葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

パソコン大好き爺さんの日誌。mail:akebonobashi@jcom.home.ne.jp

「朝鮮半島北緯38度線分断過程」の研究

2024年09月16日 | 韓国・北朝鮮問題

Googleマップ

日本平和委員会機関紙「平和新聞」2010年の新年号で政治学者畑田重夫(故人)氏と千坂純事務局長の新春対談が掲載されました。畑田氏が「38度線以南の部隊は大本営直属、以北の部隊は関東軍直属でした。」と朝鮮半島38度線分断の歴史について発言をされています。
管理人は「中国人遺棄毒ガス被害者損害賠償請求裁判」の支援運動にたずさわっている関係で、1945年8月9日のソ連軍参戦時の旧日本軍について研究をしてきましたので畑田先生の発言に疑問を感じました。そこで千坂事務局長に「畑田先生にどのような文献資料から発言をされたのかお確かめ下さい。」とメールを送信しましたところ、畑田氏から私の自宅に直接「文献資料」が郵送されてきました。そこには畑田氏の卒寿記念誌「感動あれば生涯青春」に掲載された論文『21世紀の日本と世界を展望する』と高峻石著『戦後朝・日関係史』他1点のコピーがありました。同封されていたお手紙には『朝鮮問題に関心のある者にとっては常識化いていることなのです。』と書かれていました。(傍線は管理人)

 日本陸海軍事典より 旧日本軍は日露戦争時(1905年)韓国駐剳(ちゅうさつ)軍を設け、『韓国併合』に伴い、韓国を朝鮮に改め、軍も朝鮮駐剳軍に改称、軍司令官は朝鮮総督府の統率下に置かれました。45年2月、対ソ・対米作戦準備のため第17方面軍と朝鮮軍管区が設けられ、朝鮮軍は解消しました。これにより、1918年に朝魚維箭軍司令部に代わって朝鮮軍司令部が倉廠され、この隷下に第19師団(1916年4月一1919年2月)と第20師団(1919年3月の業務開始一1921年4月)があった。朝鮮(駐箭)軍司令部傘下駐箭師団、臨時韓国派遣隊、韓国(駐笥)憲兵隊、鎮海湾難司令部、霊興湾重砲兵大隊、霊興湾要塞司令部、朝鮮(駐箭)陸軍軍楽隊、朝鮮(駐翻陸軍倉庫、朝鮮(駐箭)衛戊病院、朝鮮(駐箭)があった。

朝鮮軍』朝鮮半島に駐屯し、担任地域の防衛に任じた軍隊。1910年(明治43)、日韓併合に伴い、韓国を朝鮮に改め、軍も朝鮮駐箚軍と改称、軍司令官は朝鮮総督の統率下に置かれた。1915年(大正4)朝鮮に常備2個師団の設置が定まり、1921年までに第19・20師団が編成された。1918年(大正7)、朝鮮軍と改称、天皇直隷となった。(中略)1945年2月、対ソ・対米作戦準備のため、第17方面軍と朝鮮軍管区が設けられ、朝鮮軍は解消した。

 森田芳夫「朝鮮における日本統治の終罵」日本国際政治学会編「日韓関係の展開」所収、84ー85頁)によれば、1945年2月11日、大本営は従来の朝鮮軍を解消して第17方面軍と朝鮮軍管区を新設し、第17方面軍は大本営直轄の野戦部隊として朝鮮防衛を担当し、朝鮮軍管区は補充、教育、経理、衛戊を担当することになった。5月28日に大本営は、第17方面軍は南鮮に侵攻する敵を撃滅すること、関東軍総司令官は北朝鮮における対ソ作戦準備を実施することを指示し、6月に東北鮮の部隊が関東軍総司令官の指揮下に入り、また北朝鮮の作戦準備は関東軍総司令官の指揮をうけることになった。このように朝鮮における日本軍は、当時北朝鮮でソ連軍の侵攻に備え、南朝鮮で米軍に備える体制をとったが、ソ連軍の進撃が始まった8月10日には、大本営の命により第17方面軍は関東軍の序列に入り、7日に成興に設けられた第34軍をその指揮下に入れ、その他管下の師団にソ連軍迎撃の移動を命じた。

 平凡社刊 李景珉著「増補 朝鮮現代史の岐路 なぜ朝鮮半島は分断されたのか」の「日本軍の態勢」には、1945年8月の時点で、北部朝鮮には関東軍隷下の第34軍が威鏡北道の羅南(現在、清津直轄市に合併)と威鏡南道の威興、定平に司令部を設置し、臨戦態勢を整えていた。そして平壌などの主要都市には、第17方面軍指揮下の一部の野戦部隊と、補充・教育・経理・衛成を担当する朝鮮軍管区司令部の部隊が駐屯していた。 一方南部朝鮮では、天皇直隷の第17方面軍および朝鮮軍管区総司令部がソウルに置かれ、対米作戦に当たる第17方面軍の野戦部隊の主カは済州島に、そしてその一部は全羅北道の井邑、裡里に、また釜山には独立混成旅団が駐留していた。8月9日、日本軍参謀総長梅津美治郎は、「関東軍は主作戦を対ソ作戦に指向し〝皇土朝鮮〟を保衛する如く作戦す。此の間南鮮方面に於ては最小限の兵力を以て米軍の来攻に備ふ」との命令を、関東軍総司令官山田乙三および第17方面軍・朝鮮軍管区司令官上月良夫に発した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

畑田重夫氏も「38度線以南の部隊は大本営直属、以北の部隊は関東軍直属でした。」と朝鮮半島38度線分断の歴史を語っています。

陸軍北方部隊略歴目次」には、「六 朝鮮軍(除南鮮部隊)」とありますので「北鮮部隊と南鮮部隊」があったと思われます。

 

中公新書刊 麻田雅文著「日ソ戦争 帝国日本最後の戦い

「第2 章 満洲の蹂躙、関東軍の壊滅 」 米ソの角逐の始まり 
 朝鮮半島の占領の経緯を追うと、これまでの通説は見直す必要があることに気づく。 
 第一に、朝鮮半島におけるソ連の発言力を確保するため、あるいは朝鮮半島を日本の植民地支配から「解放」するため、スターリンは朝鮮半島への進撃を急がせたといわれてきた。しかし、実際には朝鮮半島の占領より満洲で関東軍を包囲繊滅する作戦が優先され、朝鮮半島は後回しだった。 
 第二に、アメリカはソ連軍の進撃の速さに慌て、北緯38度に軍事境界線を設けたとされる。だが、ソ連軍には朝鮮半島を南下して占領地を拡大するという作戦計画は当初なかった。 アメリカが北緯38度線以北をソ連に委ねてから、ソ連軍はあわてて朝鮮北部を占領したというのが実情である。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平凡社刊 李景珉著「増補 朝鮮現代史の岐路」

 第七章 北部朝鮮における8・15 ソ連軍進駐と朝鮮の解放

38度線の線引きはなぜ 
(前略)ところで、ソ連に対して北緯38度線による朝鮮半島の分割占領を提案したのは米国であった。米国は、日本の突然の降伏によりク力の真空状態4に陥った朝鮮半島に対して、とにかくソ連勢力の南下を食い止める必要に迫られた。また、この間東欧諸国におけるソ連の動きを目のあたりにしたばかりの米国には、ソ連に対する不信感が強まっていた。アメリカは慌てて、38度線による分割占領を提案したのであった。しかしソ連はそれ心冥議を挟むどころか、あっさりと受け入れたのである。1945年8月10日から11日の深夜、米国の国防省の一室で一般命令第1号の草案作成に関わった人物の一人であり、のちに国務長官を務めたラスク(DeanRusk)は、当時を振り返って次のように証言している。
  「・・・・ 朝鮮とその周辺における米ソ両軍の位置からして、ソ連がその線を南に下げるよう主張すると思っていたため、ソ連が簡単に受け入れたときには、少なからず驚いたことを今も覚えている。」 
 ラスクがソ連側の思いがけない対応に驚いたというのは、米国提案の北緯38度線が「米軍が現実的に到達しうる軍事的限界をはるかに越えた北寄りの線」であったからである。まさしく米国は、朝鮮が単一民族によるーつのまとまった社会であることを十分承知したうえで、ソ連勢力の南下を封じ込めたい一心から、朝鮮民族に将来及ぼすかもしれない結果を考えることもなく、38度線を引いたのであった。 
 さて、それでは一方モスクワでは、時を同じくして何があったのだろうか。この年の6月30日から、ポツダム会談を挟み前後三週間にわたって、ソ連は中国の国民党政府と中ソ友好同盟条約を締結すべく交渉を行っていた。そして8月14日、ソ連はついに中国との条約調印にこぎつけた。これでソ連はヤルタ協定で米国とイギリスの承認を得た諸権利のうち、満州地域におけるソ連の積年の利権、例えば「中国長春鉄道」の経営権や大連港・旅順港の使用権などを掌中に収めたのである。そしてその翌8月15日、ソ連は米国から一般命令第1号の草案を受け取ったのであった。 
 米国の草案では、日本軍の降伏を受理するためにソ連軍は北部朝鮮を分担するよう求めていたが、それは、その地におけるソ連の〝占領権〟を米国が事実上認めたことを意味した。それこそソ連にとっては意外なことであった。前述のごとく、スターリンは中国における利権をもぎ取った直後だけに、これで朝鮮半島の一部も確保でき、内心まずまずの内容であると受け止めていたのかも知れないのである。しかし、ソ連はさらに欲を出して日本の占領にもぜひ加わりたいと考え、北海道の釧路と留萌を結ぶ線から以北の占領権を要求したが、これはアメリカの強い反樹で実現しなかった。 
 当時のスターリンの胸のうちを史料にもとづいて論ずることは困難である。しかし、ソ連の対応に関してはさまざまな推測が可能である。例えば、ソ連は日本軍の戦力を過大に評価し、その抵抗はまだしばらく続くであろうとみていたとか、朝鮮の南部を放棄する代わりに日本への進出を企図したとか、さらに朝鮮に対しては、信託統治案が取沙汰されていたので、ソ連はあえて無理な要求をせず米国案を受け入れたのではないか、などである。あるいはスターリンは、朝鮮半島に米軍が入って来ても、それによって北東アジア全体におけるソ連の基本的な安全保障上の利害が損なわれないかぎり、また米ソ協調関係を大事にするうえでも、米国案でよしと考えたのかも知れない。 
 以上のような推論は、そのいずれもが可能性としては十分ありうることであった。しかし重要なことは、朝鮮半島は当時ソ連が描いていた戦後世界の全体像のなかの単なる一部分であったということである。ソ連が対日参戦に踏み切ったとき、ソ連軍にとって朝鮮半島は軍事作戦上副次的地位を占めるにすぎず、そもそも全面的に進攻する計画をもっていたのではなかった。ソ連軍の主力部隊は、満州の日本軍を撃滅させることを第一の任務としていた。そして、満州進攻作戦の一環として、日本軍の退路を遮断する目的で、ソ連軍第一極東方面庫配下の第25軍と太平洋艦隊の一部が、朝鮮半島の北端に侵入したのであった。 
 問題は、日本の降伏の報が流れた後、ソ連軍がただちに朝鮮半島に食指を動かし、一貫した朝鮮政策を立てたのか否かである。たしかにソ連は、朝鮮に対する地政学的利害を瞬時とも忘れてはいなかっただろう。しかし、当時ソ連の外交政策の中心が東欧諸国に置かれていたことを考えれば、そうした政策の転換がはたして可能であったかは、はなはだ疑問である。要するにソ連は、戦争終結後の朝鮮半島に生ずるであろう政治状況についての考慮をあまりせず、米国の提案を抵抗なく受け入れたのではないだろうか。換言すれば、米国のほうがソ連以上に朝鮮半島の政治的な意味を重視していたのであった。いずれにしても、その真相はその後のソ連の対応のなかで明らかになっていくことになる。 

同じような記述が『「連合国の朝鮮戦後構想と38度線」李 圭泰(一橋論叢 第108巻 第2号 1992年8月号)』にもあります。

 1950年7月12日付きの覚え書きにまれば、当時国務省の極東問題次官補たったラスク(DeanRusk)は、歴史政策研究課長ノブル(G. Bernad Noble)の38度線に関する質問への答弁の中で、その画定模様について次のように証言した。8月10日から11日の問、国務省のダン(James C.Dunn)、陸軍省のマックロイ(John J. McCly)、海軍省のバード(Ralph Bard)の3人はペンタゴンのマックロイの部屋でのSWNCCの徹夜会議を開いた。議題は日本の降伏処理に関するものであり、 マックロイはボンスティール(CharIes H. Bonesteel)大佐と自分に隣の部屋にいって、米軍ができるだけ北上して降伏を処理するという政治的希望と米軍進駐の明白な限界を調和させる案を作成してくるように指示した。そこで2人は「ソ連が同意しない場合、米軍が進駐するのは現実的に難しいと考えたが、米軍責任地域内に朝鮮の首都を含むのが重要である」と考えたので、38度線を提案したという。彼らに与えられた時間は30分であり、利用した地図は手もとにあった壁掛けの小さな極東地図で、北緯38度線はソウルを通るばかりでなく、朝鮮をほぼ同じ広さの2つの部分に分割していることにボンスティールは気づいていた。 
 このように38度線は、原爆の投下とソ連軍の参戦によって戦況が急激に変化していったあの8月の半ば、30分という短い時間のうちに、手元にあった壁掛けの小さな極東地図を利用して出来うる限り北方に位置する線、しかも首都ソウルを米占領地区に含む線として選ばれ、それがそのまま米ソ分割線になってしまったというのがその確定過程だったのである。 

法律文化社刊 愛知大学国研叢書4 藤城和美著 「朝鮮分割 ー日本とアメリカー」には、鋭い批判論考がありました。

第三章 38度線分割 「一 降伏接受線論」「二 政治的背景」(ラスクの発言もあり)は、略します。 

三  降伏接受線論批判 
 38度線を日本軍の降伏接受線だとする公式見解に明確な批判を加えているのは、朝鮮人研究者による論文である。 
 李用煕「38度線画定新攷」1965年「亜細亜学報」第一輯は、38度線をポツダム会談中にソ連参戦問題と密着して設定された米軍の作戦管轄区域とみて、日本の降伏によって突発的に構想された技術的な降伏接受線とする米国の官吏や学者の見解は、その意義を極小化し、塗抹しようとするものだ、と批判している。38度線は一般命令第1号が起草された時まで論議されたことはなく、降伏接受という便宜的分担線を供与するという以外の考えはなかったとするウェッブ声明やトルーマン回顧録の叙述にたいして、正面から疑問を投げかけその矛盾を追求しているが、とくにトルーマンの叙述の中の米占領地区にソウルが含まれていたことを特記している点を把えて、このことは、ポツダム会談中に検討した米軍の朝鮮進行計画がソウル周辺の管轄権を含んでいたこととの関連を物語るものだ、という。 
 李用煕は、ポツダム会談(7月17日ー8月2日)当時参謀陣によって作戦管轄区域問題に備えて38度線に接近した分割線を設定したとする根拠のーつとして、R・E・アップルマンの著述の一文を紹介している。アップルマンは、朝鮮における軍事境界線についての米軍部の考慮は、1945年7月のポツダム会談で始まった、として次のように書いている。ポツダム会談当時マーシャル元帥は米陸軍作戦部長ハル中将に朝鮮への軍隊移動計画を依頼し、ハル中将とその麾下の作戦参謀は米ソの陸軍分割線を決定するため朝鮮地図を研究した。そこで彼らは最小限、釜山、仁川の二大港が米軍地域に含まれねばならないとして、すでにポツダムでほぼ38度線に沿ったソウル北方の線を作定していた。しかし、米ソ代表はポツダムで軍事会談中に分画線を提示し討議することはしなかった、というものである。この叙述は、アップルマンが1952年8月1日ハル将軍とインタビューを行った内容にもとづいている。 
 李用煕は、半島分割線が考慮されたのはポツダム会談中の米参謀本部によってであって、その時期は少なくとも7月27日以後でないことは確実である、と主張している。その根拠としては、アップルマンの叙述のほかに、ポツダム会談中の米ソ軍事指導者の協議による作戦分担区分の取決めに関連した軍事的要請があげられている。米ソ軍事協議において海上、潜航、空中の作戦分担区域が協議されたが、米案の潜航作戦の基点が朝鮮半島38度線であったが、ソ連側対案によって北進し舞水端(北緯40度49分5大秒線)に確定された。したがって米軍の分担区域は拡大された。空中、海上、とくに海上は米側区域は縮小され、総体として沿海州近辺、朝鮮成鏡北道の大部分、内蒙古外廓がソ連作戦区域として確保された。要するに朝鮮半島の大部分が米海空軍の作戦の影響下におかれた。陸上作戦については、米ソ軍事協議でソ連参謀長アントノフの質問にたいして、マーシャルが九州上陸作戦を優先するという理由で米上陸作戦を否定しにもかかわらず、軍事上の要請として条件が整えば朝鮮半島進駐も要求さるべきもの、と考えられている。 
 また、ポツダム会談当時対ソ警戒論が強まる中で米指導層によってソ連参戦不要論が展開されたが、ソ連の参戦が米側の意思で阻止できないとの判断のもとに、日本降伏を前提としてソウル、大連の占領計画が米軍部によって検討された。李用煕は、ポーレイ駐モスクワ大使の、賠償問題に関連して米軍による韓・満工業地帯の占領を勧告した書翰と、ハリマン駐ソ大使の、中ソ交渉との関連で米軍による関東半島と朝鮮における日本軍降伏接受を勧告した電文を取り上げ、とくにハリマンの電文の中にある、ポツダム会談当時ソ連軍占領前の朝鮮と大連への米軍上陸が提議されたというマーシャル将軍とキング提督の会話を、統合参謀本部の降伏後進駐計画準備指示と、ハル中将朝鮮進入計画と関連があるもの、と正当に指摘している。ここでふれられている降伏後進駐計画準備指示とは、ポツダム会談中すでに統合参謀本部は日本の降伏または崩壊を予想した降伏手続、占領などの準備計画を指示していたものである李用煕は、ポッダム会談終了前に統合参謀本部は降伏接受手続を討議決定したか、討議開始または討議準備を完了したものとみて、その中に韓半島進駐計画が含まれていることは確実である、とする。 鄭鎔碩『美国의 対韓政策 1845ー1980 」(増補版)、同「38線画定과 美国의 責任」(新東亜、1971、8月号)も、アメリカの朝鮮分割計画がソ連軍の進撃と直接関連なく、 一般命令第1号が起草された8月11日以前に進行していたとみている。鄭鎔碩によれば、マッキューンやグレイの論文のように38度線画定が8月8日のソ連軍進撃以後とする解釈は、38度線というものはソ連軍の朝鮮半島支配を阻止するための米国の「被動的」措置であるという結論を生みだしたのである。しかし、戦後日本管理についての米政府の立場は、 一般命令第1号が起草される以前に国務、陸、海三省調整委員会によって作成されていたのであって、一般命令第1号はすでに「決定された政策」に従っただけである。したがって、38度線は一般命令第1号草案がバーンズ国務長官に伝しかえない、と鄭鎔碩は主張している。 
 鄭鎔碩によれば、38度線以南の米軍占領計画をソ連の南下阻止のための軍事的措置とするグレイの見解も、マッキューンと同様、政治的側面の分析を避けた点で批判を免れない、とみられる。グレイもマッキューンも、その関心は、ソ連の進駐後に集中しており、そのために韓国分割の策略は、ソ連軍の進入開始後にはじめて韓国の半分でも取り戻そうとする緊急の対応措置としかみられていない。このような解釈は、源泉的な韓国分断の責任はソ連の進出にある、ということを意味するものであり、「先ソ連攻勢、後米国防禦論」を主張する「マッキューン=グレイ」理論が、米国と韓国学界の正統論として支配的になった、という。しかし、このような理論は、ただ軍事的側面からだけの分析に局限されたものであって、政治的側面からみるときは、むしろ「先米攻勢、後ソ連黙認」の関係とみられなければならない。
 6月18日の軍指導者会議における統合参謀本部の政策建議書や7月24日の米ソ軍事指導者協議におけるアントノフの質問にたいするマーシャル発言にみられるように、満州と朝鮮における日本軍の平定をソ連軍に委ねるという情勢分析と方針は、公式には変更されなかった。しかし、「米国は、韓半島に対するソ連単独行動がソ連勢力扶殖の手段として利用されないよう牽制しなければならない」というソ連牽制論と、ソ連以外の連合国軍隊の朝鮮作戦への参加の主張は、ポツダム会談を通じて国務省、軍部内に存在した。米軍の朝鮮半島上陸問題は、カイロ、ヤルタからポツダムへと一貫して強まって来た対ソ、対中警戒論に基づく米軍の一方的計画であって、したがってポツダム会談で提示されなかったのである。可能なかぎり米軍を朝鮮に上陸させる構想は、しかし、実際上日本本土上陸作戦の負担で実践困難と考えられた。原爆投下がこの実践上の因難を取除いた。九州上陸作戦は不要となり、朝鮮派兵の余裕が生れた。 
 「日本本土上陸作戦の負担から免れた米国指導者たちが、彼らの関心をめぐらさなければならなくなった地域が韓半島である、と推測することは困難ではない。中ソの歴史的対韓支配欲をそれほどまでに懸念してきながら、ただ日本本土上陸作戦という重い負担のために米軍の韓半島進駐を保留してきた米国指導者たちは、今やすぐ韓半島に米軍を進駐させることができるようになった、という自信を持つようになったのは避けられなかった。 
 このようにして、米国がソ連の感情を傷つけない範囲で米軍を韓国に進駐させることができるようになった、と思われる。その代案として米国は韓半島を適当に二つに分ける38度線をもっとも安易な方法と考えた、と推測されこのような分析から鄭鎔碩は、38度線決定の日付を、スチムソン陸軍長官が一般命令第1号の草案を提案した8月11日以前、原爆投下の8月6日の間に確定されたと推定している。 
 李用煕も鄭鎔碩も、38度線問題を戦後処理問題にからんで展開された米国の対朝鮮政策の一環と把えている点に特徴的視点がある。 
 李用煕は、ソ連参戦をめぐって米国の対朝鮮政策の基本的観点を、「朝鮮はその国際政治上の性格が国際的であって、日本は敗亡によって影響力を喪失したとしても、それに代るソ・中の『伝統的利害』が作用するだろうから、単一勢力による朝鮮軍事占領は重大な政治的逆効果を招くだろう」という、言わば朝鮮半島を諸勢力の利害が交錯する「緩衝地帯」、軍事的には 「連合国共同作戦地域」とみなした、とする。国務省の四カ国国際信託統治案はこの精神にもとづくものと理解され、38度線も、「東欧の事態に鑑みソ連占領地区の経済的政治的結果を回避し、信託統治の合意が成立するまでの暫定措置」だと説明する。鄭鎔碩は、カイロ会談を起点として米国は朝鮮問題を副次的従属的位置から独自的位置に転換させた、とみる。米大陸の征服を完了した後、太平洋支配を国家使命とした米国は、日本軍を敗退させるとともに戦後支配体制の一環として「韓国独立」を考えるようになる。朝鮮半島が外勢干渉と強大国の角逐の場にとどまれば、米国の湖水、太平洋の安全は脅威にさらされるであろう。したがってルーズベルトは 「韓国の安全」と米国の「太平洋圏の安全」とを連結させた大統領であり、 1943年カイロ会談において米国の国家利益は安保という観点で「韓国の安保」と一致したのである。こうして米国の「対韓関心度」は米国の太平洋の地位の伸張に比例して増大していく。カイロ会談以後の米国の朝鮮政策について、鄭鎔碩は、これを19世紀末以後中国に適用した「門戸開放」政策の原則に準拠したもの、すなわちいろいろの国を韓国問題に相関させることによって、「韓国の安全が勢力不均衡によってこわれないようにしようという『門戸開放』政策」と説明する。この場合「門戸開放」は商業権の保障に代る「同等の行政、政治への参与」という意味に転換されている。こうして、米国は少なくともヤルタ会談までは朝鮮分割を考えていなかったとし、この点でヤルタ会談で米英仏ソ4国による分割統治を確定したドイツの場合と、統一占領区域として推進した朝鮮とのちがいが指摘される。米指導層にとってドイツが2度と大戦をひきおこさないようにゲルマン民族の力を分割する必要があったのに対して、韓国の場合その 「国際的性格」への考慮と「自治能力」への不信、「自衛能力の欠如」への懸念によって、米国は統一占領、国際共同統治の構想を追求する。しかし、38度線の設定は、このような米国の対韓政策に歴史的転機を画するものとなった。38度線以南への米軍の進駐は、「以南の安保が米国の太平洋安保に直結されたことを意味する」のである。
 李用煕や鄭鎔碩の米韓関係史の解釈にはいくつかの保留,補足が必要であると思われる。しかし、38度線設定について単に公式声明の引用にとどまらないで、その背後に潜む歴史の文脈を探り出そうとする精神は認めざるを得ない、と考える。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(完)

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 石川県出身の関取「輝・大の... | トップ | 娘夫婦と孫娘が敬老の日を祝... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

韓国・北朝鮮問題」カテゴリの最新記事