葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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新紙幣一万円札に沸く渋沢栄一は「朝鮮への経済侵略」の親分だった

2024年07月07日 | 韓国・北朝鮮問題

記憶の継承を進める神奈川の会「第9回戦争の加害パネル展」を観覧しました

その時に、書籍販売の元ほるぷの森さんから購入した「朝鮮銀行 ある円通貨圏の興亡」に、渋沢栄一についての記述がありますので転載します。

 本位貨幣を持たない朝鮮
 「円」の大陸進出はここに始まるのだが、当時の朝鮮の貨幣事情はどんなだったか。大倉財閥を興した大倉喜八郎によると、「日朝修好条規」を結んだあとも、虎伏す荒野のごとと思われていた朝鮮に日本から出掛けていくものは一人としてなく、「終に大久保内務卿から老生を見込んでの懇談あり、修好条規の手前国家の体面にも関することなれば奮て其の衝に当らんことを求められた」という。そこで大倉は、明治九年八月にわが国産品と諸雑貨を満載して釜山に渡航した。 
 「少し値嵩の商売になると叺(かます)入の葉銭(ようせん)を温突(オンドル)の室内に並べて、 一つーつ之を勘定すると云う幼稚さで、手数と時間とを要すること夥(おび)ただどしく、到底敏活なる商取引を期し難く、商売上の不便不利少なからざるものがあった。此に於て老生は銀行の設立を以て日韓貿易発展上最も急要の施設なりと痛感するに至ったので、之を当時の第一国立銀行頭取の・・・・・渋沢栄一君に諮った。渋沢君は克く之を諒解して直に賛成して呉れた」
 叺入の葉銭というのは銅銭で、李朝粛宗四年(一六七八年)以来鋳造された常平通宝が、 総額六六〇万円ほど流通していた。しかし、長い間の濫鋳によってその種類は一五五三種にも及び、また葉銭一枚の一文では役に立たず、多くの場合葉銭一〇〇枚を銭差しに通したものを二〇差し束ねた二貫が授受に便利とされていた。一〇〇文を一両、一〇両を一貫と定め、当時の相場は日本貨二円が一貫すなわち葉銭一〇〇〇枚だったから、「日本貨一チゲ〇〇円相当額の葉銭を釜山等の開港地から奥地に運搬するには担夫三人を要した」という。 
 本位貨幣を持たない朝鮮のこんな貨幣事情では、通商の発展は容易に期しがたかったが、ともかく釜山に銀行を開設して通貨交換、並為替、荷為替の途を開くことが先決だった。

 
 大倉から相談を受けた渋沢頭取は、両者共同出資の釜山交換所設立が政府の許可を得られなかったので、単独で明治十一年三月に第一国立銀行釜山支店を開設した。 
 日本政府も、「我が国の通貨を流通せしめ、朝鮮産出の金を買収せん」と企図していたので、渋沢の願い出を容れて銀貨銅貨五万円を二回と新銅貨一万円を貸下げて、日本の銀行の最初の海外出店を支援した(明治十五年に日本銀行条例が公布されて、各国立銀行は営業しようきやく満期までに発行紙幣を銷却(しょうきゃく)することになり、第一国立銀行は明治二十九年九月に株式会社第一銀行として営業を継続するので、以下第一銀行と略称する)。 

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朝鮮銀行は中国侵略の戦費調達をします。NHKアーカイブ「圓の戦争」は力作です。

「国力をはるかに超えた戦いを続けた70年前の日本の戦争。その戦費は、日中戦争からの8年間で7559億円。現在の貨幣価値に換算すると300兆円。天文学的戦費は、どのように調達されたのか。近年、国内外で“国策銀行”や金融当局の極秘資料の発見が相次ぎ、日本が世界に類を見ない特殊な戦費調達のシステムを作り上げていた実態が明らかになってきた。「マネー」「経済」という全く新たな視点から、日本の戦争を見つめる。」

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(了)

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