安倍首相は 靖国神社の参拝後に談話を発表しました。その中に『また、戦争で亡くなられ、靖国神社に合祀(ごうし)されない国内、及び諸外国の人々を慰霊する鎮霊社にも、参拝いたしました。』とありました。「みんなで靖国神社を参拝する国会議員の会」の国会議員や閣僚などが、8月15日や春秋例大祭に靖国神社を参拝していましたが、鎮霊社を参拝したのは安倍首相が初めてではないかと記憶しています。(鎮霊社を参拝するように、入れ知恵をしたのは誰だろうか?)
鎮霊社がつくられた時期は、日本遺族会や神社本庁が靖国神社国営化運動を推進中の、東京オリンピックの翌年でした。必ず靖国神社の合祀者は戦死者だけではないか。官軍兵士だけではないかと論議されることが想定されますので急いで創建したのが鎮霊社だと言われております。あえてつくらざるを得なかったのは、靖国神社創建の歴史と体質の弱点をそのまま放置できずに、とりつくろう必要があったためと推測できます。昭和44年第61国会に自民党が靖国神社法案を提出しました。
靖国神社公式 web サイトの「境内のご案内」から画像を見て頂ければお分かりのように小さな小さな祠なのです。(以下撮影は管理人)
神道では御霊代(御神体)に神が宿ることになっています。靖国神社は剣(つるぎ)と鏡と言われています。ところがこの鎮霊社の御霊代(みたましろ)が何であるか一切明らかにされていません。「靖国神社に合祀(ごうし)されない国内、及び諸外国の人々」の祭神名を書き記した名簿(霊爾簿)またはお札も明らかにされていません。
【注】祭神 附御霊代
『靖国神社誌』1909(明治44)年12月26日靖国神社・発行
(略)而して祭神生前の官職・身分等をいへば、陸軍の所屬あり、海軍の所屬あり、維新前後の殉難死節の士あり、地方官・警察官あり、公卿あり、藩主あり、士あり、卒あり、神職あり、僧侶あり、婦人あり、農・工・商あり、苟しくも帝國臣民にして、叡慮を奉體して、國家の爲めに忠節を抽んで、高潔なる大精神を發揮するに於て、何ぞ貴賤上下の別あらむ。わが祭神の、あらゆる階級・職業の代表たるは勿論のことなりとす。
御靈代は、神劍及び神鏡にましまし、神劍は、明治二年六月、栗原筑前の鍛造し奉る所、神鏡は、製作者未詳なれども、明治元年六月、舊江戸城大廣間招魂祭の時、神籬に奉懸せし靈鏡に坐せりとぞ。内殿の左右の靈床に、副靈璽として、官位・姓名を列記せる卷物・牒册を奉安す。卷物は、明治五年五月六日を以て、始めて之を内陣に納め、爾來、合祀祭の度び毎に納められしが、明治三十八年、第三十一囘の合祀祭より、之を牒册に改められたり。而して別に一本を社務所に藏す。所謂祭神帳、之なり
さらには鳥居がありません。天の岩戸の前にいた「常世之長鳴鳥(とこよのながなきどり)」の止まり木であり、「神域に入る人間のための入口」であることを表すのが鳥居です。
靖国神社自身が鎮霊社に安倍首相の参拝によって国民とマスメディアのスポットが当たるのは嫌がるはずです。なんとなれば非公開だった鎮霊社は、2006年(平成18年)10月12日から一般参拝が可能となりましたが、午前10時から午後4時までしか通用門が開らかれていない、そして鳥居もないという「冷たい扱い」をされているのが実状の鎮霊社なのですから・・・。(神門の開門時間通年午前6時。閉門時間1、2、11、12月午後5時。3、4、9、10月午後6時。 5月~8月午後7時。)
しかも靖国神社放火未遂事件以後、警備上の理由から通用門は閉じられて一般参拝はできなくなっています。昨日は衛士が特別に鍵を開けたのでしょうね。【注】靖国神社の警備職員は「衛視」ではなく「衛士」と呼びます。
鎮霊社について、靖国神社編『やすくにの祈り』はつぎのように説明しています。
「昭和40年7月13日、嘉永6年(1853年)以降、戦争・事変に関係して戦没し、本殿に祀られざる日本人の御霊(みたま)と、1853年以降、戦争・事変に関係した世界各国すべての戦没者の御霊(一座)を祀る鎮霊社を、元宮南側に建立した。この中には・・・・・・官軍に敗れて会津若松の飯盛山で自決した会津藩白虎隊の少年隊員や、・・・・・西郷隆盛らも含まれる。また、諸外国の人々では湾岸戦争や最近のヨーロッパ・ユーゴのコソボ自治州での紛争犠牲者など全ての戦没者が含まれる」
↑ 拝殿前の玉砂利広場左側の通用門を入ると、一番北側にあるのが「元宮」です。直ぐ右隣は拝殿から本殿への渡り廊下があります。元宮の南隣にあるのが「鎮霊社」です。
↑ 一番南側にあったのが「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」です。通用門が出来るまでは鉄柵の出入り口の鍵を衛士に開けてもらってから見学をしていましたが、現在は、韓国から北朝鮮に返還されて空き地となっています。
「旧日本軍『戦利品』皇居に1世紀」という見出しで、日露戦争後、旅順から戦利品として運ばれ、明治天皇に献上された「鴻膿井碑(こうろせいひ)」が皇居内の吹上御苑に保管されていることが報じられました(朝日新聞/06年5月28日)同じ時期に、同じように戦利品として献上された後、靖国神社に下賜されたものに「北関大捷碑」がありました。【参照】半月城通信
皇居吹上御苑には、1896(明治29)年に明治天皇の命によって総檜造り校倉風(あぜくらふう)の振天府(しんてんふ)がつくられました。日清戦争献上戦利品の収蔵庫です。その後、義和団事件や日露戦争の戦利品が続々と届き、第二~第五の振天府(御府)をつくっています。
東洋史研究者の後藤均平は、「壬辰倭乱で日軍が負けた北関大捷碑のごときは、朕は置きとうない、とて、一瞥(いちべつ)して靖国社に払い下げた、ヤスクニとて迷惑である、戦勝記念館(遊就館)には納れたくない、そこで築地(ついじ)のかげの、人目につかぬ場所に据えた、というのが真相だろう」と書いています(『季刊 青丘15』93年春号)。新遊就館の建設にともない、拝殿南の鎮霊社隣に移されていました。【参照】ブログ記事「敗戦記念日に宮内庁で再び情報公開開示」
「振天府」の写真撮影は宮内庁から許可されなかったので、日本建築学会データーベースから有料でしたが提供してもらいました。来年は、「天皇の傘寿」を契機に皇居内が公開されるようですが「振天府」「建安府」などの倉庫群も公開して欲しいですね。
06年10月12日に外務省・在日韓国大使館・靖国神社から代表が出席し、同碑の返還式があり、韓国を経て北朝鮮に引き渡され「建立の地・吉州(キッチョン)」に戻りました。
参考文献
平和文化刊『学び・調べ・考えよう フィールドワーク 靖国神社・遊就館』