富士国際旅行社「旅のがっこう」『「戦後」のはじまりを考える 東京連続フィールドワーク③皇居大嘗宮跡とクーデター未遂「宮城事件」の現場を歩く』
7名の参加でしたが、久しぶりのツアーガイドをしました。富士国際旅行社のツアーはイヤフォンガイドなので、50~100M離れてもガイドの声が聞き取れますので、三密にならずコロナ対策になります。皇居外苑レストハウスの昼食休憩の後、添乗員の黒田朝陽さんから富士国際旅行社初代社長柳澤恭雄さんの説明をしてもらいました。
実際に畑中健二少佐から拳銃を突きつけられたのは当時、日本放送協会報道部の副部長だった柳澤恭雄さん(1909~2007)だ。著書『検閲放送』に、そのときの様子が克明に描かれている。
1945年8月15日午前4時すぎ、報道部の部屋に現れた畑中少佐は柳澤さんの胸にピストルをつきつけ「決起の趣旨を国民に放送させろ。させなければ撃つぞ」と言った。異様な目つきだった。柳澤さんは放送させるわけにはいかないと、無言で畑中少佐の目を見つめた。
緊張が続いたあと、やがて引き金の指が緩んだ。「やらせてくれよ、たのむ」と畑中少佐は哀願調になった。柳澤さんは「できないんですよ」と答えた。畑中少佐は軍司令部と電話したあと、ついにあきらめて6時すぎに放送局を去った。
「危険の中で危険を報道し危険をのりこえる。これは使命感であって、ジャーナリストの性である」と柳澤さんは記す。
この事実が明らかになったのは、映画が上映されてから18年後の85年、柳澤さんが「文藝春秋」に投稿してからだ。
戦時中の放送は大本営発表と通信社の原稿をそのまま読むだけだった。柳澤さんは自主的的な取材の必要を唱え戦後、放送記者を公募した。現在のテレビ・ラジオ報道の基盤を作ったのだ。50年にレッドパージで解職されると60年に日本電波ニュース社を設立し、社長となった。
ベトナム戦争の初期、いち早く北べ卜ナムに特派員を派遣したのが同社だ。柳澤さん自身、62年にハノイでホー・チ・ミン主席に会見した。イラク戦争を取材中に殺された報道写真家の橋田信介さんも元は同社のハノイ特派員だった。果敢なジャーナリスト魂の源は柳澤さんにある。柳澤さんはさらに市民が海外を知る必要性を唱え64年、スタディー・ツアー行う富士国際旅行社を立ち上げた。
日本電波ニュース社の石垣巳佐夫社長(77)は「戦車の残骸だらけの地雷原を歩きながら、柳澤さんは道端の花を指して『あれを撮りたまえ』と言った」と語る。NHKの『20世紀放送史』ディレクターの秋山久さん(78)は「一貫した生き方を貫いた人」と評価する。
秋山さんは柳澤さんの意外な発言を覚えている。「畑中が死んでなければ、いっしょに飲みたかった」。柳澤さんは94年に京都府の畑中少佐の実家を訪ね、霊前で冥福を祈った。遺族に聴くと畑中少佐は、実は純朴な文学青年だった。周囲の圧力でいやいや軍人になったのだ。
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参加された島村英子さんから頂いた画像です。東京駅丸の内南口の八角ドームに「十二支のレリーフ(子・卯・午・酉を除く)」が復原したことを説明している管理人。
皇居東御苑の休憩所では、公開展示されている平成度大嘗宮の模型には、白い布がかけられて見ることができませんでした。昨年の12月25日の「大嘗宮見学会」の模様をノートパソコンの画像で説明しましたが、「神座」とか「御衾」とかの質問がありました。しかし「秘すべきことがはなはだ多い大嘗祭」は、天皇研究者ではありませんので納得できる説明は残念ながら出来ませんでした。
見学会は、坂下門から富士見櫓の下を通り、大奥だった場所に造営された大嘗宮を見学しましたが、普段は見ることが出来ない富士見櫓の画像です。
(了)