新宿区のローカル紙「新宿新聞」9月15日号に「お岩稲荷 菅井靖雄 続・新宿あれこれ」が掲載されましたので転載します。
>文字起こし<
「四谷怪談」とは、実際の事件を元に、戯作者(げさくしゃ)鶴屋南北(つるやなんぼく)が書いたフィクションです。被害者のお岩さんが、幽霊になって加害者の田宮家へ祟るという筋でした。そこで、以後お化けの物語になりました。お岩さんの霊を慰めるため、田宮家敷地に建てられたのがお岩稲荷です。
田宮家は、明治政府の幕臣上地令で江戸を去り、遠州(静岡県)へ行きました。その時お岩稲荷本尊の木像は二体ありましたが、ーつを持参、もう一つは庭に埋めました。江戸が東京と変わって一段落した後、庭の木像を堀出して祠を築きます。このお岩稲荷につて、明治前期の新聞を拾ってみました。
お岩稲荷、八千円の借財で身代限りとなる。(明治九年(一八七六)二月十四日・読売)
府庁から、お岩稲荷の取払い令が出る。田宮弥平太へ懲役三十日申渡し。(明治十年二月一日東京日々)
東京裁判所が田宮重宣へ「奸策を以て、淫祠を立て衆庶を欺いた」として懲役七十日を申渡し。(明治十一年七月十一日・東京曙)
お岩稲荷を田宮稲荷と改称し、十七日に京橋区越前堀の仮殿へ遷座。(明治十二年十二月十二日・朝野)
京橋区越前堀田宮稲荷、フランス巴里のマルード公園へ移す。費用九万円。(明治二十四年三月二十一日・都)
お岩稲荷は、四谷の旧地へ鳥居や土蔵造りの本殿を建て、神体も拵えた。 本年一月、荒木町橘座で坂東鶴之助一座が実録を演じ、評判となる。四谷赤坂の芸者もお岩稲荷に日参、参詣者多く好評を呈す話を聞いて越前堀の堂守が抗議、其の筋が参詣差止め令を下した。(明治三十八年四月二十五日・東朝)
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昭和二十年(一九四五)、太平洋戦争の空襲で、左門町一帯は焼失しました。戦後、田宮家とは関係もない世田谷玄照寺の住職が、田宮敷地の前に立正殿という寺を建て、境内にお岩稲荷を造ります。すると田宮家も対抗して同二十七年、元の敷地にお岩稲荷を復興しました。そこで現在のように、左門町に二つのお岩稲荷が出来てしまいます。
お岩稲荷は、四谷左門町、越前堀、巴里と三ヶ所に分かれましたが、やはり庶民の多くは、事件の舞台になった四谷のお岩稲荷へお参りしたいと思うようです。
◇参考文献
『新聞集成・明治編年史』林泉社
『新宿と伝説』新宿区教育委員会
その他
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(了)