条 参謀総長及海軍軍令軍部長ハ其ノ幕僚二長トシテ帷幄ノ機務二奉仕シ作戦ヲ参画シ終局ノ目的ヘ陸海両軍ノ策応協同ヲ図ルヲ任トス
右の条例によれば、幕僚長は陸海軍各一人、即ち二人あることになるのである。そしてこの法状に於いて日露戦争の時の大本営が組織されたのである。
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1992年7月刊 寺田近雄著「日本軍隊用語集」12~14頁
大本営
大日本帝国憲法の第十一条には「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」とあり、大本営日本軍の最高洞柑であり絶対の命令指揮権があって政府ですらこれに介入できない。
これが独特の統帥権であって、天皇の命令しか聞かなくてよい軍人たちがエスカレー トして軍閥の横暴を許すことになった。
政府の行政機関としては陸軍省と海軍省があるが、陸海軍大臣の権限は人事・予算・装備などに限られ、軍の活動する作戦計画や動員計画は別の機関、つまり陸軍は参謀本部、海軍は軍令部が担当した。
その長、陸軍の参謀総長や海軍の軍令部総長は他の要職、陸海軍大臣や軍司令官、師団長・艦隊司令長官・鎮守府長官などとまったく同格で、直接天皇に任命される親補職である。
王や皇帝が軍の司令官として作戦を指揮することは、かつてはあたりまえのことであったが、軍の行政と作戦を別々に独立させ、いずれも天皇一人が統轄するシステムは近代国家の軍制では珍しい。統帥権、つまり軍の指揮権をなぜ政府の手に委ねなかったかは明治史の謎であり、帝国憲法の草案をつくった者が苦慮した点であろう。
徳川幕府解体の直後で、徳川勢力の復活を恐れたためかもしれないし、山県有朋をボスとする長州閥による私兵化を懸念したことも考えられる。あるいはもっと単純に、国民の忠誠度や能力を信用していなかったのかもしれない。
形式的には天皇の名による作戦命令の下令であるが、天皇がいちいち作戦を考えたわけではない。参 謀本部や軍令部の作戦参謀がつくった案を参謀総長や軍令部総長が承認し、宮中の侍従武官の手によって天皇の決裁をあおぎ、改めて参謀総長・軍令部総長の名で部隊に命令を下す、という手続きとなる。
そして天皇はこれら上奏された作戦実には原則として異議をはさまず黙って署名押印して裁可する、というのが明治以来の立憲君主のならわしであった。
ところが、いざ戦争に突入すると陸海軍が別々に動いていては、それこそいくさにならないので、戦時に限って陸の参謀本部と海の軍令部とを一本化した。この有機体が大本営であり、日清戦争直前の一八九三(明治二六)年に設けられたのが最初である。
日清戦争は維新後はじめての対外戦争であり、当時の清国は「眠れる獅子」と呼ばれてその底力を恐れられていた。
開戦となると明治天皇はみずから大本営を少しでも大陸の戟場に近い広島城内の第五師団に移し、一年弱の戦時期間は作戦室の簡易ベッドに寝泊まりして、幕僚たちと一体になって働いた。
米国の初代大頭領ワシントンもテントの中の折りたたみべッドで独立戦争の作戦指揮をしたが、文字どおりの陣頭指揮であった。戦争が勝利に終わると大本営は退いて京都へ、そしてやがて東京へ帰還する。
このあと日露戦争・世界大戦とつづき、そのつど大本営が組織され解散したが、その位置は二度と東京から動くことはなかった。
大本営が設けられて一本化されると、陸軍参謀本部と海軍軍令部ほそれぞれ大本営陸軍部と海軍部に名前が変わり、参謀たちは大本営参謀となる。そしてここから発令される命令はそれぞれ大陸命・大海令と略して呼ばれた絶対的な戦略命令であった。
戦時中は戦争の進み具合、戦況を国民に知らせるために大本営の中にPRセクションである大本営報道部を置き、時おり解説を加えながら発表した。これが悪名高い大本営発表である。
勝利のときには景気のよいニュースが『軍艦マーチ』のメロディとともに流れ、玉砕など敗戦のニュースは重苦しく荘重な『海ゆかば』に乗って国民の気分をますます重苦しいものにした。
太平洋戦争での大本営発表は、四五ヶ月の戦争中に四六回行なわれた。
その第一号は、昭和一六年一二月八日早朝の大本営海軍部発表の「帝国海軍は本八日未明、ハワイ方面米国艦隊ならびに航空兵力に対する決死的大空襲を敢行せり」であり、戦争の最終号は昭和二〇年八月二六日の「本二六日以降実施予定の連合国軍隊第一次進駐日程中、連合国艦隊の相模湾入港以外はそれぞれ四八時間、延期せられたり」であった。
発表を担当した陸軍の谷萩大佐、海軍の富永中佐の声は毎日のようにラジオから流れ、しばしば新聞に顔写真がのって当時の大タレントとなった。
この大本営発表は、戦後は誤報・誇大戦果・損害隠しの嘘の代名詞のようにいわれてきたが、元報道官の富永謙吾海軍中佐はすべてわが情報力の不足が原因であったと述懐している。
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