「中村屋のカリーライス秘話」
新宿東口にある老舗・中村屋は皆さんご存じだと思いますが、中村屋は1927年(昭和2)喫茶部をつくり日本にはじめて純インド式カリーライス(カレーライスではない)を紹介しました。今回はその誕生秘話をご紹介します。
梅屋庄吉は孫文らの中国革命同盟会とフィリッピン独立党やインド独立革命党を結びつける役もつとめました。イギリスから一万数千ルピーの賞金がかけられていたインド独立運動の志士ラス・ビハリー・ボースも東京に亡命していました。1914年(大正四)11月末に警視庁はボースに国外退去令をつきつけましたが庄吉は頭山満らと図り中村屋を経営する相馬愛蔵邸に匿いました。当時の新聞は『亡命印度人の失踪』と書きたてたほどです。のちに愛蔵の長女・俊子とボーズは結婚します。
2004年の10月、大崎・O美術館で読売新聞社主催の「梅屋庄吉と孫文回顧展」が開催されました。庄吉のお孫さんである故小坂主和子さん(日比谷・松本楼社長夫人)が「ボース日本滞在13年記念写真」の前で見学に来た武大偉中国大使(現中国外務次官)に「ポーズと俊子さんを引き合わしたのはうちの祖父です」と説明をしていました。相馬邸で潜伏中のボースが本場のインド料理を教えたことから中村屋のインドカリーが誕生したのです。
孫文から絶大な信頼を得ながらも、遺言により名を秘された日本人が日本映画界の風雲児と呼ばれ、日本活動映画株式会社(日活)の創設者となった梅屋庄吉です。
梅屋は、日清戦争末期の1985年、初めて孫文と出会い、孫文の思想に共鳴。梅屋は、広州での武装蜂起に失敗した孫文を日本に招き、映画産業で築いた富から10億円もの大金を孫文の革命工作に注いでいきます。
梅屋は孫文に語ります。『君は兵を挙げよ、我は財をあげて支援す』
日本映画界の風雲児と呼ばれ、日本活動映画株式会社(日活)の創設者となった梅屋庄吉は現在の貨幣価値に換算すると二兆円ともいわれる巨費を孫文の革命運動に提供したのでした。