日清開戦に先立つ明治27年7月27日、当時の甲武鉄道会社は、陸軍砲兵工廠から青山練兵場(現在の明治神宮外苑)への軍用線約6・4キロと軍用停車場の建設を依託された。それは一ヵ月半という短期間の期限つきであった。甲武鉄道は昼夜兼行、全力をあげて工事をすすめ、同年9月27日に完成した。そしてその6日後に、日清戦争にむけて軍隊輸送が開始されたという(『日本国有鉄道百年史』第3巻)。いうまでもなく、この青山軍用停車場は、東京へ集結する軍隊を受入れて送り出しを実施するのには、極めて好都合であり、かつ重要であった。しかも、品川経由の新橋・赤羽間の連絡は、品川線でスイッチバックをしていたため、この青山軍用停車場から甲武・日本鉄道を経由して、東海道線に直通運転をする必要が高まってゆくのにつれて、陸軍省の依頼で日本鉄道品川線の、品川と目黒の間の大崎から分岐して、東海道線品川と大森との間の大井に至る1・4キロの短絡線の建設が計画され、明治27年7月に起工して、8月下旬に竣工した。これを品川西南線とよんだ。なお、この短絡線は貨物運輸営業に利用していたが、大正5年(1916)4月15日に廃止している。「湘南ライン」は、大崎駅から分岐したそのポイント線路を利用しているのである。(『日本国有鉄道百年史』年表、『汐留・品川・桜木町駅百年史』)。
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